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不器用な先生 589

前回

「ぼくが初めて『エミール』を読んだのは二十歳になろうとする頃でした。ちょうど今のみんなと同じくらいの頃です。そのころのぼくはフランス文学の翻訳家になるつもりで、教師になるつもりなんかまったくなかったのです。そんなぼくが『エミール』を手に取ったのは、カントが寝食を忘れるようにして読んだという話を聴いたことが縁でした。少し遊び心もあったと思います。でも読みはじめるとそんな気持は消えてしまいました、そこには教師とエミールの交流が書かれているだけだったからです。教師はエミール自身が自分で考えるように仕向けますが、何ごとかを天下りに教え伝えようとはしません。これが教育に関する名著と言われるのは本当なのだろうか、とさえ最初は思いました。でもエミールが間違いを犯したときに自分のこととして考える教師の姿を知ったとき、思ったものです。これこそが教育なのだと。それまでは教師という職業を嫌悪さえしていたぼくですか、人間同士の交流として互いに学んだことを注いでいくことに教育の意義があると思えたのでした」

 環が「ふーん。そうだったの」ってぼくを見つめている。そんなことを意識していけないとは思うのだが、気持ちのどこかに今回の『エミール』読後感の発端が環にあることを確信しているからに違いない。

「そうして、思ったものでした。『エミール』にカントが感動したのは、何事も自分で考える人間を育てる重要さを、ここに観て自分の考え方に似たものを発見したと思えたからではないだろうか」
 いや、こう言い切ってはならかった。この段階のカントは自身の考察の方向を探っていた段階ではないかとも、思えるところもあったからだった。

「少し結論を急ぎ過ぎたようです。カントは『エミール』のなかに自分の方向性の指針があるように思えたのではないかと思うのです。カントが『エミール』を読んだのは一度だけではなかったと思えるのです。カントの最も重要な作品である『純粋理性批判』の完成に至るまでに何度も読んだのではないかと思われてならないのです。ぼく自身がフランス文学から離れて哲学を志したときにも『エミール』を再読しました。カントの批判精神の根源が『エミール』にもあると思えたからです。人間にとって重要なことの一つに『批判精神の所持』があります。すべてを批判することを可能とする精神です」
 学生たちが驚いたような顔をしている。ぼくがいま語っていることも批判しなければならなのだろうかと、そう思っている学生もいるはずに違いない。

「ぼくが今ここで話していることも、ただ聴いているだけでなく、ほんとうにそうなのかと考えることも重要なことなのです。保守的な考え方する人の中には、正当な提言を反対意見としかとらない人が多くいますが、批判が伴わない定言は変革に値しないものだということに気づいていないからです。世の中が停滞していると言われる最近ですが、それは批判精神を封じ込めて、変革の意思を閉ざした結果だと言えるでしょう」

つづく

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