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勉強メモ 「同朋」とはなにか ①

安藤弥師の「親鸞聖人の「同朋」ー「立教開宗」を考える」(『同朋大学仏教文化研究所報』第36号、二〇二三年)、1頁。に次のような文章があった。

親鸞における「立教開宗」に、「同朋」(ともに仏の教えを聞く仲間)、すなわち門弟の出現が重要な意味を持つということができましょう。『教行信証』の執筆は、ともに教えを聞く「同朋」の存在があってのことと考えるものです。親鸞は法然を師とし、その教えこそを「浄土真宗」と受け止めました。そして、「弟子一人も持たず候」(『歎異抄』第六章)という言葉が知られますが、歴史的実態としては親鸞の門弟集団が出現し、そして、その系譜を受け継ぐ「初期真宗門流」集団が後世、多彩に展開しました。

安藤弥師「親鸞聖人の「同朋」ー「立教開宗」を考える」(『同朋大学仏教文化研究所報』第36号、二〇二三年)、1頁。

ハッとした。親鸞が『教行信証』を書いたのは、ともに教えを聞く「同朋」の存在があってのこと。確かに、親鸞があそこまで『教行信証』をこだわって書き続けたのは、それを読む他者がいたからである。ここで、「同朋」という概念の意味が気になって来る。「同朋」はどういう人たちのことなのだろうか?自分の知っているお仲間というほどの意味ではないはずである。
そこで、「同朋」理解について、学んでみたい。

まず、親鸞の書物の中で「同朋」という言葉が見える部分を確かめたい。

①この明教坊、のぼられてそうろうこと、まことにありがたきこととおぼえそうろう。明法の御坊の御往生のことを、まのあたりにききそうろうもうれしくそうろう。また、ひとびとの御こころざしも、ありがたくおぼえそうろう。かたがた、このひとののぼり、不可思議のことにそうろう。この文を、たれたれにも、おなじ御こころによみきかせたまうべくそうろう。この文は奥郡におわします同朋の御なかに、おなじくみな御覧そうろうべし。あなかしこ、あなかしこ。 としごろ念仏して往生をねがうしるしには、もとあしかりしわがこころをもおもいかえして、ともの同朋にもねんごろのこころのおわしましあわばこそ、世をいとうしるしにてもそうらわめとこそ、おぼえそうらえ。よくよく御こころえそうろうべし。

「親鸞聖人御消息」三、『註釈版聖典』七四二頁。

②善知識をおろかにおもい、師をそしるものをば、謗法のものともうすなり。親をそしるものをば、五逆のものともうすなり。同座をせざれとそうろうなり。されば、きたのこおりにそうらいし善証坊は、親をのり、善信をようようにそしりそうらいしかば、ちかづきむつまじくおもいそうらわで、ちかづけずそうらいき。明法の御坊の往生のことをききながら、そのあとをおろかにもせんひとびとは、その同朋にあらずそうろうべし。無明のさけにようたるひとに、いよいよ、よいをすすめ、三毒を、ひさしくこのみくうひとに、いよいよ毒をゆるして、このめともうしおうてそうろうらん。不便のことにそうろう。無明のさけにようたるかなしみ、三毒をこのみくうて、いまだ毒もうせはてず、無明のよいも、いまださめやらぬ身にて、おわしましおうてそうろうぞかし。よくよく、御こころえられそうろうべし。なにごとも、もうしつくしがたくそうろう。またまたもうすべし。あなかしこ、あなかしこ。

「親鸞聖人御消息」五、『註釈版聖典』七四五頁。

『真宗新辞典』(金子大栄編)を読むと、同朋は次のように説明されている。

同じ仲間。同門の友。同法とも書く〔高田御書〕。同じ念仏の法につらなう朋友。親鸞は、如来回向の信心を同じくする念仏者を同朋・同行・御同行と呼んだ〔末灯〕。「同一念仏して別の道なきが故に、遠く通ずるに、夫れ四海の内みな兄弟となる」〔論註〕。「親鸞は弟子一人ももたず」〔歎異〕。「故聖人の仰には…如来の教法を我も信じ人にもおしへきかしむるばかりなり。その外はなにをおしへて弟子といはんぞ、と仰られつるなり。されば、とも同行なるべきものなり。これによりて、聖人は御同朋御同行とこそかしづきて仰られけり」〔御文〕。なお「御同朋」〔歎異〕は兄弟弟子のこと。

『真宗新辞典』、三七三頁。

先に見た①の御消息において次のような文章があった

としごろ念仏して往生をねがうしるしには、もとあしかりしわがこころをもおもいかえして、ともの同朋にもねんごろのこころのおわしましあわばこそ、世をいとうしるしにてもそうらわめとこそ、おぼえそうらえ。よくよく御こころえそうろうべし

現代語訳を見ると次のようにある。

数年来、念仏を称えて往生を願ってきたことの証しは、かつての好ましからぬ自らの心を思いかえして、友人や念仏の同朋たちともまごころをもって互いに親しむようになること、これこそが迷いの世を厭う証しであろうと思われます。どうぞ、よくよくご理解くださいますように。

細川行信他編『現代の聖典 親鸞書簡集』、二九頁。

念仏を称えるようになり、阿弥陀如来の願いを聞きながら生きようとしている人にはその”しるし”があらわれるのだという。その一つが、「かつての好ましからぬ自らの心をおもいかえすこと」。そしてもう一つが、「友人や念仏の同朋たちともまごころをもって互いに親しむようになること」だという。これは非常に重要なことだ。念仏の教えを聞き始めても、人を恨んだり嫌ったり、自分が一番という心がなくなるわけではない。しかし、それを思いかえす心が出てくるというのである。つまり、自分第一なのはやっぱり変わらないのだけれど、それでいいのか、ちょっと待てよ…と問われてくるのだという。そして、それは結果として「友人や念仏の同朋たちともまごころをもって互いに親しむようになること」になる。方向性が変わってくるというのだ。そしてそれは他者と生きるということとつながっているのである。

阿弥陀如来は十方衆生(すべての衆生)に願いをかけている。私の生きる方向がすべての人と共に生きる道を探す方向に転じられしめていくということである。そしてそれを敷衍すれば「同朋」とはすでに念仏に出会っている人だけではなく、すべての衆生ということになるだろう。
願いが欠けられている全ての衆生と共に、手を取って生きていきたい。そのような方向性である。もっと言えば、未来の衆生も含まれるはずだ。

『浄土和讃』「讃阿弥陀仏偈和讃」に次のようなものがある。

仏慧功徳をほめしめて 十方の有縁にきかしめん
信心すでにえんひとは つねに仏恩報ずべし

((阿弥陀)仏の智慧や功徳を讃めたてまつって (み仏のことを)十方世界の有縁の人びとに聞かせよう。信心を獲得した人は、つねにみ仏の御恩に報いたてまつるべきである。)

『註釈版聖典』五六五頁。豊原大成『三帖和讃ノート浄土和讃篇』一一八頁。

この和讃と、先のご消息を重ねて考えるならば、念仏を伝えていく対象は、すでにお念仏に出会っている人だけではないはずである。
(ここで「信心すでにえんひとは」の意味するところも非常に重要な問題であると考えるが、今回はおいておく。)

縁のある人とは、広げれば、「十方の有縁」である。まだ出会っていない人にもねんごろの気持ちで、できる範囲で教えを伝えようとすること。
このようなお仕事を賜るのであろう。
それは決して誰かに強制的に課せられた義務ではなく、しるしとして自己の上に味わわれてくるものなのだろう。

今回は「同朋」の基本的な意味を窺った。次回は、先人の「同朋」解釈を窺うことで、さらに「同朋」の意義、また意義の射程を確かめていきたい。

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