減点思考と加点思考
子育てする上で、「減点思考」か「加点思考」かで、子どものやる気は大きく違ってくるように思う。
「宿題を毎日やるのは当たり前」「勉強してよい成績をおさめてほしい」と親が期待すると、減点思考になりやすい。宿題をやらない日があれば、それは「毎日やる」姿からしたら、減点になってしまう。
100点満点の姿からどれだけかけ離れていくか、という減点思考だと、子どもはひどくやる気をなくす。100点満点の姿を維持するには、相当頑張らなければならない。でもちょっと気を抜いただけで減点される。しかも100点満点を続けても「当然だ」という態度をされかねない。モチベーションが失われる。
それでも親に褒められたいから、認められたいから、と、小学生までは頑張る子どもも少なくない。しかし思春期に入るとそれはつまづくことが多い。反抗期に入り、親の期待に応えようとする自分に腹が立つようになる。親のほめ言葉が頑張る動機になりえなくなる。
動機が失われたうえに、100点満点から何点マイナスだ、というマイナス評価ばかり親から下されるようになって、嫌気が指してしまう。動機はないわ、嫌気が指すわ、で、減点思考の親の元では、思春期を迎える頃に疲れ切り、燃え尽き症候群になってしまうことが少なくないようだ。
本人も、成績がよかったのに落ちるのはちょっと悔しい。けれど親にそれを指摘されるのは、反抗期の子どもとしては腹が立つ。「そんなことわかっているよ!」と口答えしたくなるのも当然。しかし反発する我が子にまた親も腹を立てて、と、悪循環に陥る家庭をよく見る。
私は、指導する際に徹底して「加点思考」で接するようにしている。私が面倒を見てきた子どもには、分数の計算ができない子もいた。そういう子は、「分数の計算もできないの?」と周囲からバカにされ、すっかり嫌気がさしている。勉強する気なんてまるでなかった。
中高生にもなったら分数の計算ができるのは当たり前、という水準から見たら、その子はマイナス何点、という減点思考になってしまう。他の子と比べたり、一定の能力を当然視することは、減点思考に陥る最大の原因。
私はそういう子どもの面倒を見ると、一切「期待」をしないようにしていた。この年齢の子ならこれができるのは当たり前、という期待をしてしまうと、その水準から何点マイナス、という減点思考にどうしても陥ってしまう。だから誰とも比較せず、その子に一切期待しないようにした。
そして、その子の現状をよく観察した。すると、この子はあれができてこれができない、という現実の姿が見えている。まずはその現実の姿を受け入れ、それをゼロベースと考える。そしてゼロベースから、一つでも積み上げられたらめっけもん、と考えるようにした。加点思考。
すると、分数のできない子はたいがい、「ケーキを切れない子どもたち」で話題になったように、ケーキを1/2、1/3にすることもできなかったりする。そんな子を辛抱強く指導すると、「丸いケーキを分けるには、ともかくど真ん中に向かってナイフを入れればいいのか!」という「大発見」をしたりする。
「いやそんなん当たり前やん!円グラフ見たことないんか!円を分けるには、真ん中にナイフを入れるの当然やん!」と、円を分ける方法を知っていることを「当然視」し、「期待」してしまうと、「そんなことも知らなかったのか」と減点思考に陥ってしまう。
でも私は、それまで気づいていなかった、知らなかった子がそれに気づいたということは、一種の奇跡だと考えている。だから「よくぞそのことに気がついた!分数がわからなかったのは、『真ん中に向けてナイフを入れる』ことに気づいていなかったから。これまでは仕方ない。よくぞ気づいた!」と驚く。
そうして、「できない」が「できる」に、「知らない」を「知る」に変えることができた!と、零点がプラス10点にまで上がったのなら、それは無限大以上に成績が上がったということやん!と、加点思考で大人が接すると、子どもも嬉しくなる。誰とも比較されないから。減点されないから。
他人と比較する必要はない、今の自分をゼロと考えて、そこから1点でも2点でも、今までできなかったことをできるようにしたなら、それはプラス!と、周りの大人が接することで、子どもはがぜんやる気を取り戻す。「できない」を「できる」に変えることの楽しさを取り戻す。
成績の悪い子は、
・他人と比較しないこと。
・何かの能力を当然視したり、期待したりしないこと。
・減点思考ではなく加点思考。
・現時点をゼロベースとし、そこから少しでも加点できれば大進歩!と考える。
という形で周りが接すると、どんどん学習意欲を取り戻していく。
このことは、何も成績の悪い子に限らないように思う。東大生や京大生のほとんどが「勉強しろと言われたことがない」という。小さい頃から勉強好きで成績がよかったからだ、という仮説は確かに成り立つかもしれないけれど、私は「勉強しろと言われなかったから」という仮説が結構成り立つように感じる。
旧帝大生に、親御さんはどんな人だったかを聞くと、「成績はよくあらねば」「成績はよくあるべき」などの「ねば・べき」思考をしておらず、どちらかというと成績に無頓着、という答えがほとんど。ただ、子どもの様子をニコニコ見ながら、「できない」を「できる」に変えた時、
驚き、喜んでいたらしい。子どもはそれが嬉しくて、学習意欲を削がれることもなかったし、ただただ「できない」を「できる」に、「知らない」を「知る」に変えることが楽しくて、好きで学習していた、という話がほとんど。つまり、親が加点思考で子どもに接していたらしい。
しかし、成績がよくあるべき、成績はよくあらねば、という「べき・ねば」思考に囚われている親の元だと、旧帝大に入学するほどの成績をおさめている可能性は非常に低くなる様子。このことは、調査し、統計をとってみる価値があるように思う。
もともと、親御さんは「加点思考」で育児をしていたはず。赤ちゃんに「もう1歳になるんだから言葉を話せるべき」「立つことができねば」と、「ねば・べき」思考をしても無駄だということを親御さんは痛感する。だって、言葉が通じないから、「ねば・べき」で赤ちゃんを追い立てようがない。
仕方がないから、赤ちゃんが言葉を話すようになるまで、立つようになるまで、待つしかない。そうなるように親は祈ることしかできない。そしてある日、言葉を口にしたり、立つようになると、親は驚嘆し、大喜びする。話せないのが当たり前、立てないのが当たり前、とゼロベースで考えていたのに。
赤ちゃんが立った!言葉を話した!という「加点」が起きたことに驚き、喜ぶ。赤ちゃんは、恐らく親のこうした驚き喜ぶ姿を、どこかで覚えているのだと思う。だから幼児の口癖は「ねえ、見て見て」なのだろう。自分の成長で驚き、喜んでくれるのを見たいから、見てほしいのだろう。
今まで怖くて飛び降りれなかった高さから飛び降りることができた。今まで飛び越せなかった高さをジャンプして飛び越せるようになった。子どもは「できない」を「できる」に変えることができた時、「ねえ、見て見て!」を連呼する。そして親が驚き、喜ぶと、してやったり顔。
こうして、親が自分の成長で驚き、喜んでくれる様子を見て、子どもは次なる挑戦へと進む勇気を持つのだろう。「できない」を「できる」に変えられるまで、粘り強く挑戦することをやめなくなるのだろう。こうした幼児の強い学習意欲は、親の加点思考が大きな助けになっているように思う。しかし。
ある時から、親はそれまでの加点思考をやめ、減点思考に切り替わっていく。そのタイミングの多くが、小学校入学。この時を境に、「宿題は毎日やるべき」「勉強して穴のないようにせねば」と、「ねば・べき」思考に陥ってしまう。できるのを当たり前と考え、できないのはマイナスだと考えるようになる。
「小学生になったら、勉強頑張ります!」と、入学したての子が明るい笑顔で、何の疑いもなく宣言するのは、決してウソ偽りはない。本心からの言葉。でもそれが小学校入学からしばらくして違ってきてしまうのは、親が「ねば・べき」思考に陥り、減点思考にハマってしまうからだろう。
私は、赤ちゃんの頃から小学校入学までの親の態度を変えるべきではない、と考えている。子どもが今、何ができて何ができていないかを把握し、できないことを「マイナス」と捉えることなく、「子どもはどうやってそれを『できる』に変えるのかなあ」と、祈り、待つ姿勢でいたほうがよいように思う。
いつそれを達成するのか、どうやって達成するのかも、すべて子どもに任せる。委ねる。親はひたすら祈り、待つだけ。こうした「任せ、祈り、待つ」姿勢でいる場合、子どもは学習意欲を削がれることはないように思う。そしていつか、「たまたま」に見えるかもしれないけれど。
子どもは「できない」を「できる」に変える。それは親の「期待」するものではないかもしれない。でもそれが明らかに、昨日まで「できない」だったのが「できる」に変わったことに気がついたなら、「驚く」まではいかなくても、その差分に気がつき、「お、できるようになったね」と声をかければ。
それまでにすっかり減点思考で学習意欲を損なっていた子どもも、次第に「できない」を「できる」に変える楽しみを思い出す。だんだんと学習意欲が湧いてきて、「できない、嫌いと決めつけてこれまでやろうともしなかったけど、ちょっとやってみようかな」という気力も取り戻していく。
そして、子どもが「できない」を「できる」に変えたことに驚き、喜ぶと、子どもはそれまでの苦手意識を次第に克服し、「できない」を「できる」に変えるゲームに熱中しはじめる。私の指導法は、基本、それだけと言っても過言ではないくらい。
子どもが学習意欲を失っているようなら、親である自分が「減点思考」に陥っていないか、見直したほうがよいように思う。そして、「加点思考」を取り戻すため、自分の意識、無意識を改造したほうがよいように思う。
自然に加点思考になるように自分を持っていくには、減点思考に陥りやすい考え方を改める必要がある。「ねば・べき」思考もそうだし、「これはできて当たり前」と当然視する思考もそうだし、「これくらいはできてほしいよね」という期待もそう。これらは減点思考の基礎になっている。
これらを逆転させる必要がある。こうあらねば、こうあるべきなんてことはこの世にない、これくらいできて当然、なんてこともこの世にはない、このくらいできてほしい、なんて期待するのは、我が子とはいえ他人、別人格なのだからもってのほか、という思考の枠組みを採用する必要がある。
親は子どもになり替わることはできない。子どものことは子ども自身がやるしかない。子どもの学習意欲は、子ども自身の中から自然に湧いてくるのを待つしかない。子どもが何をするのかも任せるしかない。親は祈り、待つことしかできない。その現実を受け入れる必要がある。
その現実を受け入れて初めて、私たちは「任せ、祈り、待つ」ことができるようになるし、加点思考を取り戻すことができるようになるのだろう。
しかしなかなか、この「現実」を受け入れられないという人が少なくない様子。諦めきれない様子。親である自分が頑張ればどうにかなるのでは?と。
でも子どもからしたら、親が勝手に盛り上がり、やきもきし、苛立っているだけ。子どもからしたらいい迷惑。親は「私がこれだけ頑張っているのに」と思っていても、子どもからしたら「知らんがな」。ありがた迷惑。
でも、もし親が「任せ、祈り、待つ」のでいてくれるなら、子どもは手近なところから挑戦をし始める。親が「いや、そんな遊びみたいなことよりも、もっと勉強の方面を」などと自分をコントロールしようとせず、「できない」を「できる」に変えた自分に素直に驚き、喜んでくれたなら。
子どもは次第に能動性を取り戻す。親に叱られて、やかましく言われて仕方なくやっていた受動的な姿勢から、「自分が挑戦してみたいからそうする」という能動性が次第に回復してくる。もし親が、その能動性の出現に驚き、喜べば、その能動性は加速してくだろう。
親が変わる、というのは非常に重要。私は塾を主宰していた時、入塾時での面談で必ずやっていたことがある。子どもにいくつかの質問をし、その受け答えに驚き、喜んで見せた。「君は物事をよく観察する力を持っているね」「君はエイッと物事にぶち当たる勇気を持っているね」と、前向きに評価する。
こうした「長所」はしばしば「臆病なだけ」「おっちょこちょいなだけ」と、短所とみなされている。親御さんもそう信じ、子どもに短所を治せ、と言ってしまったりしている。減点思考。でも私は、短所は必ず長所と裏表、と考えている。そしてそれを長所として指摘すると、
親御さんは「そういえば、昔こんなことがありまして」と、その子の長所の面を思い出して語ってくれる。私はそれに驚き、喜び、「そんな長所があるじゃないですか!お子さん、大丈夫ですよ!必ず変わっていきますよ!」と声をかける。そして。
「ただし、ボタンの掛け違い、歯車のかみあいがうまくいっていなかったのは否定できません。それを取り戻すまで、待ってやっていてください。この子は大丈夫、しっかりしているし、こんな素晴らしい長所もある。だら、もう少し待ってやってください」と声をかける。すると。
親御さんは待ってみよう、任せてみよう、という気持ちを取り戻す。やがて、「できない」を「できる」に子どもが変えだしたとき、「先生の言ったとおりだ!」と喜び、驚くようになる。親御さんが加点思考にいつのまにか変わっていく。実は、これがとても重要。
いくら塾の先生が子どもに対して加点思考で接しても、親御さんがヤイノヤイノとやかましく減点思考で接すると、エネルギーがそこで奪われてしまう。親の姿勢が逆転することがとても大切。だから、親御さんを「任せ、祈り、待つ」姿勢に誘導することが大切。
それができたなら、半分成功したようなものだと思う。子どもは次第に「できない」を「できる」に変えることの楽しみを思い出し、それにのめり込むようになる。すると、自然と学習意欲は高まるし、学習もどんどん進んでいく。学ぶことを楽しめるようにする必要がある。それには、
周りが加点思考となり、その子に接する必要がある。「任せ、祈り、待つ」姿勢の大人に囲まれた時、子どもはどこまで成長するようになるかわからない。だって、楽しんで「できない」を「できる」に変えだすのだから。
いま、自分が、減点思考か加点思考かをチェックすることがとても大切。もし減点思考に陥っているとしたら、指導される側の子どもや部下は、やる気をなくす悪循環に陥っている可能性がある。指導する人間は、要注意だと思う。