無駄と失敗が成功の輪郭を浮き彫りにする

先日、鳥取大学の人たちに講演した時の参加者から、質問が来た。「点数に結びつかない遊びとかの「余計なこと、無駄なこと」に理解を示さず、ただひたすら勉強してほしい、という期待を親は持ちがち。「余計なこと、無駄なこと」の大切さをどう伝えたらよいですか?」というもの。ちょっと考えてみる。

ロボットアームにいろんな形の荷物を持ち上げさせる、という課題を人工知能に与える実験。これで大切なのは、たくさんの「失敗」をすることなのだという。「成功」だけを学習させると、ちょっと角度が違ったり荷物の形が違っただけで全く対応できなくなってしまうから。ところが。

膨大な失敗を重ねさせ、学ばせると、数多くの「失敗」が、数少ない「成功」の輪郭を浮き彫りにしてくれる。失敗があるからこそ、成功の輪郭がつかめて、やがてどんな形の荷物でも、どんな角度であっても、正確に荷物をつかんで持ち上げることが可能になるという。

赤ちゃん用知育おもちゃで、三角や四角、丸や楕円の形のプラスチックを、同じ形をした穴に入れるものがある。赤ちゃんは四角いところに三角のものを突っ込もうとしたり、丸の穴に楕円のを突っ込もうとしたり、いろいろ試行錯誤する。このとき、親は「違うよ、こっちだよ」と先回りしたくなる。

けれど、形が違うものは穴を通らないという重要な「失敗」のデータを積み重ねている最中。その学習の邪魔をしちゃいけない。失敗は極めて重要な、不可欠な学習内容。失敗を知らずしてなぜ成功するのかを理解することはできない。失敗せずに成功させよう、としたら、かえっていつまでたっても学べない。

「遊び」は非常に重要な学び。土をほじくれば、砂や石や、ミミズなどの小さな生き物たちがいることに気がつく。遊びの中で、鉱物というものを知る体験的基盤、土を削るときに体で感じる物理学的基盤、いろんな生き物を発見し不思議そうに見つけることで育まれる生物学的基盤。それが体感として学べる。

ケガをしない範囲で、高いところから飛び降りてみる。全身に感じる衝撃、足の裏に感じる痛覚、落下するときに感じる風、ひざを曲げることで衝撃を和らげるクッション効果。こういったものを、遊びの中で学ぶ。物理学、生物学、化学、その他もろもろ。

もし仮に、宇宙人と交信できたとしたら。その宇宙人はまん丸で手足がなく、念力でモノを動かす生き物だとしたら。そして、その宇宙人とは画像のやり取りができず、言葉だけで通信しなければならないとしたら、という思考実験を考えてみる。私たちは、「右手」ということさえ、宇宙人に伝えられない。

宇宙人には手がないから、「右手って、なんだ?」となるだろう。自分の体験の中から、「右手って、念力のことかな?でもどうも、当てはまるものがないな?」と、混乱するだろう。言葉はびっくりするくらい、何も伝えられない。体験を共有している者同士のみ、言葉で何かを伝えることができる。

言葉は体験が欠落すると、何の価値もない。自分ではない人と、理解を共有する根拠を失っているわけだから。手足のないまん丸宇宙人と違わないことになる。学びは本や教科書などの文字情報だけでは困難。その裏付けとなる「体験」が欠落してはいけない。そしてそれを充実させるのが、遊び。

火起こしして遊んだことのある子は、火を起こすのがいかに難しいか、よく知っている。燃えるものに火炎を当てたら燃え続けるか、といったら、全然。紙はよく燃えるけれど、あっという間に燃え尽き、材木の表面を少しチリチリにしただけで終わる。火起こしの苦労を知っていると。

高校の化学で習う「活性化エネルギー」の意味がよく分かる。燃える、という現象がずっと続くためには、活性化エネルギーを超えるだけの熱が連続的に出なきゃいけない、ということを、火起こしで苦労したことのある子は、すぐにストンと胸に落ちる。「だから木に火が燃え移らなかったのか!」

成功というのは、細い道(隘路)。しかし成功という隘路しか教えてもらっていない子は、その道を少し踏み外せば失敗という谷に落ちる、ということを知らずにいる。けれどよく遊ぶ子は、いっそ谷に降りて散々遊び、時折成功の峰に登ってはまた降りて遊び、をしているうちに。

隘路の形をすっかり覚え込んでしまう。目をつむってもその隘路の上を歩けるくらいに。
けれど、成功の道しか歩いたことのない子は、親からの指示がなければ、簡単に踏み外すだろう。「外」を知らないのだから。

「鉄」は、教科書的には、元素記号がFeだとかイオンになるとナンタラカンタラ習う。けれど、鉄という言葉を聞いて、さまざまな体験が思い浮かぶ子の方が、理解が深くなる。鉄棒で遊んだ時の手のにおい。真夏の日光を浴びた鉄の熱さ。冬の鉄の冷たさ。電気を通してみたら電球が光った、とか。

そうした様々な体験が、「鉄」を理解させてくれる。体験が欠落していると、鉄が全く理解できない。理解とは、体験ネットワークの中に位置づけること。鉄が、鉄以外のもの(温度、電気、空気、水、光など)と出会ったときにどうなるか、ということを体感していることで、私たちは鉄を理解できる。

遊ぶことで豊饒な体験を積み、豊饒な体験を積んでいるからこそ、教科書に簡潔にまとめられた内容が腑に落ちる。「あ!そういうことだったのか!」遊んでいない子は「ふーん?そうなの?」と、分かったようなわからないような状態になる。

ムダがあるから私たちは無駄でないものを理解できる。無駄な体験、失敗体験を積んでいないと、成功の隘路がどんな形をしているのか、輪郭なのか、私たちは理解できない。
遊ぶこと。無駄な経験をたくさん積むこと。それがあるから、私たちは無駄のない動きをとることが可能になる。

だから私は、子どもが何かスポーツを習得しようとするとき、無駄な動き、あがきを推奨している。うまくやろうとせず、うまくやれないその状態を楽しむ。重要なデータとして、その子の中に蓄積しますように、と、さんざん無駄な動きを体験させる。すると。

不思議なことに、ある時からムダが削げてくる。勝手に。うまくやる方法を見つける。まるで、「深層学習」をして膨大な学習を終えた人工知能のように、応用力があり、臨機応変も可能になる。それはムダをたくさん学習したおかげ。

私は赤ちゃんを観察していて、おもしろいな、と思った。生まれてすぐでも、赤ちゃんは腕を動かすことができる。といっても、赤ちゃんは動かし方を知らない。どうやら、本能的にとりあえず動かす、という仕組みがあるらしく、ともかく動く。自分の爪で顔をひっかいてしまうこともしばしば。

ランダムに手を動かしているうち、「この感覚の時は、腕が上に上がるらしい」「この感覚の時は腕が下がるらしい」ということに次第に気がつき、その「仮説」に基づいて腕を動かすようになる。すると、次第に腕を上に上げる、下に下げるくらいのコントロールができるようになる。

赤ちゃんは目の前のものに手を伸ばそうとする。しかし距離感がつかめず、手をどの程度伸ばせばよいのかも見当がついていないので、おもちゃを突き飛ばすこともしばしば。けれどとりあえず、手を伸ばす、という感覚を再現して、手を伸ばしてみる、を繰り返す。

やがて、たまたま目的のものをつかめることがある。ではこのあとはずっとうまくいくようになるのか、というと、さにあらず。どうやら赤ちゃんの学習には「ゆらぎ」が仕込まれているらしく、せっかくうまくいく方法がみつかったようでも、しばらくはズレた手の伸ばし方を散々繰り返す。が。

次第に成功率が上がり、やがて関心を持ったものを正確につかむ、ということができるようになる。これは、「握る」の周辺現象(失敗)をさんざん学んだ結果、うまくいくときの輪郭(成功)がくっきりしてきたからだろう。膨大な失敗が、狭い成功の隘路の輪郭をくっきり浮かび上がらせてくれる。

だから、膨大な失敗大事。遊び大事。危険がない限り、失敗をたくさん含んだ遊びを体験させること。それが知識の受け皿になる。遊べば遊ぶほど、その受け皿は大きくしっかりする。無駄なこと、失敗することが、その受け皿を大きくしてくれる。

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