各自に地獄がある
今日、東本願寺でお参りをしてから、鴨川を散歩した。
年末年始は家に籠ってやる書き物があったので、丸5日ほどほぼ外に出ずにすごしていた。そのせいで頭がガチガチになっていたが、散歩はやはりいい。
散歩するだけで何かが浮かんでくるし、発見がある。
鴨川には色々な人がいる。
ランナーや、アベックや、子どもたちや、旅行者や、一人で本を読む人。
楽器を弾く人、写真を撮る人…。
多様な生き方をしている人、人間の多様なあり方をこうして川を歩くだけでも感じられる。
しかし、私はどの人の根底にも悲哀があるように思うのだ。これは思うだけだ。
ある親子3人が、川べりに座って、肉まんか何かを食べていた。
父と母の間に、中学生くらいの娘さんが肉まんをほおばっていた。
その肉まんを食べている女の子の顔がとても悲しそうだったのだ。
すごく辛そうに、ゆっくり食べていた。
これはもちろん僕がそう見えたというだけの話なのだが。
このどこから見ても幸せな景色、しかし、私は、ああ、この子にも地獄があるんだなと思った。何で生きている分からない地獄。
これはもちろん僕が他人に重ねているイメージでしかない。
しかし、この本当に外から見たら幸せそうな親子の姿、しかし女の子はとても苦しいと思っているのかもしれない。何かこの子にしか理解できない、全く他の人の想像を絶するような地獄があるのかもしれない。
それは端的に言えば、何のために生きるのか分からないままに生まれてきたということなのだろう。
なんで生まれたんだ。それが分からないまま、僕たちは生きざるを得ない。
しかし、それなりにうまく生きなければならない。このこと自体が地獄ではないか。
このような事を思うきっかけの一つになっているのは、2022年12月28日、年末の埼玉県戸田駅で母親が、8歳と、6歳の男児を抱えて線路に飛び込んで3人とも亡くなったという衝撃的な事件のニュースを目にしたからだと思う。
どういう事態なのだと思う。母親を責める向きもあるが、この母親は無職であったという。この母親、母子をここまで追い詰めた社会、生きづらい社会、困った人を助ける事の出来ない政治に本当に憤りを感じる。
しかしそれとは別に、この親子も救われて行かれる世界が無ければやりきれない。本当にやり切れない。社会を良くしてから、では間に合わない世界がある。この母親と、亡くなった2人の男児たちが救われる世界が無ければ、やりきれないのだ。
そういう所に阿弥陀如来の悲しみがある。そういう人を救う世界が阿弥陀如来の浄土と言わざるを得ないのではないか?私たちが元気で、上手く行っているときに寄り添っているのが阿弥陀如来ではない。
各自の地獄に寄り添うのが阿弥陀如来なのだ。何も思っていないわたしの所に阿弥陀如来はいない、死ななければならない地獄のような場所に阿弥陀如来はいるはずである。人間のそこに寄り添うはずである。そういう仏でなければ信頼するに足りないのではないか。
そして、雑な話にしてはならないのだが、こういう地獄は、各自にある。
今日鴨川で見た、あの悲しそうな女の子にも地獄があると思う。そういう地獄に如来は寄り添うのだ。
私の心に、「その人の地獄に阿弥陀如来は寄り添うのだ」という言葉が生まれてきた。
よく、浄土真宗の法話では、いつでもどこでも阿弥陀如来さまはあなたに寄り添ってくれているということが話される。
それは教義として間違ってはいない。
常に我が身を照らしたもうのが阿弥陀如来の智慧と慈悲である。
しかし、現実的には、私たちが阿弥陀如来と接点を持つのは、各自の地獄においてであるのだろう。
普段、何も考えていなかったり、上手くやっているときの自分は全く阿弥陀如来のことなど想像もしないのだ。いや必要としていないのだ。
しかし、各自にやっぱり地獄があり、そこに寄り添っているのが阿弥陀如来なのだと思う。
各自の地獄にのみ如来との接点があるのではないか?
このことを聖教を通して、考えて行ってみたい。
(終)
(追記)今日ドンキホーテに行ったのだけれども、ドン・キホーテにも地獄がある。ドンキには何もかもある。しかし、その底に地獄味を感じるのだ。明るい地獄である。それは明るい地獄である。ドンキの全てを手に入れたとしても私たちは満足することはないだろう。決してドンキでは埋まらない心がある。
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