世界の中で共に生きるということ
風と
先日、ヨット作りの仕事中、ハワードさんが「今日は風が(いつもとは違う)あっちから吹いているから低気圧だ」と言った。
携帯で天気予報を見てみたら、風向きが東から北東へと反時計回りにちょっとづつ動いていて、地球上の風が見れるアプリを見てみたら、風が激流のようにごうごうと世界中のいたるところを流れていた。ハワードさんは北海道の横らへんにあった高気圧と低気圧のぶつかりを指して「これが原因だね」と言った。
『すごい!!!!!!!!!』
低気圧--温度等の原因によって空気が上昇して気圧が低くなることで地表の風が中に入り込み、北半球では反時計回りの風を、南半球では時計回りの風を生む--は中学校で習ってたはずだし、風が絶えず流れていることは考えれば当たり前すぎるどうってことないこと。
だけど、私は、今肌に触れるこの風が、法則を持って速さや向きや大きさなどを変えながらどこかから来てどこかへ行く世界中を巡る風なんだということを、本当にはわかっていなかった。
生まれた時から風はそこにあった。
でも、風の中に、風と共に、私は生きていなかった。
牛と
今日、畑の荒起こしを見学した。
トラクターで土を起こしてる様子を見て、『昔の人はトラクターがなくて、すごい重労働で大変だったんだろうな、すごいな』と思った。
大きくゆっくり力強く進むトラクターを眺め続け、2反目の荒起こしが終わりそうというところでふと、牛の姿が頭に浮かんできて、気がついた。
『そうか、もしかしたら牛を使っていたのかもしれない。』
昔は、移動だって仕事だって、牛や馬とか動物の力を貸してもらいながら、動物と一緒に生きていた。〈生き物と共に生活する世界〉が当たり前だった。
でも、生き物と共に生きることをやめ、その代わりとして〈機械を使って生活する世界〉が当たり前となった。そんな世界で生きてきた私の頭に最初に浮かんだのは、『機械がない世界では自力でやらなければいけなくてすごく大変だろうな』だった。
人と
私が漁船に乗っていた時、特に最初の頃、タモと呼ばれる魚をとる網を使う際に柄の後ろが他の人に当たりそうだから後ろを注意するようにと、よく言われたことを思い出す。
初めて使う道具だし道具の使い方がわかっていなかったといえばそうなのだけど、もう1歩踏み込むと、それは、他の人々と共にある身体の使い方に慣れていなかったということなのではないかなと思う。
・・・
一人でも生きていける世界になった。
でも、逆に、一人ででしか生きられなくなったのかもしれない。
”自分だけの世界”の中、ひとりぼっちで。
今思う。
豊かさとは、どれだけ”世界”の中に共に生きる他者の存在があるか、なんじゃないかと。
豊穣の世界の中で生きてゆきたい。
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