間違いを認めないレッテルより、反証可能性のある仮説へ
私たちはすぐ認識を誤るのに、常に認識を改めねばならないのに、どうしてレッテルを貼るようになってしまったのだろう?いったん貼るとはがさないレッテルを貼るようになった原因に、多少、時代背景を感じる。予言者のように振る舞い、「先見の明」があると思われたい、という願望が強化していたのかも。
「そんなことは前からわかっていた」と、先見の明のあるところを誇る人が昔はたくさんいた。「それはこういうものに決まっている」と断言調でものを言い、他の意見に耳を傾けないことを信念ある姿勢だと勘違いしてる面があった。貼ったらはがさないレッテルは、こうした姿勢で補強されていたのかも。
雰囲気が変わってきたのは「反証可能性」という考え方が普及してきたことと関係あるかもしれない。科学は、学問の中でも特に正しさが際立つ学問だと思われているが、それはなぜかというと、皮肉なことに、自説を絶対正しいとは考えない、から。自説の間違いを認める姿勢があるから。
「今のところ私はこの仮説に基づいていますけど、もしこんな証拠が出てきたら(反証)、自説を引っ込めます」と宣言するのを、反証可能性という。科学が唱える理論はすべて仮説であり、仮説を唱える場合は、仮説をひっくり返せる弱点(反証)を用意する必要がある。
これに対してレッテルは、それを覆すような情報に触れても「いやそれはたまたまだ」「それは例外であり、無視できる」として無視してしまう。自説は素晴らしく、どんな異論も論破してしまう、という完璧さを誇る。こうした態度は、最も科学から遠い姿勢。
科学の世界にも、昔には「絶対の確信」(レッテル)をもつ学会の重鎮というのがいたらしい。若手研究者が自説に異論を唱えるような発表をすると「君はこの本を読んだことがあるかね?まだない?そんな中途半端な知識でよくもまあそんな発表したものだね。勉強して出直してきなさい」
しかし、奇跡の物質と思われていたアスベストは中皮腫と言われるガンの原因になることが後にわかった。フロンも夢の物質と言われたが、オゾン層を破壊することが後にわかった。精神病の画期的治療と言われたロボトミーは、今やノーベル賞のおぞましい記憶の一つになっている。
絶対的に正しいと思われた真理も、画期的技術とたたえられていたものも、いつかは更新(アップデート)される運命にあることを、科学者も一般の人々も思い知るようになった。今では、学会の重鎮と呼ばれるような人ほど、新しい考えの登場を喜ぶ。仮説を更新できる機会だとして。
自分は人よりも優れた認識を持ち、誤ることがない、と思いこむのは、レッテル。それよりは、反証が示されたら新しい仮説に更新するという仮説的思考にアップデートした方がよいと思う。賢いフリは、格好悪い時代に入りつつあるのかも。