「パラドックス」100日間チャレンジ11日目
今日の言葉:
「 神はすべてを数と重さと尺度から創造された。」ニュートン
昨日は一年の仕事が全て終わってほっとしたのか、朝までずっと深い眠りに落ちていた。朝起きた時、睡眠中の事は一切覚えてなかった。途中で目も覚めなければ、夢も見なかった。緊張の糸が切れたからなのだろうかと、私は思った。
最近私は上機嫌でいることがなかなかできなくなっていた。それだからといって不機嫌になっているのではなく、仕事が忙しくて心に余裕がなくなっていたのかもしれない。
作用反作用の法則に当てはめれば、ちょっとでも上機嫌に傾いていればいいのだ。1ミリでも上機嫌の方にエネルギーが加わっていればいい。しかし、その1ミリができていなかったのだ。1ミリとは小さなエネルギーかもしれないが、1ミリでもプラスに変化する事は非常に大きな意味があるとつくづく感じた。
例えば少しでも電気が流れていれば電球が付く。しかし1度電気が流れてしまえば、必要以上の電気は余分で意味の無いものになる。上機嫌もそうだ。必要以上の上機嫌は、上機嫌でいるためには余分なのだ。1ミリでも上機嫌に傾いていればいい。
100日間チャレンジに例えると、まるで10日でチャレンジが終わってしまった時のように、100日という目標を失敗すれば、その10日に対してマイナスの感情を伴う。しかしもし10日チャレンジにしておけば、目標は達成され、マイナスの感情どころか満足すら感じるだろう。実際に10日間でやった事はどちらも全く同じなのにだ。
つまり上機嫌にしても、その程度が高すぎると、維持するのが難しくなって、高すぎる目標設定に失敗し、マイナスの感情が生じることになる。
上機嫌なのに不機嫌になる要素を生むというパラドックスだ。例えば1冊の本を指で挟んで持ち上げる時、ちょうどいい力加減がある。必要以上に指に力を入れる必要はないのである。コップを手で掴んで口に運ぶ時、その手には、コップが落ちない程度のちょうどいい、無駄のない力加減が自然とされている。
上機嫌も同じように自然となされるちょうどいい力加減が必要なのだ。不自然な高い目標設定は意味がないどころか害になる。ちょうどいい力加減があるはずである。物がそれぞれ重さや摩擦も違うように上機嫌もまた常に同じ力加減という訳でもないだろう。固定的なものではないのだ。
布団の中でそんな事を考えていると、外で鳥がないているのに気づいた。私は布団から出て仏壇に挨拶をして、大晦日の朝を迎えた。
100日間チャレンジの始まり: