イスラエル・パレスチナ問題について
複雑な歴史的背景も知らないままイスラエルとパレスチナで起きていることはどんなことなんだろうって、たまたま仕事も暇になって、前向きに走れない気温の高い季節も重なったこともあって色々調べてみることが出来た。
十五冊程度の本、一応主張や主観がなく偏りの少なさそうなもの事前に確認して読んで、そのあと偏ったものや小説も読んだ。アルジャジーラの報道内容を直接訳してもらいながら聞いた。それぞれに発信している記事やSNSも毎日パラパラと確認して、ポッドキャストも幾つか関連するものを聴いてみた。
歴史や社会・文化人類学を学んできた人たちや海外在住の人たちの話を聞いて、いまそこで起きていることと、どうしてそこで起こったのかその原因を、行き来しながらとりあえず自分の頭の棚に分類しながら振り分けていった。
もちろんまだまだ分かっていないこともたくさんあるし、誤読して覚えてしまっていることもあると思うけど、自分なりの解釈がだいぶ固まってきたので、迷いはあるもののいまの時点での胸の内を言葉にしてみることにしたんだ。
それでも何度となく迷って、見送って、考えて、止めてを繰り返してもう1ヶ月が過ぎる。その度校正しながら付け足したりしているから、文脈もだいぶ散らかってしまった。
というのも、安易に言葉にすることが、知れば知るほど出来なくなってきて、自分のものではない借り物の言葉がどうも暴力的に感じてしまう。
だから、そうならないように直していくと言い訳がましく耳障りの良い言葉になっていってしまって、あれ?こんな言葉を簡単に当てはめてしまって良いのだっけ?ってまた悩んでいく。
断罪したいわけでもないし、これが正義でしょと言いたいわけでもないんだけど、これはエゴなのかと思い悩む。
調べ始めはさ、こんなこと言ってはいけないけど、とても面白くてさ、ああこういう構造でイギリスが仕組んでいたのか、アメリカとソ連は中東の利権に冷戦を交えてこう絡んでいたけど、アラブ諸国もそれを利用していたんだ、ふむふむ、国際政治って国家主導で人権なんて無視なんだな、へー、みたいな。他人ごと。全体を分かった気になってしまって。でも、それがいまここにも続いていて、そう個人へと視点が移っていくと、あれ、これってどうなの?って。
こういったセンシティブな問題を影響力がなくても発信するとさ、ある部分だけ切り取られてしまったり、細かい言葉のニュアンスで誤解を招いたり、思いもよらない誰かを傷つけてしまったりするかもしれないよね。
僕自身も「こんなこと言ってる癖して夜は楽しく酒飲んでるやつ」なんて見られかねないな、と若干の抵抗はあるけれど、その向き合い方に大小あれ強弱あれど、自分が知って感じたからには、ひとりでもなにかしらの行動をしなければならない(既に遅いかもだけど)危機的状態まで来ている気がしていてさ。
行動ならデモとか不買運動とかあるけど、まだそこを考えきれていないような段階ではあるし、なんならグーグルも使っているし、スポティファイも聴いているし、伊藤忠も人を介して付き合いはある。もちろんフェイスブックも活用していて制限することも考えていない。
けど、完璧に一貫して行なわないと言葉にしては、行動をしてはいけないのか?という問いがあって、ヴィーガンの人が革製品を身につけてはならないのか、SDGSを掲げる企業の人がペットボトル飲料を買ってはいけないのか、そんなところまで細かく突っ込むことなのか、さじ加減はそれぞれでいいんじゃないのかなって思ってね。
いつも相反する矛盾をこれでいいのかなって迷いながら持ち歩いているし、善悪の割合や配分も月のように満ちたり欠けたりしていてさ、しかも概ね感情的に判断しているしね。(カチッとか、ピタッとか自分と自分の環境が大抵はうまくそこには当てはまらないことが多い。)
最近は報道自体が少なくなって、生活や仕事をしていく中でこのイスラエル・パレスチナ問題についての話題があがることもなくなってきたけど当初は、「どっちもどっちでしょ?」「私は中立的な立場で見ているよ」「いかなる戦争も反対、する方もされる方も問題なんじゃない?」って言葉をよく耳にした。まるでそこに自分の意見や主張を入れてしまうことがいけないと言っているみたいに。よそにはよその事情があってそれはこっちにはわからないでしょって言っているみたいに。
確かにね、そうだよね。それはそう思う。そういうスタンスは間違いがない。相手側がどう捉えているのか分からないとどう発言していいのか迷うことはある。特に話す相手との間にパワーバランスがあったり利害関係があったりすると同調文化が強いこの国ではマイナスに取られる心配はある。もちろん直接的な人種差別であったり宗教差別に定義されかねないからより慎重になるよね。
逆に携わっている仕事によっては中立ではなくイスラエルの立場に立たざるを得ない人もいるだろうし、それを非難することもあたり前だけどしたくない。それはその人の意見だし、これだけさ国が軍事産業に国家予算を投入すればそういった仕事も多くなるに違いない。それを加担していると言うのはちょっと違うんじゃないかなっとも思う。資本主義の構造的にさ、いまを必死で生きている個人がそこを別にすることはとても難しいよね。それにその状態に苦しむ本人が一定数居ることは想像できる。まあ積極的支持って人もなかには居るだろうけどね。
「ハマスってISILでしょ?テロ組織だよね?」「昨年の10月7日にイスラエルの民間人を大量虐殺したり拉致したりしたんでしょ?」
そうそう、メディア報道だと纏めてそういう話ばっかり。いままでの中東ってイメージがね、イスラムってイメージがね、本当、印象悪いよね。なんでだろうね。9.11でイスラム=テロ組織ってなった部分も大きいのかもね。でもさ中東っていう括りってどこから見てどう位置づけようとしてきているのかなって。印象操作ってなにげない表現にけっこう使われていてさ、少し前だと、NHKでレバノンとの停戦報道で23年10月からヒズボッラーの死者が約3,800人、イスラエルの避難者が1万人を越えているって表現が使われていたけど、まさにこんな感じで耳に入ってくる。ちゃんと観察していないと簡単にその行為に対する判断がするっと奪われてしまう。
でもさ、ハマースもそうだし、ファタハもヒズボッラーもなんでそういう組織が出来たんだろうかって、民族抵抗運動とか民族解放運動とかってなんで必要になってしまったんだろうかって。
実際、ガザ地区の貧困層の支えを行なってきていたのは、医療や教育制度を維持して来たのは、町の清掃活動や治安維持に努めてきたのは誰だったんだろうって。それに封鎖で仕事がなくなって、お金がなくなって食べるものもない状態で、おーい!兵士になれば給付金がもらえるぞ、としたらどうするだろうって。毎日子どもがお腹を空かしている、治療や薬が必要な兄弟姉妹がいる。ハマースを支持することはないけれど、こういう構造に追い込まれていて閉じ込められていて、じゃあ自分ならどうするって。構造的な問題じゃんっそれってさ。そういう状況下で自分はハマースにならないなんてとてもじゃないけど言えない。どこの国でどの性別で産まれてきたかで変わってしまうリアルな問題だよね。
どこかの本に書いてあった、ガザ地区で暮らしている人の言葉。死ぬことが唯一の救いになるって。
僕もよくやりがちだけど、ひとつの面だけ見てそれを全体化して分かった気になって考えずに分別してしまうときがある。
特に大きな単位のもの、国とか団体とか宗教とか民族に対しては、簡単に捨象してしまう癖がある。それは危険な癖だと思う。だから意識して外すようにしている癖をつけている。当たり前だけど大きな単位であるものに属しているかといってその個人がどんな人間かは分からないし、その人の人格もどの人と会っているときの人格かで違うし。個人にも多様な人格があるし変わりもするからさ。
だからね、僕はパレスチナ・ガザ地区の封鎖とヨルダン川西岸地区への入植に“反対”する。停戦だけじゃないよ。いま停戦に向かっているけど、その先のね、ガザ地区の封鎖解除とパレスチナ・アラブ人による自治統治、ヨルダン川西岸地区の入植地解放(せめて第三次中東戦争前のラインまで)。がいいんじゃないだろうかってホント何様だ、、。そこから話し合いを重ねていけないものだろうか、いやそんな簡単じゃないだろ、、。
でもこれはパレスチナ・アラブ人だからとか、イスラエル・ユダヤ人だからと言った国や人種への差別ではなく、政治・宗教の問題としての単純な二項対立としてでもなくて、人権の大きな問題として、自分がそこで声を上げることが出来るのなら“反対”しかないんだよね。
いまパレスチナで起こっていることを知って、僕は中立的にとは言えない。ましてやどっちもどっちなんて思えない。
なんでかってさ、歴史的に複雑な背景も自分なりに理解した上で、ガザ地区がどんな状態で続いているかと言うと、直近では2007年から軍事封鎖が行なわれいて、人も物資も行き来が制限されている状態なんだよね。いままではそれがどういうことなのか知らなかった。この封鎖って具体的にイメージしにくいけど、幅約5~14km長さ約50kmのガザ地区の周囲を壁で塞いでいて、3ヶ所あるイスラエルの厳しい検問所のどれかからしか出入りが出来ない。北西側は地中海に面しているものの漁業できるエリアは狭まれ続けて限定的であるから魚も思うように獲れない。物資は生命が維持できる最低限の量しか供給されず、インフラも繰り返される爆撃で破壊されている状態。下水処理施設も使えなくなっており糞尿は垂れ流し状態、そのため海も地下水も汚染されている。しかし、唯一の水源であるため汚染されていても地下水を使用するしかなく、大腸菌などの細菌感染、眼病、皮膚病など様々な病気が蔓延して、その治療もほとんど受けられない。さらにはその水源も枯渇して、海水が流入するなどして使えなくなってきて、水を買うにも購入資金がある人は数%しかいないのが実情。燃料や医療物資も軍事転用とならないように最低限のみ。食料は、人道支援団体から配給があるものの小麦粉や砂糖や油などが多く、最低限の生命維持カロリーは摂取出来るものの偏った生活により多くの人たちが糖尿病なってしまっている。ただ、いまはその食料さえもなく飢餓状態にあるといわれている。そんな劣悪な環境下を17年間、いつ飛んでくるのか分からない空爆に怯え、目の前で虐殺が繰り広げられ、多くの命が無慈悲に奪われ続けていく。戦争ってさ、女性や子どもに被害が行きやすいんだよ。直接的な暴力がどうしようもない圧倒的な力を持っているんだよ。物資のない環境でも子宮のある女性は生理が来て、生理用品はなく水は汚染されていて洗濯も出来ない。そこで生活していかなければならなくなる。戦争を始めるのも戦争に行くのも男たち、そういえば戦争は女性の顔をしていないなんて本があったな。ただ、これもナラティブに女性だから子どもだからっていうフレームで括ってしまうことも分かりやすく訴えやすいけど実際は違うんだろうな。武器を持たない男もいれば女性兵も少年兵もいる。これもステレオタイプ、脳みその癖とか思想の偏りになっているのかも。
ガザの人口は約220万人、子どもは約90万人。ガザで生まれてガザから外に出たことのない子どもが約90万人も居る。この子たちはもちらん僕の知っている山を知らない。鹿も猪も熊も直接見たことはないだろう。新緑の匂いも草木の美しさも川のせせらぎも知らない。この逃げられない閉じ込められた壁のなかで昨年の10月7日以降約4万人が亡くなった。しかもそのうち半分近くは子どもだという。自分なら気が狂う。これは構造的な暴力に他ならない。なんで平然と公にそれをやることが出来て続けていられるのか。
遠い国の出来事だったのか。自分には関わりがなかったのか。そう完全に外部化していたんだと思う。
(※この10月7日にハマースは複数の武装組織と共謀して、イスラエルの民間人や兵士合わせ約1200人を殺害、約250人を拘束した。ハマースは女性や子どもに対し性的暴力を繰り返し行なったとされている。時計を奪われた、殴られた、笑いながら民間人を殺戮した、との報道は多かった。一方で、民間人への攻撃はなく、主にイスラエル軍事拠点を襲撃、拘束されていた女性には危害は加えないと伝え食事など提供し友好的だったが、イスラエル兵士はハマースに拘束されているイスラエル・ユダヤ人が居るのにハマースがいるとされているだけでその場所を爆撃したなど、拘束されていたイスラエル女性の証言もある。それぞれが事実であるかもしれないし、それぞれに虚実があるかもしれない。そのときその場所によっても、兵士や民間人によっても違うとは思う。もちろんだからと言ってこの襲撃も仕方ないとか言うことではない。でもどうすれば良かったんだろうって、襲撃せずにそのままガザ地区でいつ来るか分からない空爆を恐れながら抑圧され続けていれば良かったのか、とてもじゃないけど簡単に批判はできないことだと思う。
※アルジャジーラの報道でドローンを使用した攻撃が流れていたけど、それはドローンが直接爆撃するのではなく、ドローンからアラブ人女性や子どもの助けを求める声や悲鳴が流されるもので、それを聞いた民間人が外を覗くとイスラエル軍のスナイパーに撃たれるといったものだった。)
例えば、いま居住している土地を奪われてガザ地区のような環境に強制的に家族諸共連れて行かれたらどうする?家もその環境も奪われる、大雑把に言うとそれ植民地化だよね、入植行為だよね。それはユダヤ人も過去受けてきたことだけど、いまはパレスチナ・アラブ人が受けていて、人によっては約70年間も続いているんだ。
コロニアリズム(植民地化主義)とは、先住民は原始的で学がなく野蛮だから我々(文明人)が教えてやるよ的に開拓を正当化することだった。土地を自然をもっと知識と技術も持って有効活用してやるよって、先住民が何世代先まで自然と共存していくために作り上げてきた文化や思想を力で略奪していった。ただ単に自分たちがその資源を手にしたいがための行為なのにね。そのために僕が好きな人類学も植民地政策に再利用されていたという事実はショックだったけれど。
日本も加害者側(見方によっては植民地化されないために必死に植民地化を取り入れたという被害者側意識)として掘り起こしていく必要性があるとは思っている。琉球にしろアイヌモシリにしてもそう(ここもしっかり勉強していきたい)。僕らが教わってきている教科書では、しらっと合併しました、併合しましたという加害者側の都合の良い言葉で学ばされてきているしね、その歴史の悲壮な叫びを閉じ込めてしまった。日本で暮らしているだけではもう見えなくなっている、手を伸ばして自分で取りに行かないと見えなくなっている。また話が逸れてしまったけど、自分がそのガザ地区の難民キャンプ地で当事者でありたくないと思うのなら、やっぱりそれは当事者でない第三者だからこそ強く“反対”したいんだ。
先日「わたしは憎まない」という映画を観た。
パレスチナ・アラブ人でイスラエルの産婦人科医師だったアラブエーシュ博士は2009年1月14日自宅の前に戦車が来てロックオンされているとイスラエルの知人であるジャーナリストに連絡をし、人を介してそこは博士の家で危険性はなくハマースによる軍事施設でもないことを軍幹部などへ伝えそのときは事なきを得た。が、なぜか再び戦車が現れ1月17日に自宅を砲撃。娘3人と姪1人が亡くなる。
「娘たちは私の目の前で殺されました。ビサーンは20歳でした。彼女は大学卒業を目前にひかえていました。マイヤールは15歳で医師になるのが夢でした。14歳のアーヤはジャーナリストか弁護士になって声なき人々の代弁者になりたいと願っていました。そして姪のヌールは17歳でした。その時、私が見たものを地球上の誰にも見てほしくありません。それは今まさにガザで起こっていることと同じです。彼女たちはバラバラにされ、やけどを負い、自分たちの血に溺れていました。もはや誰が誰だかもわからない状態でした。彼女たちが何かしたわけではなく、殺される理由は何もありません。私は人類に失望しました」(NHKわたしは憎まないより引用)
このアブラエーシュ博士は、この砲撃によって大怪我を負ったもう一人の娘シャダと救急車で病院に付き添うも、その病院で他の救護者とともに治療が必要な人たちイスラエル・ユダヤ人も含めて治療に当たっている。
しかも、娘3人と姪っ子1人が砲弾によって亡くなった翌日にイスラエルに対し発言した言葉が 「わたしは憎まない」。
この悲劇を繰り返さないためにも争いを止めるんだと訴えていた。これは言葉に出来ないよな。
後の裁判でイスラエル軍は、「屋上にスナイパーが居た」「爆弾の破片を鑑定した結果それはパレスチナのものだった」など自分たちの砲撃によるものではないと回答。そうやって当事者しか分からない深い霧のなかに事実を投げ入れて、一旦周りを思考停止させていく卑怯で理不尽な手法は戦争でよく使われるよね。
ガザ地区のほとんどは第1次から3次に渡る中東戦争のパレスチナ難民だ。他の国や誰かを頼って外へ移り住んだパレスチナ・アラブ人もいるが、半分くらいの人々は密集した難民キャンプ地で生活しているといわれている。もともと自分たちが暮らしてきた土地を追われ、ガザ地区に追いやられた。だから自分たちの土地を返してくれといい続けている。
ユダヤ人(当時ヘブライ人)は紀元前12世紀にカナーン(現在のシリアやパレスチナ辺り)に定住したといわれる。それからバビロニア、ペルシア、ギリシャ、ローマに統治されながら争いに敗れその地を追われ離散(ディアスポラ)することになったわけだけど、イスラームが来る前に自分たちが住んでいた場所だと主張している。
いやいやどこまで遡るのって、そんなこと言い出したらもとは誰の土地でもないんだからって思うし、折り合いをつけていくものじゃないかって考える。
もちろん知る限り、ユダヤ人に対する長期に渡って常態化し続けた迫害や虐殺、レコンキスタ(イベリア半島から追放)、ポグロム・ホロコーストは最たる非道な行為だと思う。ディアスポラしてから故郷に対する特別な価値が土地に収斂されていくことも理解は出来る。だから、土地なんかに拘らずなんて軽んじることはしない。だけど、それはパレスチナ・アラブ人を迫害・虐殺する理由にはならない。イギリスの三枚舌外交、シオニズムからのイスラエル建国にしてもそう、いくら植民地化政策が良しとされていたとしてもそれをパレスチナ・アラブ人と議論なく好き勝手に区分し負わせるなんて国民国家としては帝国主義的振る舞いだし非倫理的じゃないかと思えてしまう。けど、それは当時の価値観で世界の仕組みがそこに作られていたから、議論はそこじゃなくて、いまのパレスチナ・アラブ人の状態が問題なんだ。
なかなか言葉の表現が難しくて、また中東とかパレスチナとか欧米諸国が名づけたといわれる名称にどう使っていいか迷うところだけど、それ以外ないし。また、こういう細かい背景は別の機会にするとして。
自分の無知と無関心さを恥じる、中東ではあたり前に日常的に紛争があるということで深く考えず係わりなく通り過ぎていて、その解像度は荒くてまたやっているんだくらいの感覚でいた。ロシアのウクライナ侵攻は衝撃的だったけれど、それはヨーロッパだからか、白人だからか、大国だからか、なんでだろう、同じく残酷に殺戮し合う状態なのにね。
怖いのはウクライナ侵攻の話にも、もう慣れてきているってこと。これはやばいってさ自分で自分にぞっとしてる。
マスコミュニケーションやプロパガンダも改めて怖いものだと思った。ひとりひとりの人格を奪ってしまう戦争についても考えた。逆に国家をひとつの人格としてみるのも戦争だと知った。
日本国民とは?日本人とは?定義しているものってなんなんだろうってついでにナショナリズムっていうのはなんだろうって色々読んで調べてみたら、自分が思っていた日本人としてのアイデンティティ、そういう与えられている概念的価値観がくるっとひっくり返ってしまって、実際、国家とか人種なんていう近代的なアイデンティティなんてものは流動的で本当はとても脆弱なものなんじゃないだろうか、と見直せることができた。もともと国や人種に対して差別的な見方はしていないと思っていたけど、統計としてとか医学的にはとか、文化の違いとか、もっともらしく刷り込まれてきている側面もあって、これは面白い発見だったのでまた投稿してみたい。
経済が回らなくなってきたからナショナリズムを煽って統治する国、偉大なるアメリカを取り戻せ的な動きがアメリカだけに留まらず各国で起きているし、ドイツのベルリンなどではパレスチナ・アラブ人に対する差別が政府で行なわれていて、支援しようとする動きを止めて不等逮捕?拘留するような状態になっているみたいだし、経済的にも軍事的にもイスラエルとの関係性が深いせいもあるだろうけど、世界情勢的に日本の動きもけっこう際どくて緊張感が高まってきているから、自分の頭で情報や知識を整理して考えたいと強く思う。シリアのアサド亡命も、韓国の厳戒令も、大国が裏側で間接的に仕掛けてきているものが表面化してきている。冷戦的要素も見え隠れしてる。
イスラエル・パレスチナ問題は、なにも出来ないかも知れない、なにも変えられないかも知れない。だけど、いま起きていることに目を向けてほしいなって思う。
もちろん多くの人たちが目を向けていることだと思うけど。
また、ただ生きていくこと自体が大変な状況に居る人たちも居ると思うので、声高々に叫んだり、なんで目を向けないのって強要はしたくはない。
見ることでさえもとても耐えられない出来事だしね、本当にへこむ。なかなか自分が生きている世界に戻れない。
でも日本という地理的に離れた場所だからこそ、当事者ではないからこそ出来ることがあるんじゃないかと思ってる。
また、植民地化政策とかオスマン帝国の弱体化に向けた大英帝国の振る舞いとか、ユダヤ人のなかでの序列的社会についてとか、アメリカンロビーやアメリカンユダヤの強い影響、冷戦、覇権争い、パレスチナ人っていう民族意識の成り立ちも、宗教を国際政治に利用している側面など勉強を深めたい。
虐殺の黙認、いまの自分には出来そうにないや。そんなこと言ってさ今夜も飲みに行くんだけどね。あはは、、。
とりあえず自分のなかで少し整理は出来たかも。
追記
イスラエル・ユダヤ人のなかにも封鎖、入植反対派は居るし、パレスチナ・アラブ人のなかにもハマースに否定的な人は居る、むしろ増えているように感じる。
ただそれを口にすることによって自分や家族が危害や迫害を受けるであろう恐怖感が付きまとう。
いや実際、既に危害どころか爆破攻撃を受けているとの記事もあった。