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2025年読書1.『教育にひそむジェンダー』を読んだ
今年、最初に読んだ本は、中野円佳著『教育にひそむジェンダー 家庭・学校・メディアが「らしさ」を強いる』(ちくま新書)であった。
本書の筆者は「はじめに」で、次のように書いている。
2022年度より、東京大学で働き始めた。
約20年前の2003年に学部生として入学した際、私は心底この「日本一の大学」とされる大学の実態に失望した。キャンパスを歩けば、サークルの勧誘、勧誘、勧誘。どの教授が知的好奇心を掻き立ててくれるかではなく、いかに楽に単位を取るかという情報が飛び交う。授業では数百人が受ける大講義室で、はるか前方に立っている教授は豆粒のように小さく見える。講義内容よりも、後ろの男性学生たちが「昨日のサークル飲み会でカワイイ子がいたかどうか」について延々と話していることのほうが耳に入って来るーー。
実は当時の私は、この苛立ちをもとに、大学4年間にわたり様々な企画を立ち上げ、実施した。学生生活における多様な過ごし方の選択肢について取材し、NPOやボランティア活動、学生団体によるビジネスコンテストなど、目的を持ってやりたいことに取り組む学生たちの活動を本や冊子にまとめて全国を旅しながら売り歩いた。
その後、大学の授業も、単位や点数を取るためではなく、問題意識を持って聞けば一人一人の学びに非常に有効に位置付けられるということに気が付き、後期課程(3,4年生)以降の先輩たちに、一般教養の授業をどのように選び、自らの学びに位置付け、専門課程にどのように生かしたかを聞き取りして、「面白い授業」の紹介冊子として大学側の後援のもとで発行した。
このように大学生としての時間の使い方は本来非常に多様であるにもかかわらず、ひとたび大学に入ると、「授業は楽をして、サークルや飲み会に勤しむ」というカルチャーが、あたかも唯一の選択肢かのように迫ってきてしまう。もっと早い時点で大学生活のイメージを広げておけないかと考え、高校生向けのガイダンスや新入生向けイベントを企画・運営。そうやって「学生生活のあり方は多様だ」と伝えることで、皆に大学を価値ある場として再認識してもらい、大学をより良い場所へ変えていきたいと活動していた。
大学に入って、勉強することを楽しみにしていたのに、周りは楽に単位を取ることばかり考える学生が多く見える。さらに、学生の会話は「カワイイ子がいた」等のものであり、絶望する。モノカルチャーの文化に見えたという。しかし、中野氏は、視野を広げて、学びを深めている同志を見つけ、様々な学び方があるということを自分と同じように悩んでいる人に広げる活動を始めたという。このあたりの行動力がすごいなと思う。
その後に、なぜ東大のキャンパスがきわめて均質なカルチャーに見えてしまうのか?と問いをだす。そして、
こういったことを突き詰めると、結局元凶は、東大生が東大に来るはるか前から始まっている、あるいは東大と関係がない人たちにも刷り込まれたバイアスがあるからだと思えてくる。
「ジェンダーバイアス」がモノカルチャーになっていることの一つの原因ではないかと考えるのである。
そして中野氏は、ジェンダーバイアスがこれまでどのように教育に組み込まれてきたのか研究・発信することが大事だと思い当たる。
同書は、いかに無意識のうちにジェンダーバイアスが我々が受けている教育に組み込まれているのかを紐解いていくものである。中野は「いかに私たちがジェンダーについてのステレオタイプに支配されているかということと、それを打破するための取り組みが始まっていることを読み解いていきたい」と述べている。
自分がこの本を手に取ったのは、SNSで同書からの引用が心に残ったからでもある。
同書、174頁に、「東京大学の「2020年度「東京大学におけるダイバーシティに関する意識と実態調査」報告書」の自由記述欄には、学生同士の間で繰り広げられる環境型ハラスメントともいえる問題について訴える声が上がっている」として、東大の学生が実際にどのようなハラスメントに遭遇したかが書かれている。
▼「指導教員がゼミ中に「研究をやるのは女性にモテるためだ」という趣旨の発言をしたことがあって不快だった。直接学生への対応を生によって変えたりなどはないが、学生が男性であることを前提とするような発言(それ以外の性の人の存在を前提としないような発言)だったと思う。そのときは遠回しにおかしいのではないかと言い返したがもっとはっきり言えればよかった」(女性)
このアンケートの言葉に非常にハッとした。なぜなら、こういう発言を自分も無意識のうちにしていなかったかと思ったからだ。
教授が「研究をやるのは女性にモテるためだ」という発言をしたというのは、論外であるが、学生の立場でこのようなことを、冗談のつもりで言うことはあり得ると容易に想像できるのは自分が男性であり、そのことに問題意識も持っていないからではないか。こういう会話は男性の間ではよくなされることではないだろうか。しかしそこには、女性をまるで、研究をすることに付随するもののように見る目線が潜んでいる。そして、自分にも無意識にそういう在り方が定着していたのではないか。この問題性を初めて指摘された気がした。そして問題は、東京大学という教育者・研究者を育てる場でこうした会話が当たり前になされていることである。このことに無頓着ではいけないと思った。その発言で傷つけられている学生がいるのである。だとすれば、これは許されるものではない。またもう一点、そのような会話をしなければならない愚かさというか、自己の品の無さを思う。だとすればそのような発言をすること自体が自分をある意味で傷つけている。しかし問題は自分を損なうということではなく、それによって他者を傷つけているという結果が生じているということである。またそれが再生産されるプロセスに参加しているということである。
本書のすべてに言及する余裕はないが、気になった記述をいくつか取り上げたい。
萌えキャラがなぜ批判されるのかということについての議論を見ておきたい。以下中野氏上掲書から引用する。
ある授業で、特に攻撃的といった形ではなく素朴な疑問という口調で、「フェミニストたちはなぜ萌えキャラを批判するのか」と質問をしてきた男性の学生がいた。私自身、女性の身体の一部を過度に強調される描き方に不快感を覚えるのだが、目の前の悪意のなさそうな若い男性に納得してもらうにはどう説明するのがいいのだろうと思い、ひとまず、専門家たちがどのように説明しているのかを調べ始めた。…中略…ジャーナリスト、研究者、エッセイストなどの表現者による共著『いいね!ボタンを押す前に』(2023年)で、季美淑「炎上する「萌えキャラ」/「美少女キャラ」を考える」はマーサ・ヌスバウムの「客体化(オブジェクティフィケーション)」という概念を使用する。
これは他者を客体化することの特徴として、①道具のように扱う、②自己決定権の否定、③受け身の存在とみなす、④代替可能とみなす、⑤侵略可能とみなす、⑥所有可能とみなす、⑦主体性の否定、をあげる考え方だ。
客体化による悪影響としてアメリカ心理学会(APA)の議論を引用し、少女/女性が「身体」や「外見」で価値があるとみなされることに対する精神的な負担についても言及する。少女の性的対象化について、第一章でも言及した;アメリカ心理学会タスクフォースは、「女性がテレビ番組、ミュージックビデオ、歌詞、雑誌、広告をつうじて性的対象化されている」と指摘し、「これらのメディアが発するメッセージの集中砲火を受けることによって、大人も子供も対象化され自己を性的対象とみなすようになる」という。
萌えキャラの何が問題なのか、中野氏は様々あげていて、是非本書を直接読んでもらいたいのだが、個人的に響いてきたのは、客体化という考え方であった。近年、何でも萌えキャラにして扱うということがあるが、そのことは客体化につながっており、客体化することで、
①道具のように扱う、②自己決定権の否定、③受け身の存在とみなす、④代替可能とみなす、⑤侵略可能とみなす、⑥所有可能とみなす、⑦主体性の否定
が生まれるというのだ。萌えキャラにすることで、我々はその存在を、道具のように扱い、代替可能の見てしまう。そして侵略可能とみなし、所有可能とみなし、そこに主体性の否定をするというのだ。
確かに、尊敬している先生などを萌えキャラにすることはできない。たとえ愛着を持っている相手でも、相手を萌えキャラにするというこういう事態が、何か一線を越えているように思う。
こうした相手を、道具のように扱う、主体性を否定するということが萌えキャラ化に含まれた問題であると学んだ。
あと一つ非常に心に残ったのは子供が大人の期待を想像以上に読み取るということである。中野氏があげていたのが、ランドセルメーカーである「セイバン」の「ランドセル選びドキュメンタリー篇」(2023年)という動画である。氏はこの動画を大学生と一緒に見て、意見を交換したという。
かなり、話題になった動画だそうだが、私は全く存在を知らず、かなり考えさせられた。
皆さんは、この動画を見て何を感じるだろうか?よかったら続きを読む前に一度上の動画を見て、考えていただきたい。
どういう動画かというと、今度小学校に上がる、子どもたちが、ランドセル屋さんで、好きなランドセルを選ぶという内容だ。親たちは子どもたちがランドセルを選ぶ様子を隠れてみている。
親たちは、あの子はベージュが好きだからベージュを選ぶのではないかとか、あんまりほかのこと違いすぎないのがいいなと思いますとか、汚れが目立たないのがいいとか、あの子は黒を選ぶのではないかと言っている。
そして、なんと実際に、ほとんどすべての子どもが、親の期待した通りのランドセルを選ぶのである。ベージュを選ぶのではと言っていた親の子はちゃんとベージュのランドセルを選ぶのである。
しかし、実はここで親に種明かしがされる。なんと、こどもには「お父さん・お母さんが選んでほしいと思っているランドセルを選んでみましょう」と伝えられていたのだ。つまり、子どもは親の好きそうなランドセルを選んでいた。そして、子どもは敏感に親の好みそうなものを読み取って、それを自分の願いとしてランドセルを選んでいたのだ。
少し恐ろしい気持ちになる。子どもは自分の願いより、親の願いを選び取り、いつの間にかそれをこそ自分は選ぶべきだとしていたのではないか?
そして、次に、こどもには、「本当にじぶんがえらびたいものを選ぼう」と伝える。そうすると、子どもたちはさっきよりもずっと嬉しそうに、ニコニコして自分が選びたかったランドセルを選ぶのである。
それは、親の期待したものとは全く違うのである。
汚れが目立たないのがいいと言われていたこは白いランドセルを選び、あまり回りと違わない方がいいと言われていた男の子はピンクのランドセルを選び、赤いランドセルを選んだ女の子は水色のランドセルを選ぶ。本当に自分の好きなものを選ぶのだ。
ここに、いつの間には親が女の子には赤いランドセルを、男の子には黒いランドセルを選ぶことを無意識に促し、刷り込んでいたことが暴露されるのである。そして、教育全体にそういうことがいきわたっているのである。
この動画で希望に思ったのは、最後に親たちが子どもたちが選んだものを認めるというシーンである。ピンクのランドセルを選んだ男の子にお父さんが、「おーすごい、似合ってるよ」と激励するのであるが、ここでは涙が出た。
本書で書かれている問題はすぐには解決できない問題ではあろうが、まずは、教育にジェンダーステレオタイプがどのように織り込まれているのかをきちんと追跡し、それがどのような影響を子どもたちに与えてしまっているのかを分析することが大事であろう。そして、問題点を少しずつ、これまでのジェンダー・フェミニズムの研究成果に照らして変えていかなければならないと思う。自分自身の態度も学ぶことによって変えていかなければならない。様々な分野でできることがある。
例えば、現在仏教系の中学・高等学校で使われている宗教の教科書にはほとんど女性が登場しない。それは特に日本仏教で活躍する祖師は男性であるということが影響しているだろう。これはいかに今までの仏教界が男性中心社会だったかを示す証左である。しかし、その一方で、女性の仏教者や女性による実践活動もたくさんあった。その点に光を当てるような記述も教科書に増やしていかなければならないのではないだろうか。
女性の登場人物をメインに据えた、仏教の教科書作りということもなされていいと思う。
社会の設計者が男性中心になっているということを本書で改めて教えられた。やはり、もっと政治や学問などの分野に女性が増えるような仕組みを作っていかなければならない。そのことと、自分の中のジェンダーバイアスを確認し、少しずつ直していくということを同時にやらなければならないと感じた。
(以上)
年末年始のお供に良ければどうぞ… https://t.co/4Ogjts1eHs
— 中野円佳12/9『教育にひそむジェンダー』 (@MadokaNakano) December 26, 2024