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『ソン・ランの響き』は見るべき映画
レオン・レ監督の長編デビュー作
期待をはるかに上回る秀作だった。
『ソン・ランの響き』(2018年/ベトナム)のロードショーが、2月22日から始まっている。初日にはレオン・レ監督と主演俳優のリエン・ビン・ファットの舞台挨拶があって楽しみにしていたのだが、私自身の抱えていた仕事の目途がつかず、泣く泣く諦めていた。
アジア映画といえば、近年はタイやマレーシア、フィリピンなどでも上質な作品がいくつも出てきている。ベトナムの映画を観るのは初めてだったが、いきなり本作の出来ばえに圧倒された。こうして感想を書くのにも、何日か心の鎮静を待たなければならなかったくらいだ。
レオン・レ監督は1977年サイゴン(現在のホーチミン市)生まれ。13歳で家族とともにアメリカに移住し、ブロードウェイで俳優やダンサー、歌手として活動したのち、監督に転身。複数の短編を撮ったあと、本作『ソン・ランの響き』が長編のデビュー作となった。ニューヨーク在住で、写真家でもあり、本作の限定フォトブックも制作したそうだ。
ベトナム戦争の傷跡
さて、本作である。
物語は「1980年代のサイゴン」となっている。ベトナムが北緯17度線で南北に分断されていた時代の、「南ベトナム」の首都がサイゴン。1975年にベトナム戦争が終結し、翌76年、同国はハノイを首都とするベトナム社会主義共和国として統一された。
したがって「80年代のサイゴン」には、同じ民族が政治的に分断されていた戦時下の傷跡がまだ残っている。それは主人公ユンの生い立ちと、彼が深く心の中に抱えている痛みにも、密接にかかわっている。
もちろん、そういう当時の政治状況を知らずに本作を観ても十分に楽しめるのだが、あの時代を理解する世代、ことにベトナムの人々にとっては、格別の感慨を抱くものになろうことは想像に難くない。
ユンは、冷酷な高利貸しの老女のもとで、取り立て稼業をしている。暴力も厭わぬ容赦のない取り立てで、「雷のユン兄貴」と呼ばれて恐れられていた。
そのユンが、粗暴な取り立て屋の顔とは裏腹に、人間としての優しさや清潔感を秘めていることを、レオン・レ監督は新人リエン・ビン・ファットに見事に演じ切らせた。
1990年生まれのリエン・ビン・ファットは、これが映画初出演どころか俳優としてのデビュー作とは信じられないほど、役作りと演技に成功している。身体能力の高さがうかがえる格闘家のような体躯と、圧倒的な印象を残す眼の力。会見やメイキング映像で垣間見える、真摯さと純朴な茶目っ気。
作品に恵まれれば、この人は今後間違いなく、さらに俳優として大きく羽ばたいていくだろう。乱闘シーンの堂に入った立ち回りの迫力には痺れた。
この「雷のユン兄貴」が、取り立てに出かけたカイルオンの劇場の楽屋で、同年代の花形役者リン・フンに出会う。
カイルオンとは、ベトナム南部の大衆歌舞劇。パンフレットに稿を寄せた東南アジア地域研究者の坂川直也氏によれば、
宮廷古典劇トゥオンに「改良」を加え、仏領期の南部で20世紀初頭、おおよそ百年前に創出された。その特徴は無節操な混合性で、ベトナムの伝統芸能はもちろん、西洋音楽のみならず、さまざまな国や地域の多種多様な物語も劇のネタに取り込んで、現地化する。
(中略)
カイルオンは1975年南北統一以降、その人気に着目した政府によって、社会主義を南部に広めるプロパガンダに一時的に利用された。
と解説されている。
映画のタイトル(原題は「SongLang」)になっているソン・ランとは、このカイルオンの伴奏に使われるベトナムの民族楽器だ。
花形役者リン・フンを演じるのは、ベトナムのアイドルグループ365dabandのリーダーだったアイザック。「雷のユン兄貴」と対照的な、繊細で禁欲的な青年役を演じつつ、劇中劇ともいえるカイルオンの舞台で見せる美しさと華やかさは、さすがベトナムのスターである。
楽屋に押しかけてきた粗暴な借金取りと、一座の花形役者。一見、対極の世界に生きているように見える2人は、ある出来事がきっかけで互いの生い立ちを語り合う仲になる。
2人それぞれの生い立ちには、違った形の不幸が設定されている。私には彼らの背負った宿命が、ベトナム戦争がベトナムの民衆にもたらした災厄の暗喩に思われた。80年代を生きる2人の青年は、まぎれもなく戦時下で育った世代だからである。
そして、レオン・レ監督の一家が米国に移住したことも、ベトナムの戦後と無関係ではあるまい。
「引き算」の美学
ところで、ここからが大事な話だ。
本作は数々の賞に輝いているが、そのなかには複数のLGBT映画祭での受賞も含まれている。日本公開のコピーには「ベトナムの民族楽器〈ソン・ラン〉の響きにのせて描かれる ボーイ・ミーツ・ボーイの物語」とあり、予告編にも「孤独な魂を抱えたふたりの友情が愛に変わるとき…」とある。
ユンとリン・フンの関係性をどのように見るかは観客の自由な想像力に委ねられるほかなく、その点でも本作は成功している。「友情が愛に変わった」と見る人もいるだろうし、違った見方をする人もいるだろう。
レオン・レ監督自身、この映画を「同性愛的」なものと単純化する人々がいることを認めつつ、しかしこれは「人間愛」の映画なのだと強調している。
私自身、この『ソン・ランの響き』はいわゆる「LGBT映画」なのかと問われたなら、「そんな枠に無理やり押し込むべきではない」と答えたいし、一方で「非常に洗練された歴史に残るLGBT映画の傑作だ」とも答えるだろう。
というのも、レオン・レ監督の最大の意図は、人が人に特別な感情を抱くことにおいて、そもそも性別というものにとらわれるべきでないというメッセージを発することにあるはずだからだ。その映画に、あえてカテゴライズを加えてしまえば本末転倒になりかねない。「とてもいい映画だから、ともかく自分で観て、感じてきてごらんなさい」と勧めるほかはない。
『キャロル』(2015年)でも、『ムーンライト』(2016年)でも、『君の名前で僕を呼んで』(2017年)でも、あるいは『ボヘミアン・ラプソディ―』(2018年)でも、主人公のセクシャリティーはあからさまに描かれたし、性的な関係性と行為もシーンとして登場した。
だが『ソン・ランの響き』は、そうした手法とは一線を画している。そして、直截的なものを遠ざけることで、2人の関係性の変化を濃密に描き出すことに成功した。いわば徹底した「引き算」の美学なのであり、「引き算」によって2人のあいだに交わされる親密さが強く匂い立つ仕掛けになっているのである。
人間が蘇生するということ
2人の人物設定において、レオン・レ監督の施したきめ細かい配慮と仕掛けも、本作の魅力であり見どころのひとつだ。ユンという人間が本来持っている優しさや教養、公正さ、ひたむきさは、彼の暮らす部屋の造作や、借金を取り立てる相手以外の人間、とくに弱者への態度や表情のなかに滲み出ている。
物語のクライマックスの運びと演出は圧巻である。
リン・フンと出会ったことで、ユンの命のなかにあった〝衣の裏の宝石〟のような美しいものが目を覚ます。人は、人との出会いによって蘇生する。
重大な決意をし、リン・フンの待つ劇場へ向かうユン。一方のユンを待つリン・フンのこの夜の舞台は、劇団員たちが息をのむほど、まるで別人のように鬼気迫っていた。
劇場で上演されているのは、王子と王女の悲恋を描いたカイルオンの人気演目「ミー・チャウとチョン・トゥイー」。リン・フンが熱演する劇中劇の進行と、ユンとリン・フンの運命の歯車が重なっていく。
レオン・レ監督は、ユンに対する秘めた思いをリン・フンに語らせることなく、カイルオンの圧巻の舞台で代弁させる。
ベトナムのカイルオンというきわめてローカルな伝統芸能を素材にすることで、この映画は時代や国境を越えた価値を獲得した。この点では、京劇を素材にして近代中国の半世紀を描いた『覇王別姫』(1993年)へのオマージュになり得るのかもしれない。
そして、ベトナムの検閲のコードの高さを逆手にとり、徹底した「引き算」の描写に徹したことで、逆に人間の性の多様性と豊かさへの讃歌を高らかに謳いあげ、なおかつ普遍的な「人間愛」の物語に到達させた。
人間と人間とのあいだで生まれる、親密でかけがえのない感情。その感情に、これは「友情」、これは「恋愛」、これは「尊敬」等と、あえて線引きをしたがるのは、そのように区分したほうが社会的関係性が円滑に進むと思われるからであろう。しかし実際は往々にして単純な区分が難しいことを私たちはよく知っている。
レオン・レ監督が生み出した、少し色褪せた時代の2人のベトナムの青年。花形役者のリン・フンはともかく、裏社会のヤクザ稼業に身をやつしていたユンが生きていた痕跡など、もうどこにもない。
ラストに降るスコールは、すべてを消し去っていく。
そして、ユンとリン・フンのあいだに何があったのか。運命の出会いをした2人が、互いのことをどう思ったのか。それらは本人たち以外の誰も知らない、永遠の秘め事なのだ。
誰かと出会い、誰かを愛するということは、その人と必ずいつか別れる日が来ることでもある。運命の人と出会い、かけがえのない感情が芽生え、枯れ果てていたように思われていた自分の生命が美しく蘇生していく。
たとえわずかな時間でも、そういう人と出会えるのなら、人生は捨てたものではない。