視聴者を想い続けることは難しいという話
YouTubeに動画を投稿し続けてもうすぐ3年になる。
私は、子育ての様子の動画を制作してきたYouTube動画クリエイターだ。
今回は、最近私が思い悩んでいる話の一つ、「視聴者」を題材にして文章を書く。
YouTube運営の裏側や、クリエイターの思考に興味がある人、また、YouTubeに限らず、自分のことを情報発信している人には、少しばかりか参考になる話になるのではと思う。現役YouTubeクリエイターの苦悩だ。
視聴者のことを想像することが辛くなってきた
私のチャンネル運営の仕方は少し特殊だ。
そのやり方とは、妻と娘たちの日常を撮影したのち、私が編集をするといったものだ。
撮影素材に合わせて、妻の心情を私が文章化してテロップで表現していく。
演者の声なしで、映像とテロップのみで表現するスタイルだ。ちまたでは「サイレントVlog」ともいう。
演者である妻の内面を私が編集を通じて表現している。
つまり、動画の中の「私」は妻の姿をしているが、「私」の内面は私が作り出しているである。(もちろん、全ての動画がそうというわけではない)
視聴者の大半は女性で、妻と同年代の小さい子を持つ親か、もしくは子育て引退世代の50〜60代のおばさま方だ。
私の活動は、ゴーストライターに近い。
情報発信の基本は視聴者を想定すること
大前提として、情報発信において情報の受け手がどんな人か想定することは極めて重要だ。
思い出してみてほしい。
中学校の同窓会では、中学の同級生と中学時代の思い出を話しするだろう。
子どもと話をするときは、ゆっくりしゃべったり、難しい言葉を使わないように注意を払うだろう。
手紙を書くときは、読んでくれる相手のことを考えて書くだろう。
つまり、発信というのは、受け取り手ありきで成り立つものなのだ。
YouTubeで動画を作るときは、どんな視聴者に見てもらいたいか、どんな人が自分の動画に興味があるかを突き詰めて考えることが重要だ。
むしろ、それさえできていれば、あとは視聴者が好む形に動画のスタイルを最適化していく作業を繰り返し行っていくだけである。
数をこなせば視聴者像はしっかり固まる
YouTubeが伸び始めの頃は、育児に関して視聴者が関心のある内容で片っ端から動画を作った。
自分自身が育児を積極的に取り組んでいたこともあり、育児のことを発信することに熱量もあった。
発信を続けて、1動画あたり数千〜数万再生程度されるようになると、動画にコメントが毎回2桁以上もらえるようになる。
そんな状態を続いていくと「どんな人が動画を見ているか」がしっかり固まる。
どんな話題が好きで、どんな話題を不快に感じるのか。視聴者の年齢層や収入レベル、家族構成、生活スタイルまで想像できるようになる。
浮き沈みの激しいチャンネルがたくさんある一方で、私たちの運営するチャンネルが安定して再生され続けたのは、視聴者に意識を向け続けてきた結果に思っている。
「発信したいこと」と「発信すべきこと」のギャップ
視聴者層が固まると、発信すべき内容が見えてくる。あとは視聴者が求める内容を発信し続けるだけだ。
いとも簡単だ。。。
と思っていたが、実はそうでもない。
私はこれまで、子育てをする女性や、50〜60代のマダムに向けて動画を作ってきた。彼女たちが共感すること、少しでも役立てられることに日々思考を巡らせてきた。
その結果どうなったか。
動画を作るのが苦痛に感じるようになったのだ。
視聴者のことを想像すればするほど、虚無感を覚えるようになった。
視聴者は育児の日常の様子の動画を求めているのは理解している。
しかし、私が50〜60代のマダムやママたちに向けて動画を作ることにいったい何の意味があるのだろうか。
育児を初めて2年以上。いい意味で育児をこなせるようになってきた。
当初は悩んでばかりいた育児だが、今抱える悩みは当初と比べて明らかに小事だ。
育児の悩みを小さく感じるようになったからこそ、動画で育児の悩みを表現することに熱量を込められない。
ましてや私は30代の一般人男性。特殊な性癖は持ち合わせていないし、ママたちに向けたビジネスに熱い想いがあるわけでもない。「心の底から視聴者と繋がりたいという想い」が足りていないのだ。
(今の視聴者の方には大変失礼なことだと承知しております。)
私にとって、育児Vlogは「発信したいこと」から「発信すべきこと」に変わっていたのだ。
人生の価値観の変化に耐え抜く力
動画作りが苦痛に感じる要因の一つは、人生が前に進んでいることだ。
誰であれ、時が経てば新しいことに興味を持つし、生活が変わることもある。
転職したり結婚したり、子どもが学校に行き始めたり。
人生が前に進むと、人付き合いも変われば、考え方も変わる。興味のあるものが変化する。
今まで夢中になっていたことよりも、もっと新しいものに夢中になるし、新しいものに時間を費やすようになる。
するとどうだろう。
今まで発信してきたことを、これからもさらにその先も発信したいと思えるかどうか。
今までと同じ視聴者に向き合い続ける熱量があるか。
もし仮に、自分の日々の価値観をアップデートしつつも、同じ発信を続けていく動機があるのなら、思う存分続ければいい。
しかし、価値観のアップデートが、発信を続ける動機を損ねることがあるのなら、無理して発信を続ける意義があるだろうか。
熱量のないところに結果は出ない
私の熱量の低さもあいまって、最近、妻に動画編集をしてもらった。
妻が編集した動画を確認すると、クオリティが高いと感じた。
視聴者想いの優しい動画に仕上がった。
実際に投稿してみると、過去10本中1位を叩き出した。
「動画編集楽しい」
と妻は言う。しばらくの間触ってなかった動画編集を久しぶりに再開したことで、もっとやりたいという気持ちを感じているようだ。
今の私と妻の間で決定的に違うのは、熱量だ。
これまでの経験上でも、結果が出せた分野では必ず熱量がついてきてたように思う。
Xのフォロワーが2000人以上いるのも、過去に熱量を込めて取り組んだ時期があるからだ。(今はただの錯覚資産にすぎないが。)
逆に言うと、熱量を持って取り組めれば、結果に繋がりやすいともとれる。
熱量の赴く方へ舵を切るという選択もありだ。
まとめ
今回は、視聴者を想い続けることは難しいという話をしてきた。自分の価値観が変化すると、同じことを続けることが困難に感じることはままある。
だからこそ、継続できている人は素晴らしいと感じるし、特別な能力なようにも思う。
私はこれからも動画投稿は続けていくが、作業の比重は妻にずらしていくつもりだ。
特に対策的なものを提案するようなオチはない。
自分の思考にこべりついたものをペタっとページに貼っただけだ。
日々の中でアップデートがあればこちらで報告しようと思う。
あとがき
実は、noteの文章を書くのは2年ぶり。
書こうと思ったのは、過去の自分の文章を読み返したことがきっかけだ。
過去の自分の書いた文章を読んで、素直に面白いと思った。
YouTubeやXで発信をしてはいるがYouTubeでは視聴者に目線を合わせるため、自分の思考を的確に表現することが難しい。自分にとっては素の言葉や表現すらも噛み砕く必要がある。数字を伸ばそうとすると、マス向けな表現になる。
Xについては短文すぎて、文脈を絡めた表現をするのが難しい。
自分のやっていることや人となりを表現するには必ずストーリーが必要なのだが、140字で表現するのが難しい。みんなが関心のあるマス向けな表現になりがちで、人間味を伝えるのが難しい。
その分、noteは閲覧数を伸ばすためのアルゴリズムを意識しなくても済む。
長文を書けるので、人となりを伝えやすい。
だから今回記事を書いた。
記事で自分の悩みや考えを言語化する熱量が湧いたからだ。
熱量があると、眠気をこらえてでも作業できる。
それくらい熱量を向けられることを探してみるの、おすすめす。
ではでは。
いただいたサポートは、夫婦でのクリエイター活動に利用させていただきます。