連載小説「クラリセージの調べ」2-7
皇太郎くんの陽性の連絡をもらってから、私は濃厚接触者として隔離生活に入った。結翔くんに感染させないために、彼には母屋で生活してもらうことにした。彼は私の当面の食料と、発症したときに必要な風邪薬、解熱鎮痛剤、検査キット、ポカリスエット、冷えピタを買ってきてくれた後、スーツケースに身の回りのものを詰めて母屋に行った。
それからは、いつ爆発するかわからない爆弾を抱えている気分だった。発症を恐れる反面、来るならさっさと来いと開き直る気持ちも同居していた。
発症したのは2日目の朝だった。真っ青な海のなかを一人で泳ぎ続ける夢を見て、強い疲労感と共に目覚めた。やけに、色彩感の強い夢だったと重い体を起こすと、喉の痛みを感じた。すぐに体温を測ると37度8分。いよいよ来たと思った。
検査キットは陰性だったが、発熱して1日経たないと反応しないと聞いていたので油断はできなかった。翌日、もう一度検査すると、陽性を示す線がくっきりと現れた。にわかに鼓動が速まっていくのがわかった。
結翔くんにLINEで知らせると、絹さん一家は全員感染したと連絡が来た。母屋のおじいちゃん、義両親、結翔くんの体調に変化はないと聞いて胸をなでおろした。
皇太郎くんを連れていった発熱外来を受診し、PCR検査を受けた。処方薬をもらって帰宅し、夕方に陽性の連絡をもらった。
3日間ほど高熱に伴う頭痛と筋肉痛、喉の痛みと咳に苦しんだ。食料や生活必需品があるのが本当にありがたかった。実家の両親が玄関に置いてくれた差し入れに、心身ともに慰められた。
なかなか下がらない高熱と筋肉痛は心身を蝕んだ。スマホでコロナに罹った人のブログや、症状経過を説明するサイトを追いながら、自分は回復が遅いのか、後遺症が残らないかと不安に襲われた。皇太郎くんにマスクをかけさせなかったこと、手洗いうがいが十分ではなかったことを思い出して自己嫌悪に陥り、精神的に追い詰められていった。
繰り返し高熱を示す体温計を見るたび、何で私がこんな思いをしなければならないのかと怒りが湧いた。挙句の果てには、こんな疫病を拡散させた中国に怒りの矛先が向く始末だった。絹さんから、一度も謝罪や感謝がないことも怒りに拍車をかけた。だが、絹さん一家も自分以上に大変だと考えると、諦めの境地になった。
症状が落ち着き、検査キットで陰性を確認したときは、釈放された囚人の気分で初秋の高い空を見上げた。
隔離中に、タイミングの日を逃してしまったのは残念だった。初めて躰を重ねた昨年のクリスマスから9ヶ月、月のものが来るたびに失望し、焦りをかきたてられている。もしや自分がという懸念は頭から離れないが、日本産科婦人科学会が不妊症と定義する期間まで、まだ時間があることに救いを見出している。
★
結翔くんがお義母さんとの話し合いの機会を設けてくれた週末、私は朝から緊張していた。従順な嫁から逸脱することへのためらいはあるが、今後のためにもしっかり主張しなくてはという思いがそれを凌駕している。
リビングのソファに掛けたお義母さんは、ママさんバレー指導の日なので、赤いジャージを着ている。筋肉質の身体と赤いジャージの相乗効果で、いつも以上の威圧感を醸し出している。
「澪さん、良くなってよかったわ。災難だったけど、まあ仕方ないわね。改まって、何かしら?」
一重瞼の細い目には、警戒心が色濃く浮かんでいる。私のコロナ感染を軽くあしらわれたことにむっとしたが、今日の争点はそこではない。
「おふくろも忙しいだろうから、単刀直入に言うよ。澪が甥っ子の世話をするときにかかる費用は、姉ちゃんたちに払ってほしい。俺たちは今まで、身内だからと、なあなあにしてきただろう。でも、互いに気持ちよく助け合うために、お金のことはしっかりしておいたほうがいいと思う」
お義母さんは、心外だと言いたげに眉根を寄せる。
「そんな、他人行儀にしなくてもいいじゃない。今まで、大変なときは、お互い様で協力しあってきたんだから」
彼女の鋭い視線が私に止まり、非難たっぷりの声で言う。
「ああ。澪さんの差し金?」
私が何か言う前に、結翔くんが口を開く。
「俺の提案だ」
結翔くんは、母親から視線を外さずに続ける。
「皇太郎がコロナになったとき、澪は病院代とお昼の材料で一万円以上出したのは知ってるだろ? それなのに、おふくろは一銭も払っていない。絹姉ちゃんも、電話で俺に御礼を言っただけで、金のことは口にしなかった。皇太郎の世話をして感染した澪に、一言も謝罪していない。紬姉ちゃんは、うちの玄関先までケーキを持ってきて、悠の世話をした澪に御礼を言ってくれたけどな」
結翔くんを頼もしく思う反面、実の母親にここまで言わなくてはならない彼の胸中を思うと胸が詰まる。
「それから、澪は今まで皇太郎のおやつを作る材料にも、かなり使ってるのは知ってるだろ。嫌味に響くから金額は言わないけど、彼女は自分の貯金から出してくれている」
お義母さんは、獲物にとびかかる肉食動物のような勢いで言葉を吐き出す。
「絹のところは、家族全員でコロナにかかって死ぬほど大変だったのを知ってるでしょう。絹も倭さんも仕事を休んだ上に、自分の身体が辛いのに皇太郎の世話をしてたのよ。休んだ後、フォローしてくれた周囲への謝罪にも神経を使ってぼろぼろなの。私とお父さんだって、交代で買い物をして、絹の家の玄関まで届けて、大変だったのよ。そんなことがあったばかりなのに、何でお金だの謝るだのの話を出すのか、あたしにはさっぱりわからないわね! あんたたち、自分たちのことしか考えていないじゃない!」
激高する母親を前にしても、結翔くんは冷静な口調を崩さない。
「絹姉ちゃんの家が大変だったのは俺も知ってる。そういうときは、これからも気持ちよく助け合いたいから、お金のことをはっきりさせることと、感謝の言葉をしっかり伝えることを提案しているんだ。お願いだから、悪く取らないでほしい」
お義母さんは結翔くんの言葉を無視し、高々と足を組んで、私に棘のある視線を向ける。
「澪さんは子供がいないから、子供を育てながら仕事を続ける大変さが本当の意味でわかっていないのよ。子供もいない、仕事もしていないなら、気持ちよく協力してくれたっていいじゃない。コロナが移ったのは本当にお気の毒だけど、感染症なんだから皇太郎が悪いわけじゃないの。それなのに、自分が被害者みたいに謝罪だのお金だの。心が狭いのね」
結翔くんの立場を悪くすることが胸を過ったが、喉元から言葉が飛び出してしまう。
「お言葉ですが、私が仕事をするのを反対したのはお義母さんじゃないですか? それなら、私は仕事をさせていただきます。なので、皇太郎くんの世話もできません」
「おふくろ、今の言い方は問題がある。澪に謝ってほしい」
結翔くんの声は感情の起伏を排した分、内に秘めた怒りを感じさせる。
お義母さんは腕組みをして、そっぽを向いてしまい、謝まる様子はない。
「わかった。おふくろそがういう態度なら、澪はもう手伝わなくていい。澪は好きなように働けばいい。帰ろう!」
私は頷き、お義母さんに頭を下げる。
「失礼します」
私たちがソファを立ったとき、背後から義父の康男さんの低い声が響く。
「母さん、それくらいにしなさい。澪さんに手伝ってもらえるから、母さんもランチだの子供食堂だのに出られるようになったじゃないか。これから、じいさんの訪問診療も増えるから、対応してもらうかもしれないだろう。現に、来週の往診は俺も母さんも留守にするだろう」
お義父さんは私たちに向き直って頭を下げる。
「母さんが無礼なことを言って済まなかった。じいさんのことで、これから澪さんに協力してもらうこともある。これからも、宜しく頼む。この通りだ」
お義父さんは、お義母さんに厳しい目を向ける。
「母さんも謝りなさい」
お義母さんは、負けを認めることを拒む子供のように言い放つ。
「澪さんも子供をつくればわかるわよっ。早く市川の後継ぎを産んでくれればいいのよ。そうすれば、おじいちゃんも喜ぶわよ」
「どうして、そう話が飛躍するんだよ」
結翔くんがうんざりした声で言う。私は屈辱で言葉が紡げない。
「結翔、あんただって、おじいちゃんに孫を見せたいでしょう? おじいちゃん、どんなに喜ぶか。三人のなかで、あんたを一番かわいがってるものね」
私は結翔くんの口元がかすかに歪むのを見逃さなかった。彼をはやくお父さんにしてあげたいという思いが募るが、思いだけが空回りするのが悔しい。
「あんたたち、結婚してそろそろ半年経つでしょう? 一度、医者に見てもらったら? あたしも結翔が生まれるまで、お義母さんとお義父さんに男の子を催促されて散々嫌な思いをしたから、今まで気を遣って何も言わないでいてあげたの。でも、もう焦らなくちゃならない時期でしょう? 2人ともいい年なんだから、早いほうがいいわよ。花房先生のところは若先生が不妊治療の専門だから、行ってみなさいよ」
露骨すぎる言い方に、お義父さんの白髪交じりの眉がぴくりと上がる。
「やめなさい、母さん。母さんは孫をご近所に自慢したいだけだろう? どうせ、結翔のところはまだかと言われてるんだろ。母さんが近所に子供や孫を散々自慢してきたから、そのしっぺ返しを受けているんだ」
図星をさされたらしいお義母さんは逆上したようにまくしたてる。
「それの何が悪いのよ! あたしだってねえ、みんなにまだか、まだかと言われて、肩身の狭い思いをしてるのよっ」
「おまえは、また同じことを繰り返すつもりか!」
「また同じこと」という言葉がひっかかったが、考えるより前に結翔くんの厳しい声が空気を切り裂く
「おやじ!」
「あー、もういいわよ。今まで澪さんにいろいろ払ってもらったお礼に、澪さんのクリニック代は全部うちで持つ! それでいいでしょっ?」
「お義母さん、それは話が違うと思いますが……」
あまりにも飛躍した話に、助けを求めるように結翔くんの反応を窺う。
「おふくろ、今言ったこと本当?」
結翔くんは母親と対峙するように目を合わせてそらさない。
「もちろんよ。月末に結翔が明細を持ってきてくれればいいわ」
「結翔くん……!」
結翔くんは、私の手を握り、頼むから黙っていてくれと目配せする。
「約束だからな」
「結翔くん、そんなの……」
彼は掌に爪が食い込むほど強く私の手を握る。
「もちろんよ。その代わり、あんたたちも家族なんだから、今みたいに細かいこと言わないで、互いに協力するのよ」
「わかった。でも、澪は家政婦じゃないんだから、断る権利もある。無理だと言うことはしつこく頼まないでほしい。それから、感謝は忘れないでと絹姉ちゃんにも伝えて」
★
「どうして、お義母さんがクリニックの代金を払うことを承知したの? 私がどんなに不愉快だったかわかる?」
離れに帰った私は結翔くんに詰め寄る。
「嫌な思いをさせて、本当に申し訳なかった。でも、おふくろが出してくれるというなら、お願いしたほうがいい」
「どうして? 私たちの子供のことなんだよ。私だって退職金には手をつけていないし、貯金は結構ある。お義母さんに明細を見られたら、いまどんな治療をしているかわかっちゃうんだよ。近所に言いふらされたらどうするの」
「うん……。けど、子供は急ぎたいから、金を気にして、必要な治療をためらいたくない。もし澪が不妊治療とか、俺が男性不妊ということになったら、授かるまでにものすごく金がかかるだろう? 俺の知り合いで、車一台分くらいかけた奴もいるんだ。そうなったら、俺も払えるか自信ないし」
「それはそうだけど、まずは私たちの貯金でやってみようと思わないの? 今年から不妊治療に保険がきくようになったし」
「俺だって、そうしたいよ。澪にプレッシャーや負担をかけたくない。でも……」
「何?」
結翔くんは消え入りそうな声で言葉を絞り出す。
「実は、じいちゃんの認知能力が低下している。ぼけはじめてるんだ……」
「え?」
「先週、実家で飯食ってるとき聞いたんだ。医者から、癌が身体を蝕んで命を奪うのはまだだけど、ボケのほうが進んでいると言われたらしい。じいちゃんがしっかりしているうちに孫を見せたい」
「そうだったんだ。ごめんね、何も知らなくて」
「いや、俺も聞いたばかりだから。じいちゃんも、俺の孫を見るのを楽しみにしてるんだ。俺、子供の頃は、おやじよりじいちゃんと長い時間を過ごしたから、父親同然なんだ。だから、金を気にせずに、できる限りのことをしたいと思っている」
「そういうことなら、私も気持ちは同じ。一日も早く授かれるように、二人で頑張ろう。クリニック、予約する!」
「ありがとう。俺も検査とか協力するから何でも言って」