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「啐啄同時」100日間毎日チャレンジ16日目

今日の言葉:

「須らく啐啄同時の眼を具し、啐啄同時の用有るべし」碧巌録十六則

令和7年1月5日日曜日あと84日:

カーテンを開けると朝日が本棚を照らした。私は何者かに導かれるように、マーク・トウェインの「アダムとイブの日記」を本棚から取り出しパラパラめくっていた。日記形式の小説といえばこの本しか思い浮かばない。

私はスビラトの100日間チャレンジを見守りつつ、こっそり自分でも100日間チャレンジを行っていたのだ。スビラトはもちろんこの事を知らない。もちろんハリマさんにも教えていない。公言しないとチャレンジに失敗しても人に知られることがないから自尊心が守られると思うかもしれないが、この挑戦はあくまで自分との約束で始めたのだ。禁酒した事も誰も知らない。慎独を実践するためにだ。人に言わないからこそ、その真価が問われると思っている。

禁煙はまだ始めていない。ただそのタイミングを知らせるノックの音が鳴るのを、ずっと耳を澄ませて待っている。始める準備はもうとっくに整っている。いつでもいい。お酒を絶つ時もタイミングが狂っていれば失敗していただろう。

碧巌録に書かれた禅語に「啐啄同時」という言葉がある。親と子が外と内から同時に卵の殻をつつかなければその雛は孵らない。物事には絶妙なタイミングというものがある。禁酒の時も、どこか啐啄同時の妙を感じていた。しかしその絶妙なタイミングがいつなのかは前もって分からない。自然無為的に導かれる時がある。まるで未来の私の行動が、過去の私の行動に影響を与えたと信じざるを得ないと思うほどに、それは何者かに操られていた感覚を覚えたのである。 

「アダムとイブの日記」を一通りパラパラめくり終わると、元あった場所に戻した。その瞬間、この「アダムとイブの日記」という本が、他の本に混じり具体的なものから抽象的なものへと還って行った。

明日からまた平日に戻る。正月の非日常から日常の毎日に。そうだ、まるで本棚の中のあの一冊の本のように。

100日間チャレンジの始まり: