私が株主資本主義を改めた方がよいと考える理由「株主資本主義を謳歌した人たちにも死んでほしくないから」

人間にはいろんな欲求がある。お金持ちになりたい、高学歴・スポーツでの成績・社会的地位の高さなどで優越感を味わいたい、有名人になりたい、とか。これらの欲求は、二つで説明できるのでは?という仮説を持っている。人とつながること。人を驚かすこと。この二つがいろんな欲求に変形したのかも。

今の勤め人は、あまり出世したくないという。人の上に立つなんて、いろいろ面倒くさそう、それよりは下っ端でいいから、現場で楽しみたい、と。昭和の昔は「社長になりたい」という人ばかりだったのに。なぜ「人の上に立つ」ことが魅力を失ったのだろうか?

SNSの影響が大きいように思う。SNSがなかった時代、人とつながることは難しかった。会社でしか人とのつながりがない人が多く、平社員では上司としか人とのつながりがないことも。でも係長、課長と昇進すれば、複数の部下とつながる「ハブ」になれる。社長になれば全社員とつながることになる。

人とのつながりの「結節点」になることを求める本能が、人間にはあるらしい。SNSどころかインターネットもない時代には、会社で昇進することが、ほぼ唯一の「人とのつながりを増やす手段」だったといえる。だから、昭和はみんな昇進したがったのだろう。あるいは羨ましがったのだろう。

しかし、SNSの登場で、人とつながることは容易になった。昔は雲の上の存在だった大学教授とか社長とかも、つながろうと思えば簡単につながれる。人間関係の結節点に簡単になれるようになって、わざわざ会社で苦労して、人とつながろうとしなくてもよくなった。無理する必要がなくなった。

お金とか、学歴とか、社会的地位とか、そうしたものを得たいという気持ちは、「人を驚かせたい」という本能から生まれている気がする。幼児の頃、親や大人に「ねえ、見て見て」といって、昨日までできなかったことが今日できたところを見せて、「すごいね!」と驚かせた、あの気持ちが変形。

お金とか、学歴とか、社会的地位があれば、人を驚かせることができるばかりでなく、「この人とつながると得かも」と思わせることに成功し、人とつながること、自分が人間関係の「結節点」になることが可能かも、と感じるのかもしれない。だからそうしたものを求めるのかも。

しかし、阪神淡路大震災で、私は「人とつながること」と「人を驚かすこと」の二つは、出世とか、お金とか、学歴とか、社会的地位とかを求めなくても満たすことができると「発見」した。そしてその発見は私ばかりでなく、多くの人が発見したことでもある。

水が足りない、食料が足りない、その欠乏を補おうとボランティアが手分けして必死になってかき集めた時、自然と人とつながれた。そして互いに「お前、それ、よくかき集めてきたな!」と驚き、健闘をたたえ合った。人とつながり、人を驚かすことって、人の役に立つとき、両立しやすいことを知った。

阪神淡路大震災以来、NPOがたくさん増えた。私の知人にも、結構な数、今も続けている。社会に欠乏しているものがあり、それを埋めようとすると、志を同じくする人たちと自然につながり、互いに驚き驚かし、楽しんで社会問題を解決していく。つながること、驚かすことを同時に満たせる。

さて、私はこのところ、株主資本主義に批判的なのだけれど、それはなぜかというと、働く人の賃金をひどく圧縮し、その上前を撥ねる構造があるから。もし働く人たちの賃金を、生活するのに不十分を感じずに済むくらい上昇させるなら、別に批判する必要を感じないけど、今は感じている。

会社から金をまきあげて、何が楽しいんだろう?と私なんかは思う。それでお金持ちにはなれるだろうし、お金持ちになりたい人たちから「どうやってなれるんですか?」と聞かれ、それによって人とつながっているのだろう。人を驚かし、つながるという欲求をそれで満たしているのだと思う。

私の塾に、ひどく貧しい家庭の子があった。夫婦で13万しか手取りがなく、塾の月謝もしばしば滞っていたが、事情が分かっていたので目をつむっていた。その子は、同級生が塾帰りにコンビニでおやつを買いまくる中、「お菓子は嫌いだ」と言って我慢をしていたのも知っていた。

その子は大人になって、「ともかくお金を稼げるようになりたい」と努力し、外車のディーラーになって、結構稼ぐようになったらしい。お金がないつらさを知っていたから、お金持ちになりたかったのだろう。それは当然の感情だし、悪いことではないと思う。お金持ちになって全然かまわない。

しかし、昨今の株主資本主義は行き過ぎていると思う。新型コロナ流行のために派遣社員が大勢首切られた。そんな中でも株主は儲けることができた。人件費を圧縮し、その分株主に配当を増やすという形で、日本の少なからずの企業が動いている。人の不幸の上に株主の稼ぎがある。これ、おかしくないか?

会社の立ち上げのために出資し、その企業が雇用を増やし、社員の生活も安定軌道に乗せる、そんな投資なら、そんな株主なら、私は賞賛するし、素晴らしいと思う。人の幸福を増進するようなお金持ちは尊敬に値する。そういうお金持ちはどんどん増えてほしいと願っている。

しかし、企業を育てるどころか、大きく育った企業が蓄えている内部留保について「オレは株主だ、それを配当として株主に配れ」と強要したり、「社員を首切れ、足りない分は派遣社員に置き換えて賃金圧縮しろ、浮いた利益は株主に配当として配れ」というのは、ただの寄生虫ではないか、と私は思う。

ただ、仕方がない部分がある。日本はこのところ、そうした株主資本主義がはびこりやすい法改正を続けてきた。温室栽培で寄生虫が大量に発生するのは、その環境管理に問題があることが多い。日本で会社を食い物にする株主が増えるのは、日本の環境管理にまずさがあると言ってよいだろう。

岸田首相は就任当時、「新しい資本主義」と口にしていた。働く労働者に厚く報いる「ステークホルダー資本主義」や、SDGs、エシカル投資などに通じる政策のことかいな、と、私は期待したし、多くの人もそう思っていたようだ。

ところが岸田首相がイギリスで演説したのは、「資本所得倍増計画」だった。株式などの売買で得られる資本所得が倍になるようにするからイギリスのみなさん、日本に投資してね、という演説。もうビックリ。株主資本主義に逆戻りやん。

この急激な「心変わり」はなぜ起きたのだろう?おそらく、日本の支配者、アメリカに変化が起きた、と考えた方がよいだろう。

アメリカの資産家はトランプ大統領の登場やサンダース議員の台頭を見て、「もしかしたらアメリカにもナチスや共産主義が生まれるかも」と恐怖した。

ナチスや共産主義は、金持ちから全財産を没収し、場合によっては殺すという点で共通した動きを見せた思想だった。アメリカには、ナチスや共産主義から逃げてきた人が多い。もしナチスや共産主義がアメリカで支配的になれば、自分たちは全財産を没収され、殺されるかも?と恐怖したようだ。

それがSDGsとかエシカル投資などとなって現れ、お金持ちの祭典、ダボス会議でも「ステークホルダー資本主義」という言葉が現れるなど、お金持ちが自分の懐ばかり温めるのを改め、働く労働者に賃金がいきわたるよう、方針転換をしていた。そう、昨年までは。

ところがどうやら、アメリカのお金持ちがまたしても心変わりしたらしい。新型コロナはどうやら克服できた。トランプ大統領は退任し、無難なバイデン大統領になった。賃金の多少の上昇は飲むとして、株主資本主義を復活させても恐いものはない、と、またしてもタカをくくり始めたようだ。

株主資本主義を見直す動きはアメリカこそ中心だったはずなのに、だからこそ首相になったばかりの岸田氏も「新しい資本主義」という言葉を使ったのだろうに、株主資本主義を是とする勢力がアメリカで再度主導権を握ったのだろう。そしておそらく、日本に圧力をかけたのだろう。

株主資本主義を否定するようなことを言えば、日本売りするぞ!とでも、陰で脅されたのではないか。それを回避するため、アングロサクソンの国イギリスで、「資本所得倍増計画やる」と宣言することで、日本売りは勘弁してね、と予防線を張ったのではないか。
以上は、私の理解を援ける「補助線」。

もしこの「補助線」が正しいとしたら、株主資本主義の人たちが日本で元気になり始めているのもうなづける。本拠地アメリカで株主資本主義が息を吹き返しているのが背景だろうから。だとすればアメリカも日本も、株主資本主義がまたもや強まる可能性が高いとみるべきだろう。

しかしこれはまずい傾向のように思う。株主資本主義が再び台頭すれば、アメリカの矛盾はさらに大きくなり、不満が増大、アメリカでナチスあるいは共産主義に似た政治勢力が生まれ、支配的になる可能性がますます高まる。その時、株主たちはナチスや共産主義に葬り去られかねない。

どんな理由であろうと、社会的格差が大きくなるのは、格差の上に位置する人たちへの憎悪をかきたてることになり、それを力で覆そうという運動を呼び起こす。陽が極まれば陰に転じ、陰極まれば陽に転ず、とはよく言ったもので、株主資本主義が極まれば逆転した運動を生みかねない。

株主資本主義の中でお金持ちになった人たちも、私は死んでほしくない。そんな極端なことは起きてほしくない。子どもの頃、貧しさに苦しみ、お金持ちになりたいと願った生徒がいたから、お金持ちになりたいという気持ちを否定する気はない。ただ。

自分が金を稼ぐことで、誰かの生活が苦しくなるような構造に目をつむるのは、ちょっと考え直した方がよい。そんなことをずっと続けるのは、殺人ほう助と同じ。投資は、人の幸せを増進する形で行ってほしいと願う。

株主資本主義的なやり方で、企業の儲けを株主だけが吸い切ろうとするのは、労働者の生活を苦しめ、場合によっては死に追いやっている可能性がある。この構造は、私は改めた方がよいと考えている。そうでないと、ナチスや共産主義が生まれても不思議ではなくなるからだ。

「アーロン収容所」で出てくるエピソード。英軍は日本人捕虜に対し、「カニを食うな、赤痢になるぞ」と警告を発しつつ、川の中州に捕虜をたくさん放置した。ろくに食事を与えられず、飢えた捕虜たちは、ガマンができず、生のカニを食べ、赤痢で死んでいった。

英軍は「あれほど警告したのに、カニを食べて赤痢になるなんて、日本人とはなんと愚かなのか」と報告したという。
飢えざるを得ない構造、環境において、カニでも食べなければ飢えをしのげなくしておいて、「愚か」と切り捨てる。この構造、株主資本主義でも起きていないか。

株に投資できるだけの余力のある者だけが、株主資本主義で勝者となる。その勝者が、株を買う余力もないほど低賃金にあえいでいる労働者に、「株を売買する勉強もしないから貧乏なのだ」ということを平気で言う人がいる。これは、「アーロン収容所」で英軍が見せた非情と何が違うのか。

人間は、「見えない」と残虐になれる。アウシュビッツ収容所で行われた虐殺も、ユダヤの人たちが連行されるのを知っていても、その後どうなったかは想像しないことで無視することができた。それは株主が企業からお金を巻き上げても、労働者がどうなったか想像しないのと似ている。

しかし、この構造は大きなひずみを持っている。ひずみを蓄えれば、大きな地震のエネルギーになるように、社会を激動させるエネルギーとなる。私は、現在、株主資本主義で謳歌している人たちも死んでほしくないと願っている。だからこそ、そろそろ方向転換していただきたいと思っている。

もしここで改めなければ、あなたたちを憎む勢力が圧倒的な力を持って、襲い来るのをもはや止めようがなくなる。どんな理由があれ、格差が巨大化すれば、それを矯正しようとするまったく別種の力が発生する。そんなことが起きないようにするのが「知恵」だ。

恥ずかしながら、私は原丈人という人を知らなかった。つい先日、知ったばかり。本を読んでみて、「ああ、この人も株主資本主義で一時代を謳歌した人たちに、死んでほしくないと思っているんだろうな」と感じた。穏健な主張をしているのは、そのためだろう。

しかし原氏の穏健な主張すら、株主資本主義の人たちには、共産主義に見えるらしい。穏健なところで手を打っておけば、ナチスや共産主義のような極端な激動を招かずに済むのに、どうしてそれが分からないのだろう。マグマが相当たまっていることに、気づかないのだろうか?

日本はアメリカの属国だから、本国アメリカで株主資本主義が元気を取り戻しているなら、日本もそう簡単にはその流れに逆らえないだろう。しかし穏健派の提案を軽んずると、もっと大きな災厄を招く恐れがあることを、どうやって理解してもらえばよいのだろう。
私は誰にも死んでほしくないのだ。

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