安藤弥師の「親鸞聖人の「同朋」ー「立教開宗」を考える」(『同朋大学仏教文化研究所報』第36号、二〇二三年)、1頁。に次のような文章があった。
ハッとした。親鸞が『教行信証』を書いたのは、ともに教えを聞く「同朋」の存在があってのこと。確かに、親鸞があそこまで『教行信証』をこだわって書き続けたのは、それを読む他者がいたからである。ここで、「同朋」という概念の意味が気になって来る。「同朋」はどういう人たちのことなのだろうか?自分の知っているお仲間というほどの意味ではないはずである。
そこで、「同朋」理解について、学んでみたい。
まず、親鸞の書物の中で「同朋」という言葉が見える部分を確かめたい。
『真宗新辞典』(金子大栄編)を読むと、同朋は次のように説明されている。
先に見た①の御消息において次のような文章があった
現代語訳を見ると次のようにある。
念仏を称えるようになり、阿弥陀如来の願いを聞きながら生きようとしている人にはその”しるし”があらわれるのだという。その一つが、「かつての好ましからぬ自らの心をおもいかえすこと」。そしてもう一つが、「友人や念仏の同朋たちともまごころをもって互いに親しむようになること」だという。これは非常に重要なことだ。念仏の教えを聞き始めても、人を恨んだり嫌ったり、自分が一番という心がなくなるわけではない。しかし、それを思いかえす心が出てくるというのである。つまり、自分第一なのはやっぱり変わらないのだけれど、それでいいのか、ちょっと待てよ…と問われてくるのだという。そして、それは結果として「友人や念仏の同朋たちともまごころをもって互いに親しむようになること」になる。方向性が変わってくるというのだ。そしてそれは他者と生きるということとつながっているのである。
阿弥陀如来は十方衆生(すべての衆生)に願いをかけている。私の生きる方向がすべての人と共に生きる道を探す方向に転じられしめていくということである。そしてそれを敷衍すれば「同朋」とはすでに念仏に出会っている人だけではなく、すべての衆生ということになるだろう。
願いが欠けられている全ての衆生と共に、手を取って生きていきたい。そのような方向性である。もっと言えば、未来の衆生も含まれるはずだ。
『浄土和讃』「讃阿弥陀仏偈和讃」に次のようなものがある。
この和讃と、先のご消息を重ねて考えるならば、念仏を伝えていく対象は、すでにお念仏に出会っている人だけではないはずである。
(ここで「信心すでにえんひとは」の意味するところも非常に重要な問題であると考えるが、今回はおいておく。)
縁のある人とは、広げれば、「十方の有縁」である。まだ出会っていない人にもねんごろの気持ちで、できる範囲で教えを伝えようとすること。
このようなお仕事を賜るのであろう。
それは決して誰かに強制的に課せられた義務ではなく、しるしとして自己の上に味わわれてくるものなのだろう。
今回は「同朋」の基本的な意味を窺った。次回は、先人の「同朋」解釈を窺うことで、さらに「同朋」の意義、また意義の射程を確かめていきたい。