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平和の文化

昨夜は研究者やジャーナリストたちが集まって「琳派懇談会」。

会場となったのは勝どきの裏路地に昨年できたばかりの一軒家レストラン。
箸でいただくイタリアンは思いのほか美味で、下戸のくせに珍しくワインを3杯も飲んでしまった。

「琳派」というものは、いわば20世紀になって見出されたものであり、たとえば狩野派のように代々受け継がれた系譜があったわけではない。

それが本阿弥光悦という稀有のプロデューサーによって萌芽を見たこと。
動乱の時代からパクス・トクガワーナ(徳川による平和)への転換期に産声を上げた、というより、平和の創出そのものに少なからぬ役割を果たしたことは、もっと重視されてよいのではないか。

本阿弥家は代々、刀剣の研磨・浄拭・鑑定を家業としてきた。
クライアントは名だたる武家であり、扱うものは武器。
だが、光悦はほとんど家業に関心を示さず、培われた美意識と人脈を、「平和の文化」構築に傾けた。

彼はまた「寛永の三筆」とされる能書家である。
しかし、じつは光悦は55歳頃におそらく脳梗塞と思われる病を得ていて、今に残る多くの書は、後遺症による身体の不自由を克服してのものだ。

熱心な法華宗徒であった彼は、62歳の年に相次いで日蓮の「立正安国論」「始聞仏乗義」「如説修行抄」「法華題目抄」「観心本尊得意抄」を書写している。
その元和5年(1619年)から、今年はちょうど400年にあたる。
光悦の死没は寛永14年(1637年)、80歳の2月3日であった。

樂家15代目当主・樂吉左衛門氏は、著書『光悦考』(淡交社)にこう記している。

本阿弥家に貫かれた毅然とした倫理観、また、本阿弥一類の中で繰り返される強い結束などは、まさに法華蜂起「天文法華の乱」を体験した町衆の歩みの中で培われたものではないだろうか。
 天文以後、信長、秀吉の天下平定を経て一気に花開く桃山文化を眺望するに、芸術が社会に突きつける武力以上の文化の力をまざまざと見る思いがし、その中にひときわ輝く光悦の芸術活動がある。

樂家と本阿弥家は、油小路通を南北にしたご近所であった。
茶碗をつくる樂家は、千利休の自刃で窮地に陥った。
千家が再興を許されてまもなく、まだ経済的に逼迫していた樂家を救うため、光悦は親交のあった前田家にパトロンになるよう要請した。

そればかりか、入念な書状を送って徳川将軍家にも樂家を紹介している。

光悦がなぜこれほどまでに樂家に肩入れするのか? その理由を証するものはこれといって見当たらない。世話になった手遊びの茶碗造りの返礼などは、理由とならないだろう。
 いやもっと強い結びつきがある。おそらくその根底にあるものは法華信徒の強い絆、同朋意識ではないかと考えている。(『光悦考』)


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