自分の声を聴く
昨日久しぶりに一人の時間を作った。
群馬県の赤城山に突然行こうと思った。
スタッドレスに変えてないのに行って、途中からアイスバーンでめっちゃ滑って、あやうく事故りそうにになった。
頂上まで行くことは諦めた。
衝動と多動の危ないとこだよね。
引き返したけど、途中の駐車場に車を停めて、森の中を一人宛もなく歩いた。
とても良い時間だった。
たぬきかキツネの足跡が可愛かった。
自然は自然でとても良い。
帰り道のロンリードライブで、自分との問いを始めて、大切なことを発見できた。
もしこういう時間がなかったら、きっと大切な想いを忘れたり、気づけなかったんじゃないかと思うと、一人の時間って大切だと思った。
24時間誰かといる幸せと苦労
二人暮らしを始めて約2年半になる。
他人と同居することの楽しさと安心と幸せに満足している。
その代わりに自分の時間が減った。
普通のサラリーマンなら会社に行ったり、営業に行ったりして自分ひとりの時間てそこそこ取れるんじゃないかと思う。
僕の場合、IT関係の仕事だからパソコン一つでどこででも仕事ができてしまって、自宅で仕事をすることが増えて一人の時間がとれなくなった。
オフィスは自宅から40分のビルの屋上にあるが、コロナもあって、家で仕事をすることがめっぽう増えた。
同居する彼女には僕の営業でとってきたデザイン仕事をこなしてもらっていて、自分が仕事している傍らに彼女も家にいる。
時には24時間ずっと一緒のときもある。
朝起きて、ご飯食べたり、買い物行ったり、仕事したり、夜は映画見たりして、一緒のベッドで寝る。
幸せだなと思うけど、不自由なことも多くて大変だなって思ってる。
人はそばに誰かがいると気を遣う
ADHDだからという訳ではないと思うが、人はそばに誰かいればその人のことをほんの少しでも気を遣ってしまう生き物だと思う。
ドライブに一緒にでかけていれば、彼女と会話もするし、仕事場なら上司や同僚が声をかけてきたり、その人のことを考えたりする。
学校生活なら友達が声をかけてくるし、好きな子のことを考えたり、嫌いな先生のことを考えたりもする。
人は人がいると、人のコトを考えてしまうと思う。
こういうnoteも同じで「他人が見てるかも知れない」と思うと、文章ですら知らない誰かのことを考えなきゃいけないって気になる。
「いや、俺は考えないで書く!」とか言っても、どこか端っこで気を遣ってて、本当の意味で好きなようには書けなかったりする。
一人だけの特別な時間が人生には必要
ADHDが分かって、自分がどう生きたら良いか考えた。
ADHDじゃなくても人として「人生とは」みたいなことって結構大事だと思ってる。
ADHDのおかげでそんなことを考える時間が増えた。
なんで生きてるのか?なんのために生きるのか?
上手く答えられる人が時折いるけど、僕はまだまだ答えられる気がしない。
だから「自分の声を聴く」時間が本当は必要なんじゃないかなって思ってる。
だけど、ほとんど毎日の中で自分一人の時間って以外と作れないもんだなと。
小学校、中学校、高校、大学、会社、どこに行っても人がいる。
家庭ができたら、多分一人だけの時間てなかなかとれなさそう。
引きこもりの人ですら、ゲームやSNSで誰かがそこにいて、本当の自分の声に耳を傾ける時間て取れていないんじゃないかなって思う。
多分なんだけど、今の彼女と結婚して、子どもができたりすると思う。
これからも仕事で何百人て人たちと会うと思う。
これから、もしそうなっても僕は、自分一人の時間を作って生きたいなと思った。
自分一人になると、人は自分の声に耳を傾け始める。
誰かがいると、その人のことを少しでも考えてしまうように、自分ひとりでいると、自分のことを考える。
自分と言う抽象的な存在と他人という具体的な存在
皆なにかに一生懸命になってるけど、それは何よりも大切な自分の人生を大切にしたいから、その一部の「何か」を行っているのだと思う。
でも意外と具体的な「何か」のことを考える時間は作っても、抽象的な「人生そのもの」について考える時間って以外とないんじゃないかなと思う。
「幸せ」という言葉と「人生」という言葉は、非常に抽象的であいまいなものだなと思う。
「あいまいで手にとって見えないもの」は考えても明らかにならないから、考えてもしょうがないってなって、考えなくなっちゃう。
自分という抽象的な存在と、他人という目に見える具体的な存在があるよね。
抽象的なことも、具体性もどちらも大事だと思う。
だから、SNSだ仕事だ家庭だなんだと、他人との時間が人生の多くを占めやすい現代だからこそ、一人だけの時間が人生では本当は重要なのではと思う。
今後は自分の声に耳を聴くために、積極的に自分ひとりの時間を作って生きたい。