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『文才』とはなんぞや。

今、『文才』というのがどういった才能なのか。
すごく考えている。
というのも、大学の卒業論文を目下熟すべき課題として抱えているからだ。

まず、文章を書いていて強く感じる事は「日本語を正しく扱えているか。」である。
俗にいう「ら抜き言葉」や「である調」の統一などは気が抜けば出来ていないこともしばしばある。
(今は特に便利なので、Wordなどを利用していれば間違い箇所に波線が出るようになっていて、間違いに気づきやすいが。)
しかし、これらが完成されている文章が読み易い文章かと言われればそれは違う。

本当に読み易い文章とは、「前提知識の無い読者においても一読で理解できること」が大変に重要と感じる。
それを最も強く感じるのは賢い方の執筆された論文もさることながら、良き小説である。というのも、良い小説は途中で読みやめて数日経っても途中からすんなりと再開することが出来る。そうでない小説は、出来ない。
(個人的にはその最たる小説家は森見登美彦氏と感じる。完全に好みである。)

これまで、私はひらがなもカタカナも漢字も習い、文法も学習した記憶が脳みその隅っこの方にぼんやりと残っているが、読み易い文章の書き方を習った記憶は少しもない。もはや、ない。
それゆえか、私の周囲でも文章力の差はひどくあり、それが大学などではレポートの点数の差として表れているように感じる。

例えば、友人はあるレポートの中で「貧乏を脱する手段は3つある。貧乏を耐えるか、金持ちになるか、出家するかである。」という文章を書いていた。私は、「貧乏を脱する手段」の中に「貧乏を耐える」という選択肢を入れてはいけないと感じた。だって、貧乏を耐えている人は貧乏を脱していないから。しかし、友人は間違っていないと言い張った。むむむ。
この場合、私であれば友人の文章を初見した際、文章を読み返す自信がある。それは自分言うところの読み易い文章の定義から外れるのである。

これが、友達同士のお手紙交換(もといLINEとか)ならいいが、レポート、ましてや卒業論文ともなると、一抹の不安を感じてしまう。

しかし、私はなにも「今の若者は言葉の使い方が・・・」というような若者文化を憂いているわけではない。(なによりも自分が若者と思ってるし。)ただ、卒論はやく終わらないかなあ。と思っているのである。

ところで、
ぜひに『文才』を否応なしに感じさせてくれる小説を知りたく思います。ここまで読んでくださった方。どうか。
そして、この文章に文才の欠片もないことは重々承知の助でございます。

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