正確さよりも意欲
数学者なのに「3+1=5」にマルをつける、というこの方の考え方、大好き。私も子育てでは、正確さよりも意欲の方が大切だと考えている。
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算数や数学は正解が明確に出るという特徴がある。そのためか、答えが間違っていると間違いだと言いたくなってしまう気持ちは分からないではない。しかし間違い方にもいろんなグラデーションがある。そのグラデーションを無視して「間違い」と言い渡してしまうことには、大きな問題があるように感じる。
息子(小5)は算数・数学が大好きで、数字の法則をいろいろ見つけてくるのを趣味にしている。しかし昔から計算間違いはよくしていた。でも私はそれを指摘しなかった。息子が「これはね、こうなるんだよ」と言ってきて、あ、その答えは間違いだな、と思ってもそれはさておき、次のように聞いた。
「へえ、どうやって考えたの?」すると、どうやってその答えにたどり着いたか、考えの道筋を教えてくれる。だいたい答えが間違ってしまうのは単純なミスが原因で、考えの道筋は驚くほど論理的なことが多い。「それ、自分で考えたの?」と聞くと、そうだと答えたり、何かをヒントにしたと答えたり。
「それだけのヒントでよくこれを考えついたねえ!」「自分一人でよく思いついたねえ!」と驚くと、息子は得意満面。次の法則を見つけようと、数字を見つめ、いろいろいじったり。そうして数の不思議をどんどん見つけていった。そして不思議なことに、間違いはその間にいつの間にか修正されていた。
だから、正確に答えを導くことより、数の不思議や仕組みを探究すればよいのだと思う。おそらくこの件に関しては、多くの数学者が同意するのではないか。正確さも大切だが、一番大切なのは数学の不思議を探究すること、その探究を楽しむことこそが大切だと。
大学生の時、数学が必修になっていた。内容は行列だったと思う。ところが数学を教えてくれる先生、毎回計算間違いをする。ほぼ確実に間違い、黒板の上で計算し直してばかりなので、受講する側としては閉口。でもこの様子を見て、数学者は計算が得意なわけではないのだな、というのがよく分かった。
私自身、「これはね、こうなんだよ」と自信満々で人に語ってから、後日、事実と異なっていることに気がついた時、大いに赤面すると同時に、「そうだったのか!」と強く印象づけられ、以後、間違わなくなる、という経験を何度もしている。間違いは指摘されなくても、いずれ自分で修正することになる。
自分で間違いに気づき、自分で修正したほうが理解も深まり、以後、間違わなくなる、と考えているので、間違いをいちいち指摘しないほうがよい、と考えている。それよりは、普通ここで止まってしまうだろうという思考を、さらに奥へと進めた、ということの方が大切。
深く追究、深く探究する心、それを楽しむ心が大切。ならば、「どうしてそう考えたの?」と尋ね、自分でよくそこまで考えを進めたね、と、その点に驚けばよいのだと思う。すると子どもは考え続けることが楽しくなる。大好きになる。考え続ける子は、自然とミスは修正するから、気にしなくていい。
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「社会に出たら意欲だけでは全く評価されない」という指摘があったので、追伸。
変にやる気だけあふれているけど仕事がハチャメチャ、というのは、万を超える大群に一人で戦いに向かう蛮勇のようなもので、役に立たない。ただの「やる気」の意味での意欲は、私も無意味だと思う。
このスレで伝えたいのは、さらに考えを先へと、奥へと進めようとする意欲。考えることが大好きな意欲。さらに深く考えることを楽しむ意欲。「意欲」という言葉に修飾語が必要なことに注意。
そして、考えを先に進める意欲の高い子は、様々な能力を吸収していく。能力を高めていく。
それはひいては、社会でいろんな人のためにお役に立つ人間になることにもつながる。だから、考えを先に進め、奥へと深める意欲を持つことは、最も大切にすべきものなのかな、と考えている。