お役目と気づき

一昨年の夏に私は急性腎不全、しかも末期になり死線を彷徨う事となった。
その数ヶ月前から症状はあったのだけど、コロナ禍で生活資金も底を着き、自分に対しての医療費を全く割けなかったので私も妻もただ死期を待つ感覚で日々を過ごしていた。
それでも肺水腫?で、横になると溺れるような症状が酷くなり、異常な浮腫みと動悸が日々日常的に襲い、妻にシッカリと頭を下げて病院に担ぎ込んでもらった。

当直の医師からは「後3日で乗るクルマが違ってたね」と言われるほど酷く、クレアチニンは14を越えて、心胸比は測定不能状態だった事を後で知った。
そこから緊急入院と緊急透析、更にシャント造成と一ヶ月半に及ぶ入院生活となり、妻は会社の取り回しと入院費などを掻き集めるのに必死となり、私は完全に生きる希望や未来、そして人生を賭けてきた会社経営の終焉を感じ、生きる事の意味を見失っていた。
ただ既に一人暮らしで苦労していた息子や妻と娘を思う気持ちだけがただ私を生かしていたように思う。

退院しても私の未来予想図は確実に死期の逆算をして過ごしていた。
「あと5年くらいかな?」
とそれまでに何とか子ども達にだけでも何か残せないか…や自分の命と引き換えに妻や家族に未来を残せないか日々考えていた。

そんな時に、ある晩の夢に父方と母方の祖父母や家族として長年一緒に連れ添っていた3匹のワンちゃん達が出てきた。
彼等は何かを語るわけではなく、ふと、
「あ、お迎えかな?」
なんて思うほどだったけど、あの笑顔や仕草は決してそういったものではなかった。

「生きなさい」
「まだ学ぶべきやれることはあるよ」

背中を押された気持ちになり目が覚めた。
あんなにハッキリと見た夢などなく、多分夢ではなかったと思う。

私は死期から逆算して何かを残そうとしていたけど、祖父母やワンちゃん達はある意味で真逆な提案をしてくれた。

「死ぬまで生きろ」だ。
「死ぬまでに何かをする」のとは真逆の思考で、その事はダメ押しでその後に出会ったスピリチュアルカウンセラーさんにもシッカリと指摘された事でもあった。

ただ、その時は残念なくらい会社も身体も取り返しがつかないほどに傷め過ぎていて、既に自分自身の力では取り返しようもなく、更には透析治療になり働く時間や身体の制限まで加わった事で俄かに否定的だったと思う。

たぶん…だけど、
私はここまで追い詰められないと捨てられないカルマや思考の禍々しさがあったのかもしれない。
自分では大事だと思い育ててきた経験や思考が、実は悪しき人脈や利用対象となり、自らが不良人材しか呼び込まずにひたすら追い詰めていたのだと今更だけど気づかされた。

そう感じるようになるにはきっと今のような状態にまでならないと私は私自身を許せなかったし捨てられなかったのだろう。
突如として現れた投資家さん達や事業パートナー。私や妻まで抱えた意味の無い多額の借財もある程度返済できて、会社を立て直すための資金も得る事が出来た。
透析治療も今は落ち着き、日常生活を最も脅かしていた網膜症もまた地元の支援者の母のような方が手術費を捻出してくださったお陰で左目だけは回復できて運転まで取り戻す事ができた。

閉塞した自分自身の気づきにくい過ちや思考はたとえどれだけの人が苦言を呈してくれたとしても自分自身が体感し、追い詰められて気づけないと本当に分からないものと思うし、維持している今を守ろうとする防衛本能のようなカルマはいつまでも寄生される人達によって維持されてしまう。
吸われるもの全てを失い自分でもその依存を止めないと、そういった悪しき「名もない悪魔」達の存在を切るには出来なかったのだろう。
不思議なもので、そういう人達は勝手に去っていき、そうでない人達が少しずつだが集まり始めて今では未来を子ども達に託せるかもしれないというステージにまで来る事が出来た。

そして、何よりも「いつまでこの仕事ができるか」ではなくて、
「いつまでも、死ぬまで生きていよう」
と思いながら今は日々の会社経営と未来を良い意味で思いながら生きている。

人はいつかは死ぬけれど、それがいつの日かは関係ない。
その死を迎えるその時までが自分の人生であり、後継者達にその生き方や大切な想いを繋げられる事にこそ意義を持ち死ぬまで生きようと思う。

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