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連載小説「クラリセージの調べ」2-4

「じゃあ、行ってくるわね~。お父さんには言ってあるから、何かあったら、声かけるといいわ」

 皇太郎くんを制服から普段着に着替えさせた義母の糸子さんは、背中に解放感を漂わせて出かけていく。軽自動車が走り去る音を聞きながら、何事もなく時間が過ぎることだけを祈る。

 皇太郎くんは、ラメの入った空色の特大スーパーボールを壁にぶつけて遊び始める。壁に勢いよく当てると、かなり大きな衝撃がある。そういえば、お義母さんが、照明やがくにぶつけると危ないから、遊ぶときは廊下でと厳しく注意していた。

「皇太郎くん、危ないから、お部屋ではダメだよ。スーパーボールで遊ぶ時は廊下でね」

「いいじゃん!」

「だめだよ。おばあちゃんも言ってたでしょ。電球や額が割れてしまったら、ケガをしてしまうよ」
 居間の壁には、義祖父や義父母の名前が入った賞状の額が所狭しと吊るされている。お義母さんがいない間に、これにぶつけて、割れたり、埃が舞い落ちたら大変だ。

「皇太郎くん、ルールは守ろうね!」

「うるせーなー!」

「そんな汚い言葉を使ってはいけません」
 
 私が声を荒らげると、皇太郎くんは腹いせにボールを壁に強くぶつける。振動で掛け時計がかすかに揺れる。彼はおばあちゃんがいないのをいいことに、私を見下している。自分がお義母さんの影響力を盾に、皇太郎くんとの関係を築いてきたことを思い知らされる。留守番を引き受ける前に、彼との信頼関係を確立するのを怠ったことが悔やまれる。

「やめようね!」
 私は皇太郎くんの小さな体に背後から手を回し、動きを止める。皇太郎くんは渾身の力で振り払おうと暴れるが、大人の力にはかなわない。

「はなせよっ!!」
 鼓膜が破れそうな大声を上げられ、怯んだ瞬間、皇太郎くんは腕のなかから抜け出してしまう。

 振り返って姿を探したとき、下腹部にスーパーボールが直撃した。

「いた……」
 衝撃に下腹を押さえる。もしも、小さな命が宿っていたらと思うとぞっとする。

「皇太郎くん、言葉がわからないわけじゃないよね? ルールは守ろうね!」
 下腹部をさすりながら、私は厳しい声を出す。

 皇太郎くんは、隣室との境のふすまに思い切りボールをぶつける。どすんと大きな衝撃がある。このまま八つ当たりされたら、どこかを壊してしまう勢いだ。

「嫌なことがあったら、力ではなくて、言葉で伝えようね。もう、4歳だからわかるよね?」
 優しく畳みかけると、皇太郎くんは絹さんに似た細い目をきっと上げる。

「さっき、おまえも、ちからでとめた!」

 言われてみればその通りだ。この暴君は、ますます私の言うことを聞かなくなってしまう。背中にじんわりと汗がにじむ。クーラーの唸りと蝉の声が煩わしく響く。時計の針は糸子さんが出ていった時間から10分しか過ぎていない。この程度で逃げ出したら、子育てなどできないと自分に言い聞かせる。別の遊びを提案して、皇太郎くんの気分を変えなければならない。

「すごい音がしたけど、どうしたんだい?」
 息のかかりそうな距離から声を掛けられ、心臓が跳ね上がる。

 振り返ると、いつの間にきたのか、ポロシャツに短パン姿のお義父さんが立っている。
「お騒がせしてしまい、すみません。スーパーボールは廊下でと言ったら、怒らせてしまって……」

「ははは、なかなか言うことを聞かせるのは難しいだろう?」

「ええ。力不足で申し訳ございません」

「少しこれでも見せよう」
 お義父さんは手に持っていたDVDをデッキに入れる。

こうくん、じいじと一緒に英語のDVDを見よう!」

 ソファに掛けたお義父さんは、自分の隣をぽんぽんと叩いて皇太郎くんを呼ぶ。皇太郎くんは、すぐに走っていって、ソファに勢いよく座る。

 お義父さんに肩を抱かれた皇太郎くんは、少し緊張気味に見える。校長経験者のお義父さんには、彼を神妙にさせる威厳が備わっている。
 
 リズミカルな英語の歌が流れはじめると、皇太郎くんはソファの上に立ち上がり、嬉々として体を動かし始める。その姿を見て、私は改めて自分の力不足を実感する。

 溜息をつき、私もソファの端っこに座り、一緒に画面に集中する。
「さすがは英語の先生ですね……。皇太郎くん、楽しそうです」

「歌いながら、体のパーツの単語が覚えられるだろう。皇太郎はこれがお気に入りだ」

 お義父さんは相好を崩し、英単語を真似して発音する皇太郎くんを見ている。

「皇太郎くんの発音、結構本格的ですね」

「そうだろう? この子は結翔と同じで英語の才能がある」

 結翔くんが子供だった頃が皇太郎くんの姿に重なる。その頃、私はどうしていただろうか、初めて英語に触れたのはいつだったかと思いを巡らせる。

「しばらくは、これに熱中しているよ。飽きたらおやつを食べさせるといい」

「はい。ありがとうございました」
 義父への気味悪さは抜けないが、助かったのは事実で、自然に感謝の言葉が出る。

「翻訳の勉強してるんだってね。結翔から聞いたよ」
「はい。少しづつですが」
「英文科だったね。今度、二階の私の書斎を見せてあげるよ。洋書がいっぱいあるから、きっと興味のある本が見つかるよ」
「あ、ありがとうございます……。結翔さんと一緒に伺います」

 蔵書に興味はあるが、密室で二人になるのは薄気味悪く、言葉を濁す。

 お義父さんは頷いて立ち上がり、私の肩をぽんぽんと叩いた後、背中をゆっくりと撫ぜる。その手つきが妙にねばっこく、全身が粟立つ。ただのスキンシップだと思おうとしても、寒気が収まらない。何かされたわけではない、考えすぎだと自分に言い聞かせるが、身体が硬直して動かない。心臓のポンプはいつもの数倍の速さで血液を全身に送る。

 身体が強張ったまま、DVDに夢中の皇太郎くんを見守る。

 そのあいだ、お義父さんは、新聞を探しにきた、おじいちゃんの薬を取りにきた、お茶を淹れにきたなど理由をつくって居間に来て、「大丈夫かい?」と尋ねる。彼が来るたびに全身が強張り、皇太郎くんが部屋にいてくれることに感謝した。


 DVDに飽きた皇太郎くんは、本棚から『ウォーリーをさがせ!』の絵本を出してきて、一緒に探そうという。彼は、何度が探したことがあるのか、たいていすぐに見つけてしまい、「いえーい!」と歓声を上げる。たまに私が先に見つけてしまうと不機嫌になるが、皇太郎くんに負けて悔しそうなふりをすると得意そうな顔を見せてくれる。ようやく、最後のページにきたときには、私のほうが熱中していたと気づく。お義父さんは、たまに覗きにきたが、夢中になっていたので、さっきより意識をそらせた。

 絵本を見ると、両親に絵本を読んでもらった記憶がおぼろげによみがえる。皇太郎くんと過ごす時間は、深海に沈んでいた記憶を浮上させ、胸をきゅっと締め付ける。両親がしてくれたように、私も自分の子供に絵本を選んだり、読み聞かせがしたい思いが高まっていく。

「皇太郎くん、おやつ食べようか?」
 ソファに腹ばいになり、水泳の真似をしている皇太郎くんに尋ねると、こくりと頷く。
「ちょっと、待っててね」
 私は、作ってきたヨーグルト蒸しパンをお皿に出し、牛乳をストロー付きのマグに注ぐ。お義母さんがいるときは、おじいちゃんとお義父さんにもトレイに乗せて持っていくのだが、今日は気が進まない。


「今日は何を作ってくれたんだい?」
 肩越しに、口臭混じりの息を感じ、全身に鳥肌が立つ。お義父さんが背後に立ち、私の手元をのぞき込んでいる。

「蒸しパンです。いまお持ちしようとしたところです」
 私は2人分の麦茶と蒸しパンの乗ったトレイを押し付けるように渡す。

「ああ、ありがとう……」
 お義父さんが出ていったのを確認し、一緒に食べないかと聞かれなかったことに胸を撫でおろす。

 皇太郎くんと蒸しパンを食べながら、掛け時計を見ると、いつの間にか2時間半が経過している。そろそろお義母さんが戻ると思うと、魔法をかけて時計の針を早く進めたくなる。

「皇太郎くん、食べたら何して遊ぶ?」
 蒸しパンの紙をはがす皇太郎くんを手伝いながら尋ねる。
「すべりだい」
「すべりだいで何するの?」
「うしろすべり!」
「後ろ滑り? 背中を向けて滑るの? 危ないよ」
「ばあばは、うけとめてくれるよ!」
 そう言われると断ることなどできない。

「いくよー!」
 私は背中を向けて勢いよく滑ってくる皇太郎くんを下で待ち構え、両手で受け止める。万が一、受け止められなかった時のために、周囲に座布団をしいて万全の体制を整えておく。
「もういっかい!」
 皇太郎くんは滑るスピードが快感なのか、滑り降りるとすぐに階段を駆け上がる。私はやわらかい体を全力で受け止め続ける。息を切らせて、駆け上がり、滑り降りるのを際限なく繰り返す皇太郎くんに付き合いながら、子育てをするお母さんは毎日これに付き合っているのだと敬意を感じる。数時間で音を上げそうな自分は子育てに向いていないのか、自分の子だと愛情の度合いが違うのかと思考を持っていかれそうになる。だが、うわの空になって、ケガをさせたら大変だと集中する。

 それにしても、お義母さんは遅い。もうすぐ、17時になる。迎えに来る絹さんの車の音は、いつも18時ころ聞こえるが、それまで私が見ていることになるのだろうか。

 17時半を過ぎ、周囲が暗くなり始めた頃、ようやくお義母さんの車の音がした。ガラス窓に反射するヘッドライトの光を見ながら、怪我をさせることなく、留守番を務められたことに心の底からほっとする。

「ごめん、ごめんね~、遅くなって」
 お義母さんは罪悪感があるのか、やけに愛想がいい。

「特に何もなかった? ありがとうね、澪さん。本当に本当に助かった」

「いえ、夕食の準備があるので、これで失礼します」

「そう? 悪かったわね、遅くなって。友達の娘の旦那、精液のなかに精子がないんだって。今度、精巣から精子を採取する手術を受けるそうなのよ。それで精子がなかったらどうしようって、深刻な話だったからさ。なかなか切り上げられなくて、ごめんね」

 他人に聞かれたくない話を容易に話してしまう彼女に嫌悪を覚えながら玄関に向かう。もしも私に子供ができない原因が見つかったら、どんなことになるかと想像すると、背筋が冷える。

「澪さん、またお願いね。本当に助かったわぁ」
 テンションの高い声を背中に受けながら、また頼まれそうな予感に気が重くなる。


              ★
「今日、皇太郎と留守番したんだろ? どうだった?」
 夕食の席についた結翔くんが気づかわし気に尋ねる。

「ケガをさせずに済んでほっとしてる。お義母さん、2-3時間と言っていたのに4時間半くらい帰ってこなかったんだよ……」
 不満を露わにししまったが、これくらいは許されるだろう。

「悪かったな。久しぶりに友達とランチできて、おふくろも楽しかったんだろう。もともと、人との交流が好きな人だから、皇太郎を預かるようになってからストレス溜まってるんだよ。勘弁してやってくれ」
 結翔くんは、私を気遣うように見てから、肉じゃがを取り皿に移す。

「そうだね……」

 結翔くんの言葉の裏に、うまくやってくれという懇願が透けて見える。義両親と険悪になりたくないのは私も同じだ。そして、子供が欲しい私は、数時間で音を上げてしまう自分が子育てに向いていないと認めたくない。

「そうだ、さっき絹姉ちゃんに電話したら、澪にありがとねって伝えてと言ってた。澪がおやつを作ってくれてるのを知らなかったから、おふくろの手作りと勘違いしてたらしい。本当にありがとうな」

 私は小さく頷き、味噌汁をすする。皇太郎くんを迎えにくるとき、離れに寄って一言御礼を言ってくれてもいいのにと思う。

 育児要員に組み込まれたことは、家族として認められた証のようで嬉しい。他方で、はやく自分の子供を持たなくてはという思いは、煽られるように募っていく。

「前も話したけど、おふくろと絹姉ちゃんは、かなり自己中だろ。気に障ることがあるかもしれないけど、勘弁してやってくれないか。どうしてもというときは、必ず俺に言ってほしいんだ」

「わかってる。いつもありがとう」

「親父は息子の俺から見ても人格者で、紬姉ちゃんも人間ができてるから、うちの家族はどうにかバランス取れてるんだ」

 その人格者のいやらしさが気になるんですけどとは言えず、不満と一緒に味のしみたじゃがいもを飲み込む。

「お義母さんに、またお願いねって言われたんだけど……」
 たまには断ってもいいかなと訊ねる前に、結翔くんが口を開く。

「そうか。澪とおふくろが上手くいってるようで安心したよ」

「安心?」
 
「ああ。あの人、人の好き嫌いが激しいんだ。あの人も見ての通りの性格だから、頼りにされることもあるけど、同じくらい敵も作る」

 わかる気がすると心の中で頷き、口角を引き上げる。
「上手くやっていけるように努力するよ」  


 私が危惧した通り、お義母さんは皇太郎くんを私に託して外出する日が増えた。私は、おやつの材料費がかさむこと、翻訳講座に取り組む時間が減ることに不満を抱えながらも、嫁として信頼されるためだと自分に言い聞かせている。市川家に居場所をつくり、子供ができれば、両親や祖父母を喜ばせることができるという思いに支えられている。

 お義父さんは、お義母さんがいるときは滅多に居間に来ないのに、私が皇太郎くんと留守番をしているときは、何かと理由をつけて覗きにくる。私が皇太郎くんに手こずっているとき、助けてくれるので文句は言えないが、足音がするたびに体が強張る。唯一の救いは、皇太郎くんが次第に私に心を開き、「おばちゃん」と呼んでくれるようになったことだ。