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羅愼伝~序章【6】
阿修羅は、王と呼ばれる威圧感を放ちながら帝釈天に付き従っていた文官たちを一神ずつ見るように視線を流していく。此処で費やす時間は、正直なところなかった。
そうであっても、帝釈天が見せた心意気が後の火種にならないように心を折っておく必要があった。
この先は、これまでと同じように簡単に解決することはできないだろう。その覚悟があった。武力にして同等、もしくは、向こうの方が長けている可能性がある。少なくとも身長差で5倍はある。大きければ良いというモノではないが、体躯もまた力の象徴だ。
帝釈天は、最初から勝てないことを理解していた。何度か、頼まれて模擬戦をしているが、阿修羅王が本気になることはなった。いや、本気どころか、武術の片鱗すらも見せていなかった。
それほどまでに帝釈天個人の手技としては、まだまだ未熟な域にあった。もちろん配下に従える武神よりは強く、集団を指揮する軍神としての力や、自然を力とする魔法力は目を見張るものがある。
それでも、阿修羅王には勝てないと帝釈天は何処かで悟っていたのかもしれない。動きが何処か緊張感で遅められていた。
帝釈天には、軍神としての、天帝軍の総指揮者としての矜持があった。だから、この場で引くことができなかった。きっと、その恐怖は、従えていた文官や兵士にも伝わっただろう。倒れゆくその瞬間まで消えることのなかった闘気も、新たな火種になりかねない。
阿修羅は、少し間を置くようにゆっくりと深呼吸をした。呼吸を整えると同時に体力の回復をする闘気呼吸法のひとつだが、単身での武闘を好むもの以外でこの呼吸法を身につけるものも、知るものも皆無といってよかった。
明らかすぎる武力差を示したうえで、兵士の数名が闘気を滾らせ始めた。
彼らにすれば、此処を死守する意味はあるのだろう。ただその行動が無意味といえるほどに結果が明らかであれば、何の意味もないのだが…
―これも、帝釈の…
帝釈天は、何度も阿修羅に模擬戦を挑み、その都度、なす術もなく負けてきた。それこそ意識が刈り取られるまで何度も立ち上がり、その都度、強さを手に入れていった。
天帝の軍を預けられるその時まで、数えきれないほどの模擬戦の中で培った武術は、須弥山に集う武神の中でも上位に匹敵する。個々の武であれば、多聞天や毘沙門天の方が上回るかもしれない。
軍神としても、帝釈天は、多聞天とは拮抗する能力を有している。
二伸の間に優劣をつけるとするのなら、そこに在るのは指導力と先見力だ。
多聞天は、眼が出てから育てることを得意とするが、帝釈天は、畑違いの物ですら適材に変え、育て開花させることができた。
だからこその須弥山最高位に位置する軍神と帝釈天はなった。
その帝釈天が、自分の近くに配置するものたち。この瞬間に開花する種を与えるのは避けたいと阿修羅は考えていた。
「来ないのなら、抜けさせてもらうぞ」
阿修羅は呟くように言うと謁見の間につ上がる扉の前に移動を始めていた兵士に声を掛けた。
その声に兵士は足を止めた。生きた心地がしないだろう。と感じさせるほどに汗をだらだらとかき出している。
この女神にしか見えない美貌の戦神を誰もが恐れていた。
剣さえ当たれば切り裂くことが叶うと思わせる体格なのに、その剣すら当たらない気がする。自分よりも小さいからか、早いからか、様々な疑問が湧き出て、ぐるぐると頭の中を巡っていた。
戦うことは死に繋がる。肉体の崩壊は、魂の戻る場所を失わせ、その個体の死が訪れる。無事に魂が旅に出たとして、その先は全く違うものになる。それがどうしようもなく怖かった。
魂に刻まれる記憶が、不一致を示す肉体に宿ることの不安。それから開放するために転生時には記憶は封印されることが判っていても、最後に戻るべき体が消滅すれば…
帝釈天の体は無事でも、自分がそうだとは限らない。と兵士は、恐怖に支配されはじめていた。それは、彼の兵士として、戦神としての終わりを告げるものだと彼自身も気付いていない。
自身が信じて突き進んできた道を自分で閉ざす結果となってしまう。抱いた先が見えない恐怖に推し勝つことは難しいかもしれないが、どんなに闇夜に迷い込んだとしても、慎重に歩みを進めることはできる。
進んだ先に見えるかもしれない光の粒を求めるように進むだけで、生き方は変わる。投げればすべてが終わる。たとえ進んだ先が自分の望んだものと違ったとしても、それまでに費やした時間は、その者の身にも血にも染みこむ力となる。すごした時間を無駄にはならない。
無駄に時間を過ごしさえしなければ…
阿修羅は、その兵士の横を通り過ぎた。たぶんこの兵士には何もできないだろう。それほどまでに恐怖が彼を支配していた。
申し訳なさが阿修羅の中に浮かんでくる。それは一瞬の気の緩み。戦神として此処にいる兵士にとっては起死回生のチャンスでもあった。
でも、柄を握ることができても、剣を抜くことはできなかった。
彼は、ただ阿修羅王が門を押し開き中に入っていくのを見ている事しかできなかった。
「死ぬかと思った」
阿修羅王が去ったあと、兵士の一人が呟いた。その場に尻もちをつき、自分たちの情けない気持ちに背を向けようと言い訳じみた言葉を口にし、同調を得ようと…
悔しさは確かにある。でも、本来の死を意識させられた時点で、身体が動かなくなった。そうなることを帝釈天はまだ教えてくれていなかった。恐怖に背を向けたくなければ、武でも智でもいいから日々精進しろ、とそれだけは言ってくれていたが…正直なところ、何を言われているのか、いまのいまでも判っていない。
阿修羅は、謁見の間の中央で足を止め、振り返った。。
―悪いな、帝釈、一からのようだぞ…
誰一神も追いかけていない背後に寂しげな憂いを残して阿修羅は、駆けだした。謁見の間の向こう継承の間へとつながる階段をめざして。
封印を解かれてからそれほど立っていないのだろう。残留的な魔力がまだ残っていた。