見出し画像

『ルポルタージュ ー追悼記事ー』を読んだ

(日記)
売野機子先生の『ルポルタージュ』という漫画が本当に素晴らしい。
この漫画は何か特別な力を感じる。読んでいて人類への祈りのようなものを感じるのである。


近未来の世界。テロが日常的に起る世界で、亡くなった人の半生をルポルタージュとして書いていく女性記者の話である。読んでいて、泣けて泣けて仕方ない。
人類への慈しみを感じるんのである。沢山の人類ではなくて、一人一人の人生。

一人一人の人生に深さや悲しみがあって、それを何とか描こうとしている。
祈りをこめて描いているのが分かる。一人一人の人間。人類に対する祈りを感じる漫画である。

ただ、今の自分の読解力では最後の場面の意味がまだ十分にわからないのが悔しい。

最後のシーンが何度読んでも心が震えるのである。
あるテロ事件で、娘さんが殺されてしまうお母さんが出てくる。そのお母さんが、主人公の記者から「もし、時を戻せるとしたら 娘さんと どんなお話をされたいですか…?」と質問される。
すると母親は「…ああ…ちがうの。もしも時計が戻せるのなら。佐藤被告が子どもだった時に戻したい。それで私が育て直すの。傲慢かしら。できる気がするの。」と言うのである。

売野機子 (著)『ルポルタージュ‐追悼記事‐』(3) (モーニングコミックス) より

この言葉が何かしら大事なことを言っていて、このセリフがいかにヤバいかは何となくわかる。ここには、テロ事件を起こした犯人への祈りがあるのだと思う。(その前提として、テロ事件を起こした犯人の酷い生育環境がこの漫画では語られている)テロ事件を起こした犯人も救われなければならないと言っている。このセリフは本当にすごいと思った(※1)。

しかし、この言葉にはもっと深い意味が込められていそうなのだけれども、それが今の自分には読めない。
ああ、読めてないってこういう感じなんだな、今の自分では全然読めないっていうことがあるのだな。…とひしひしと感じた。

これと同じ感じで、親鸞とか仏陀の書いた書物も読めていないのだなと感じる。人間的に成長しないと読めないし、他の本を読んでないと読めないし、歴史を知らないと全然分からないっていうことが沢山あるのだなと、今日『ルポルタージュ』を読んでいて感じた。

せめて、もう少し親鸞の書いたものが読めるように成りたい。今は全然何も読めていない。
(終)




【註】
※1 この漫画ではラストシーンで、子を喪った母親が、赤の他人である犯人がかわいそうだから子ども時代から育て直しをするのだというのだ。これは、どえらい事である。普通、人間からは出ない発想だと思うのだ。
あんまりなんでもかんでも、真宗的とか仏教的って我田引水するのは良くないと思うのだけど、この「犯人すら救われないといけない。」「親がいなかった犯人を時を戻して一緒に育ちたい、そこからやり直したい。」という感覚が、なんか浄土真宗を感じるんすよ。救われざる者が救われなかったら本当の救いじゃないじゃんっていう。最も救われざる者が救われないといけない。最もどうしようもない人間、どうしようもないというか、どうしてそんなことになったんだって、大地に頭を打ち付けて泣かなければならないことが人間の生にはあって、その事に一緒に涙を流しているのが如来ということなのではないだろうか。


いいなと思ったら応援しよう!