「巡礼」30
「水盃を飲み干して谷田部を飛び立ったのは、桜咲く4月半ばだった。整備員が桜の枝を操縦席に飾ってくれた。花がこんなに愛おしく思えたのは、生まれて初めてだった。途中、鈴鹿基地で給油し、そこから鹿屋に向けて飛び発った。鹿屋の滑走路は連日の空襲で穴だらけで、私の技術で飛行機を壊さずに着陸できたのが奇跡だった。鹿屋には菊水作戦のために様々な基地から特攻隊員が集まってきて、連日出撃が続いていた。
私達は基地の近くにある小学校で寝泊まりした。私はいつ出撃命令が出るかという恐怖と向き合いながら、昼夜を問わない米軍の空襲や機銃掃射に神経をすり減らされ、極限状態に追い詰められた。基地にいる搭乗員や整備員も、連日の激務と空襲で心も体もぼろぼろになっていて、半分地獄に足を突っ込んだような形相だった。
出撃命令が出るまでに、谷田部から一緒に来た戦友が、艦載機の機銃掃射で亡くなった。蜂の巣のように弾丸を打ち込まれ、腸がはみ出た彼の遺体を見て、面白いように基地を襲撃するアメリカへの憎しみが燃え上がった。あのとき、戦友の敵を討とうという闘志が湧いた」
彰は思いつめた面持ちで続けた。
「私の出撃は5月11日、菊水6号作戦。出撃は早朝で、暗いうちから整備員が機を整備してくれていた。司令から激励を受け、水盃を飲み干し、整備員や搭乗員に見送られた。機体に500キロ爆弾をつけ、うまく離陸できるか心配だったので、どうにかできたことに安堵した。空中で形のよくない編隊を組み、眼下に開聞岳を見ながら、ミツや家族のことを思った。日本に来て、日米で戦争になり、とうとう特攻で死ぬことになった運命を思うと、悲しいほど美しい茜空が涙で霞んだ。衝動的にミツの恋人の唇を奪ってしまったことに胸が痛んだが、あと数時間で死ぬと思うと、それ以上考えても仕方がないと振り切った。気持ちを切り替え、一切の未練を断ち切って操縦桿を強く握り締めた。そのときあったのは、彼女を守るために突入する覚悟だけだった。
しばらく飛んでいると、自分の機の速度が落ちていることに気づいた。列機が速度を上げたのかと思い、慌てて速度を上げたが、エンジン音がいつもと違う。プロペラの回転数も落ちていた。あの頃、特攻に投入された機は使い古されたものが多く、決死の覚悟で出撃しても、機の不調で引き返してくる隊員が後を絶たなかった。自分の機もそれかと思うと、体中から血の気が引いた。落ち着け、落ち着けと思ったが、どんどん列機に引き離され、焦りは募った。1番機が舞い戻ってきて横につけ、風防を開けてどうしたと尋ねた。私も風防を開け、エンジンを指して、おかしいと伝えた。彼は引き返せと合図し、私に敬礼して去っていった。私も無駄死にはしたくないと咄嗟に判断し、引き返すことに決めた。基地までエンジンを持たせることを優先し、爆風で機が破損しないように高度を上げてから、爆弾を海に捨てた。身軽になって浮き上がった機を、薄氷を踏む思いで操りながら、敵の戦闘機と出くわさないかとびくびくしていた。
しばらくして、エンジンが、ぷすぷすと嫌な音をたて始めた。まずいと思いながら飛んでいるうちに煙が出てきて、遂にエンジンが止まった。滑空状態の機が、風に流されて降下していくとき、心臓がきゅーっと縮み上がるような痛みがあり思わず目を閉じた。気がつくと機は海に着水していた。着水の衝撃で顔面を強打し、顔が血だらけだった。顔を打った衝撃で朦朧としていたが、無我夢中で風防をこじ開けて機の上に出た。このとき、左足をぶつけたようだが、痛みを感じる余裕はなかった。沈みつつある機の上から海に飛び込み、がむしゃらに水をかいて水面に出た。体力が続く限り泳いだが、海水は刺すように冷たく、潮の流れも早いので、どんどん体力を奪われた。腕や足にも力が入らなくなり、意識が遠のいてきて、ああ、もう終わりだと思った。これで楽になれるなら、それでいいような気がした。遠くに潜望鏡が見えたような気がしたが、幻影だったのかもしれない。
目を開けると、清潔なベッドに寝かされていた。体を起こそうとしたが、力が入らなかった。頭には包帯が巻かれていた。渾身の力で上半身を起こし、周囲を見回すと、ベッドが並んでいて、そのいくつかに日本兵と見られる男が寝ていた。
きょろきょろしていると、見慣れない軍服を着た血色のいい東洋人が、ガムを噛みながら入ってきた。男は体を起こした私に気づくと、ベッドに近づいてきて、覚束無い日本語で『あなた、パイロットね。アメリカの船があなた助けました。しばらく意識なかったです。気分どうですか?』みたいなことを言った。
彼の話で、私は潜水艦に救出され、ハワイの捕虜収容所に向かう輸送船に移されたことがわかった。薄れゆく意識のなかで見た潜望鏡は、幻影ではなかった。彼の日本語を聞いてすぐにわかった。こいつは自分と同じ二世だと。日米ホームで聞き慣れた二世特有の英語訛りの日本語だった。
何も答えない私に、二世が名前と階級を尋ねた。私は咄嗟に口を噤んだ。捕虜になったら、二世の自分はどんな仕打ちを受けるかと警戒した。アメリカの匂いを全身から漂わせた彼は、もう少し休めと言って、鼻歌を歌いながら部屋を出ていった。私はベッドに身を横たえ、アメリカの捕虜になってしまった現実を噛み締めた。同じ二世なのに、さっきの男と捕虜になった自分の違いを思うと、やりきれなかった。熱が高く、体力が落ちていた私は、絶望のなかで深い眠りに落ちていった」
彰は口角の泡を手で拭い、乾いた喉を潤してから言い継いだ。
「そのとき、不思議な夢を見た。
私は暗くて冷たい水の中を泳いでいた。手足の感覚がなくなり、力尽きて沈みそうになったとき、頭上から誰かの声が聞こえた。その声は『帰ってきて』と言っているような気がした。その声を聞いた私は、咄嗟に宮子さんではないかと思った。彼女の名前を叫んだ瞬間、目が覚めた。私の潜在意識が見せた夢だろうが、もしかしたら本当に彼女が呼びかけてくれていたのかもしれない。目覚めた私には、彼女のもとに帰ろうという思いが芽生えていた。
私は二世だとばれたら面倒だと思い、日本人に徹すると決めた。日本語が不自由で英語訛りもあったので、できるだけ口を聞かないように記憶を失ったふりをすると決めた。枕元に来た白人の軍医は、私の額に裂傷があったので縫ったことと、左足に打撲を負っていることを説明した。海に落ちて体が衰弱していて、熱も高いという。最初に見た二世が軍医の言葉を通訳したが、英語ができる私には彼の通訳がひどかったのがわかった。彼の英語はハワイ訛りらしく、私には馴染みのないものだった。私は彼の日本語を神妙に聞くふりをし、手当をしてくれた軍医に日本語でお礼を言った。
その二世は、うまくない日本語で私にいろいろ尋ねた。名前や階級、所属していた隊、任務などを聞かれたけど、何を聞かれても覚えていないふりをした。彼は私が着ていた飛行服を持ってきたが、私は珍しいものを見るような顔で手に取り、困惑した顔をしてみせた。
弱った彼は、軍医に相談したらしい。軍医がいろいろ質問し、二世が通訳した。英語で尋ねられると、つい英語で答えそうになって肝が冷えた。何を聞いても呆けた顔をしている私を見て、二人は私をハワイの海軍病院に引き渡すと決めたようだ。
同じ船には、沖縄戦で捕虜になった日本兵がたくさん乗っていて、中には将校もいたと思う。聞きなれた東京言葉が聞こえてきたと思うと、全く理解できない方言も聞こえてきた。
ハワイに着くと、熱が高かった私はバスで海軍病院に移送された。アメリカから船で日本に向かう途中、ハワイに寄港したことを思い出した。強い陽射しを頬に感じ、抜けるような青空や椰子の木を見ると、無性にカリフォルニアが思い出され、自分が捕虜になってここにいることの情けなさで涙が出た。一緒に鹿屋を飛び立った仲間にも、合わせる顔がなかった。誰とも口を聞きたくない気分だった。
病院は真珠湾を見下ろす丘の中腹にあった。遠浅の海に沈んだ艦船が横たわっていた。あれが、真珠湾攻撃で沈められた艦船かと思った。病院には負傷した日本兵や将校がたくさんいたが、知った顔はなかった。
傷が良くなると、海軍の収容所に移された。知っている二世がいたら嫌だと思ったが、日本語を話す若い白人将校が何人かいて、彼らに尋問された。名前を聞かれたとき、長谷川一夫と思いついた俳優の名前を答えた。ぜんぜん似てないなと一蹴した彼は、ろくな答えを返さない私を情報価値のない捕虜と判断したのだろう。私は将校以外が入る建物に割り振られ、兵舎の掃除や草むしりなどの軽作業を黙々とこなす日々が始まった。周囲とほとんど話さず、捕虜同士の人間関係を観察したり、米兵の会話を聞いたりして気を紛らわしていた。3ヶ月ほどそんな生活が続いたと思う。
広島に新型爆弾が落とされたという噂を聞き、宮子さんのことが無性に心配になった。何とか情報を得ようと白人兵の会話を盗み聞きしたが、原子爆弾だという他は、有益な情報が入ってこなかった。彼女は呉の親戚の家に行くと言っていたので、どうか無事でいてほしいと祈った」