教師や警察官の子どもがグレることがある理由

私の父はいわゆる不良や非行少年の面倒を好んで見ていた。幼かった私から見れば気のいい兄ちゃんらで、私に乱暴したりちょっかい出したりすることはなかった。
父がふと漏らした言葉を覚えている。「教師と警察官の子は、どうもグレることが多いなあ」。

調べてみたが、教師や警察官の子どもが非行に走りやすくなるという統計は見当たらなかった。ただ、「不良塾」とも呼ばれた私の塾には、なかなかの問題児が集まっていたのだけれど、教師と警察官のグレたのが散見された。多いかどうかは分からない。しかし、グレた理由はどうも親の職業にあるらしい。

ではなぜ彼らは親が教師、警察官だからという理由でグレたのか。私の見たケースでは「家の中に教師はいるけど親はいない」「家の中に警察官は居るけど親がいない」のが理由であったようだ。

しかし子どもにとっては親。子どもがいてほしいのは親であって教師ではない。なのに親がいなくて教師がいる。
しかも、教師としてのテクは我が子には通じないことが多い。教師のテクは、学校という権威を背景に、教室という特殊空間で磨かれたもの。教室の子どももその特殊空間で独特の振る舞いをする。

しかし家は教室ではない。家庭の中に校長先生の威光は伝わらない。教師のテクは、家庭の中では無効なことが多い。しかも学校の場合はたくさんの子どもがいる。子ども同士で牽制する空気を教師は利用できるが、家では親と子どもがいるのみ。一対一の関係ではテクが使えない。

また、学校に来る子どもたちは、学校の先生の言うことを聞くようにと親から諭されている。だから言うことを聞く。しかし教師の家には親がおらず、教師として振る舞う人がいる。子どもは親がいてほしいのに、教師が説教する。これでは子どもにとって、家まで学校になるようなもの。

しかも、教師である親も、家ではカミシモ脱いで落ち着きたくなる。だからだらしない姿も見せることになる。なのに叱るとき、何か子どもを操作したいとき、教師になる。ある程度の年齢になってくると、子どもは教師という表の顔とだらしない裏の顔の乖離に我慢できなくなるらしい。

私は塾で10年子どもを指導した。塾で磨いたテクもあるが、自分の子どもを育てるのに使えるテクはほとんどない。ただ、私は大きなデータベースがある。問題を抱えたご家庭の親御さん、子どもたちとの面談の数々。

私の塾は不良塾と呼ばれるだけあって、色んな課題を抱えているご家庭が多かった(そうでないご家庭もあったことも申し添えておく)。塾に子どもをやるくらいだから、子どもへの愛情は皆さんあった。しかしちょっとした接し方に課題があって、子どもが我慢ならなくなっている、というケースが多かった。

私の子育ては、三者面談でいろんなご家庭が抱えていた諸問題に触れたことが、大きな助けになっている。それと比べたら、塾講師として培ったテクはほぼなんの役にも立っていない。多くのご家庭の失敗談から学んだものが多い。

もしかしたら、親が教師や警察官で子どもがグレるのは、教師として、警察官としての成功体験を家庭に持ち込もうとするから起きているのかもしれない。私が思うに、教師や警察官として磨いたテクは、その職業として振る舞う空間でしか通じない。家庭に適用しても無効などころか、有害。

家庭の中では、教師であり警察官であることを忘れ、「親」になることが必要なのだろう。目の前の子どもをよく観察し、教室の生徒と比較したりせず、子どもにとって自分は親なのだ、甘えたり素を見せたりすることができる家庭の中で、家族として接する必要があるのだ、という自覚が必要なのかも。

親としてのテクは、教師や警察官、塾講師としてのテクと全然違う。親としてのテクは親御さんたちから事例を集め、研究するしかない。いや、何より、目の前の子供を生徒ではなく我が子としてよく観察し、教師としてではなく、親として接する必要がある。

私は、これまで塾で子どもを指導したり、他にもこどもの指導をやってきたけど、その指導体験は我が子にほぼ使えないと思っている。それよりは諸先輩方としての親御さんの数々の事例を思い起こし、子どもと自分の状況をよく観察して、その都度打つ手を考える。定式はなく、常に臨機応変、試行錯誤。

子どもにとって、親は自分しかいない。子どもは教師や警察官を求めているのではなく、「親」がほしい。それに気づいていないと、たとえ教師ウン十年でも、警察官として品行方正でも、子どもにとって親がいない上に監視する人が家にいることになってしまうらしい。

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