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網膜の記憶

ゴミと土埃にまみれたカンボジアのスラムの片隅で、そこだけ鮮やかな赤い布で日除けがつくられ、赤ん坊が眠っていた。
この子は無事に大きくなっただろうか。

台南のペンションにいた猫は、「ここは俺の縄張りだ」と言わんばかりに、外出する私たち泊り客にわざと背中を見せて、片耳でこちらの様子をうかがいながら通路をふさぐように寝そべっていた。
彼はまだ元気でいるだろうか。

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バラナシの夜明けは言語に絶するほど荘厳だった。
どちらが上流なのかさえ判然としない、ゆったりしたガンジスの流れ。
私たちはどこから来て、どこへ向かうのか。
一瞬も留まることのないガンジスの流れだけが、往古から変わらない景色としてここにあり続ける。

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私のiPhoneのなかに収まっている写真は、似たようなものばかりで自分でも呆れる。
被写体はたいてい「空」か「建物」だ。
自分がそういうものに惹かれるのだから、これはどうしようもない。
視界のなかで何かがざわついたら、できるだけ躊躇せず、構図だの何だの余計なことを考えず、ざわついたものをそのまま記録する。
撮っているのは景色ではなく、自分の気持ちのほうなのだ。
自分のために「網膜の記憶」を、とりあえず残そうと思っている。
まあ、たいていはしばらく経ったらざわつかなくなって消去してしまうのだけど。

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標高4000メートルの甘粛省の街では、さすがに早く歩くと息切れがした。
僧院の白壁の前に座っていたのは堂々とした山羊だ。
異国の風景なのに、どこか自分の命の奥深くにある記憶と結びつくような不思議な懐かしさがある。

信号待ちで目に入ったビル。バンコクの友人宅の飼い犬。根津美術館の池。巨大なアンモナイトの内部のような台湾師範大学図書館。上海の外灘。元日の神戸港。
なぜか思い出すのは、そこには決して写っていない、そして見えているはずもない、その瞬間の自分の姿だ。

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見えてはいるが、誰も見ていないものを見えるようにするのが、詩だ。(長田弘)


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