読書日記『人間関係を半分降りる』(鶴見済著)を読んだ。2022年11月23日
鶴見済さんの『人間関係を半分降りる』という本を読んだ。とてもお勧めだ。その中で、特に心に残った一節を抜き出し、感想を残しておきたい。
人目を気にしすぎると「どう思われているか」に圧倒されてしまう。これはよく分かる話である。そして鶴見は続けてこういう、どこからが気にしすぎかと言えば、主客が逆転したときだという。他人が頭の中の中心になって、それが自分を動かしたらもう主客が逆転していると…。
そして、互いが互いを監視しているような、人が多い場所だと、ますます人目を気にしているのだと鶴見は言う。そして、著者は学校がどれ程狭く、窮屈な場所かを改めて振り返っている。
たしかに、筆者の経験を思い出しても、まさに学校と言うのは、常に他人からどうみられるかが気になる場所だった。私の場合はそうだった、常にどう観られるのかを気にして、観られた自分と言うことを中心にして行動していた。だからその中にあるのは、自分の意志と言うよりも、つねに、他の誰かから見ておかしくない自分の意志だったり、誰かの期待に応えようとする自分の意志を中心にしていた。しかも、それが上手くできたときに楽しかったりした。だからこれは非常にやっかいな問題である。自分が他人に合わせた自分の意志と言う仮面を被っていると例えると、その自分の仮面が完全に本来の自己と癒着してしまい、もはやどこまでが自分の意志で、どこからが他人の目線を気にした自分の意志なのかが分からない。
更にそれを加速したのが、ビートたけしやタモリのような、人の品評・嘲笑をするようなお笑いが若者達に強い影響を持ったことを指摘する。
これは非常に分かる話だ。もちろん、過去から人は誰かの品評や嘲笑をしていたと思う。しかし、それが一つの笑いのテクニック、処世術、しゃべり方として皆に広く共有されるようになったのは、たしかに「お笑い」の影響が大きいのではないか?人を品評することが面白いのだということがテレビを通して皆に共有された。ダウンタウンとかもその系譜だろう。これはとてもわかる。友達どうして話している時、中心的な話題は、「あいつは何点だ」という何か品定めするような目線ではなかったか。この問題は非常に根深いのではないか。そして彼らに影響を受けている世代が次の世代に大きく影響を与えているとも思う。
社会不安障害は、「笑われた経験があること」が原因になりやすいとう。
ここで、鶴見は「では、「どう思われるか」を気にしなくなる方法なんてあるだろうか?」という問いを立てる。そして、次のように述べる。
まずは、視線が過密な場所から離れろと言う。
そして、悪意のある視線の中にいつまでもおらずに、やさしい視線のある場所に行くべきだという。
私個人は、Youtubeに出演する事には非常に恐ろしい気持ちがする。しかし、ラジオには全くそうした心配というか、恐れがない。それはこの視線の問題なのかもしれない。Youtubeでは世界中からの視線が向けられる。それは時に痛いものである。しかし、ラジオは視線が刺さることはない。聞く人は音に集中し、話者が何を言っているのかを聞き取ろうとする。そうでなければラジオからは何も見えてこない。ラジオには視線が無いのである。しかし視線があるYoutubeはそうした恐さがある。(そしてYouTubeを観ている時の視線は品定めの視線であろう。けして優しい視線とは言い難い)
少し話がズレてしまったが、自分が人の目を中心に生きていると思ったら、私たちは過密な視線のある場所から離れ、そしてやさしい視線、緩やかな視線がある場所に移動すべきである。
このことが分かっただけでも、この本を読んだ収穫があった。
(終)