アキラ・タカウエさんの写真
その日が個展最終日という夕方、私は銀座のギャラリーでモノクロの写真を前に奇妙な興奮を味わっていた。
並んでいるのは、橋梁や高層ビル、街のランドスケープを撮った画面ばかり。空の濃い空間を切り取っていくヨコハマグランドインターコンチネンタルホテルの外壁の曲線。複雑に組み合わさった鉄骨と、そこに打たれた鋲まで見えるかのようなシドニーの橋梁。
作品に食い入るような視線を注ぎながら、心拍数が上がっていく感覚があった。
そこには、「自分がこういうふうに構造物を見てみたい」という、私自身の〝欲望〟がそのまま展示されていた。
撮影者は、アキラ・タカウエ氏。すでに写真家として数多くの国際的な賞を獲得し、国際写真展の審査員も務められている。一方、もともと工学博士で、一級建築士として海外での大型プロジェクト設計の実務に携わってきたという経歴の持ち主。
偶然、SNSで氏の作品を見てしまった私は、あちこちに不義理をするほど仕事を抱えて身動き取れない日々だったにもかかわらず、個展が閉幕する数時間前に駆け込んでしまったのだった。
アキラ・タカウエ氏の作品は、どれも不思議な光景だった。大都市の中心部にあるようなランドマーク的な光景を白昼に撮っているのに、そこにあるはずの人影が写っていない。
太陽の熱や、吹いていく風、その風で動いていく雲。それら自然の動的な時間が封印されていて、人間がつくり上げたアーキテクチャが永劫に動かないもののように輝いている。
会場でご本人にその秘密をうかがった。それこそ作品によっては6分とか7分とかいった昼間長時間露光撮影をすることで、雲は動き、本当は写っている人間や車、船舶が消えてしまうのだという。
その結果、大自然と都市の構造物だけがそこに存在する、魔法のような光景があらわれる。
「時空の流れが封入されることによる都市風景のダイナミックな表現」。これが、綿密な計算のもとに実現されている。
建築オタクが造形美としての建築写真に惹かれることそのものは珍しいことではない。
しかし、私が目を奪われたのは、氏の明確なコンセプトと緻密な計算によって、1枚の写真のなかに「瞬間」と「永遠」が収められていることだった。
ここで注意すべきなのは、自然と構造物の関係における「瞬間」と「永遠」が互換性・両義性をもっていること。
一見すると画面には、流れゆく自然と、微動だにしない建築がある。前者が「瞬間」で後者が「永遠」の装いをしている。
けれど、よく考えれば空や雲、太陽光といった宇宙の表情こそ「永遠」であり、どれほど堅牢に見えても人工の構造物は宇宙的な時間からすれば「瞬間」の存在に過ぎない。
《冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏》葛飾北斎
東京富士美術館所蔵
世界でもっとも知られた日本美術のひとつであろう葛飾北斎の《神奈川沖浪裏》。手前には逆巻く大波と、そのなかを進んでいく小舟がある。白く崩れかける波頭まで捉えられた画面は、それこそ何百分の1秒で撮られた「今この瞬間」。
その躍動する海の「瞬間」の彼方に、富士が小さく見える。富士は、万古不変の動かない「永遠」の仮託である。
しかし、この場合も本当は海のほうがはるかに永遠で、地球の歴史のなかでは富士山は束の間の存在に過ぎない。
北斎はおそらく、「久遠」というものの秘密を知っていた。
「永遠」といっても、それは今この「瞬間」にしか実在しないこと。「瞬間」は「永遠」を内包し、「瞬間」のなかに「永遠」があらわれる。
北斎は、波と舟と富士というシンプルなモチーフで、宇宙の真理を描いてみせた。
アキラ・タカウエ氏の作品のもうひとつの魔法。それは、長時間露光撮影によって人の存在を画面から消しているのに、どの作品からも強烈な「生命」の息吹きが放たれていたことだった。
ビルであれ橋梁であれ、建築は人間の営みのために創造される。雨風や暑さ寒さから人間を守り、安全に移動させ、豊かな精神活動を誘引し支える。あたりまえ過ぎて意識することさえ少ないが、〝人間の命の営みを守る〟ために建築物は存在する。
生物学者の福岡伸一氏は、人が何に〝美〟を覚えるかということについて、
ヒトの歴史の中で美の基準は変化してきました。シンメトリーで規則的なものがいいとか、むしろ変調したほうが美しいとか、ずらしたほうが美しいとか……いろんなバージョンが出てきたけれど、それらをもう一度噛み砕いて考え、根本に立ち返ると、生命にとって必要なものや生命の在り方や自然に適ったものが美しいはずなんです。だから無理をして創り出されたものは本来美しくない。(VogueJapanインタビュー)
と語っている。
美しい建築とは何かを考えるうえで、とても含蓄を含んだ本質をつく言葉だと思う。
折しも感染症の拡大によって、私たちの社会も長期の行動制限を強いられていた。本来、人々で賑わっていた場所の多くが閑散とし、機能を停止していた。このタカウエ氏の個展も本来の開催予定を順延しなければならなかった。
氏はずっと以前から、建築と自然だけが存在する作品を多く手掛けられてきた。だが図らずも、緊急事態宣言下で展示されたそれらの作品群は、都市のなかから人間だけが消えた社会状況の現実を強烈にイメージさせるものとなった。
タカウエ氏の写真から強烈な「生命」の気配がするのはなぜか。その建築物が本来もっている人間的なもの。人間を誘い、内側に招き入れ、その命を守り、精神活動を支えていくこと。人の気配が消えることで、こうした建築本来の根拠が、撮影者の技術によってむしろ際立つからだろう。
カラー写真だと色彩のほうに視線が奪われがちであるのに対し、モノクロ写真は構造やコントラストに人の眼をフォーカスさせる。
人間が写っていて当然のランドスケープから人間が消えるとき、ふだんは搔き消されていた建築本来の生命性のようなものが、逆に力強く浮かび上がってくる。
無機質な鉄とコンクリートとガラスの構造物が静かに佇んでいるにもかかわらず、どの写真も廃墟とは正反対の、温かい人間的なものに溢れている。
日を置いて、もっとも印象に残った写真。それは、芝浦あたりから晴海まで東京港を写したパノラマ。静まり返った巨大都市の港湾の風景のモノクロ画面点前に、そこだけ淡いオレンジの光を発するレインボーブリッジの標識灯が大きく輝いている。
いつ、どのような意図で撮られたものかは分からない。私には、まるで現下の困難な世界に対する、人間の意志の強さとしての祈りと希望そのものに思えた。
Dr. AKIRA TAKAUE https://www.akiratakaue.com/