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「カモメと富士山」2

 ソーテルのカズヤの家は、2階建ての4LDKで、ベランダから海が臨める。海は南カリフォルニアの陽光を照り返してきらきらと輝き、水平線を彷徨うカモメの声が聞こえてきそうだ。

 カズヤとジョージが、家のなかを案内してくれる。家具は機能的なデザインと落ち着いた色彩でまとめられている。亡くなったカズヤの奥さんが描いた絵が、あちこちに飾られている。旅行先でのスケッチが好きだったらしく、英国の田園風景、中国の天安門広場などが色鉛筆で繊細に描かれていて、立ち止まって見入ってしまう。

 カズヤの書斎の白い壁には、年季の入った富士山の白黒写真が1枚だけ飾られ、窓辺に小さな風鈴がつるされている。私たちが部屋に入ったとき、涼風が風鈴を揺らし、郷愁をそそる残響を残していく。その音は、思い出のなかの祖母の風鈴の音と共鳴し、苦しいほどに胸を締め付ける。

 リビングのサイドボードには、数多の写真立てが並ぶ。白黒写真から最近のものまであり、写真たちが時を超えて語りかけてきそうだ。順に見ていけば、アメリカに根を下ろした一家の歴史がたどれるのだろう。

 2階にあるジョージの部屋は、学生らしく本がぎっしり詰まった本棚が鎮座しているが、一際目を引くのは壁を埋め尽くすルパン三世のポスターだ。棚にはルパンと次元、五右衛門、不二子、銭形警部のフィギュアが並んでいる。念入りに手入れされているらしく、埃が積もっていない。

「本当にルパン3世が好きなんですね」

「Yep! ルパン3世のテーマも日本語で歌えるぜ。一番最初に覚えたアニメソング」

「私も子供の頃はルパン3世に夢中で、大人になったら彼と結婚すると信じてました」

「わかるよ! 俺、女を口説く日本語はルパンで覚えた」

 だから軽薄な日本語になったのかと思ったが、聞かされているうちにしっくりきてしまうのが不思議だ。神経質そうな外見と中身のギャップは嫌いではない。

 気になったのは、本棚に大学の教科書に加え、日本文学の本がたくさん並んでいることだ。翻訳された日本の漫画が詰まっていることを想像した私には意外に映る。

「日本の名作が多いですね。川端康成、芥川龍之介、三島由紀夫、太宰治、谷崎潤一郎、村上春樹……」

 ジョージは、目にかかるさらさらの前髪を長い指で払い、真摯な面持ちになる。
「日本文学を勉強しているんだ。日英の出版翻訳家になりたいから、原著も翻訳書も読んで勉強してる。目標は、川端康成の『雪国』を翻訳して、彼のノーベル文学賞受賞に貢献したエドワード・サイデンステッカーを超える翻訳家」

 アメリカ人らしいビッグマウスに響くが、気迫のある眼差しに惹かれて尋ねる。
「すごいですね。アニメではなくて、文学の翻訳家?」

「もちろん、アニメもやりたい。でも、俺はまだ世界に知られていない日本の文学作品を世界に送り出したい!」

「わあ、素敵ですね。今はインターネットがあるから、翻訳は世界中どこにいてもできますね」

 将来私が海外に赴任しても、どこでも仕事ができる彼なら一緒に行けると考えていたことに頬がぼっと赤くなり、思わず視線を落とす。

 カズヤは日本語で会話を続ける私たちを見て、白眉をかすかに上げ、意味ありげに頬を緩める。


 階下に下りると、ジョージが3人分のスパークリングウォーターをリビングに運んでくれる。からっとした南カリフォルニアでは、炭酸水の喉越しが最高だ。日本では飲まなかったが、ここでは冷蔵庫に常備している。

「娘と息子がこの家から巣立った後、しばらく留学生をステイさせていたが、妻が体を壊してからやめたんだ。妻が亡くなって、1人暮らしが寂しくなったときに、ジョージが来てくれた。2人でも広いから、いつでも遊びに来ていいよ。ゲスト用のベッドルームがあるから泊まっていって構わない」

「ありがとうございます。こんなに美しいお家に来られて幸せです」
 伝えたいことは山ほどあるのに、語彙が限られているせいで、咄嗟に気の利いたことをいえないのが悔しい。

「アメリカで困ったことはないかい?」

「やはり、英語です……。日本でたくさん勉強してきたのに、ナチュラルな英語は聞き取れないし、言いたいことも言えません。毎日、心身共にくたくたになってしまいます」

 つい、愚痴をこぼしてしまった私に、カズヤが白髪混じりの眉を下げ、柔和な笑みを注ぐ。
「その気持ちはよくわかる。私も16歳で愛媛の松山に行ったときは、日本語にとても苦労した」

 カズヤはソファから立ち上がり、サイドボードの上に置かれた写真立のなかから1つを選んで持ってくる。

 年季の入った丸い写真立てには、白いシャツを着た坊主頭の少年が、何かを堪えるように唇を引き結んで写っている。
「松山の叔父の家にいたときの私だ」

「グランパは、佳史さんと過ごした大学時代のことはよく話してくれるのに、松山のことは話してくれない。俺のルーツでもある松山のこと、もっと聞きたいのに」

「私も聞きたいです。特に、カズヤさんがどうやって日本語を身につけたのか。いま、英語に苦労している私の励みにもなります」

「そうかい。あなたを勇気づけられるなら、覚えていることを話そう……」
 カズヤはスパークリングウォーターを1口飲むと、軽く目を閉じる。

「私は1918年の生まれだ。その頃のカリフォルニアは、日系人差別が激しかった。大学を卒業しても能力に見合う職に就けず、農業や店舗などの家業を手伝う二世が大半だった。私たちは、このまま高校や大学に進んでも、それに見合う人生が期待できなかった。
 私の父は、愛媛の実家と相談し、16歳の私を日本に留学させることにした。両親は私が日本の大学を卒業して、日本で良い仕事に就くことを期待していた。1929年の恐慌以来、経営していた店の売上が芳しくなかった両親にとって、安い学費で高等教育を受けさせられるのも魅力だった。
 当時の日系人の家庭では、父の権威は絶対だった。父は日本人の人情の厚さや自然の美しさを熱心に説き、英語ができるお前はみんなに尊敬されると日本行きを強く勧めた。私自身も、日本なら肌の色で機会を閉ざされないと思い、父の勧めに従った。当時は、同じような事情で子供を日本に送る家が多くて、再びアメリカに戻った二世は帰米きべいと呼ばれていた」

「グランパもキベイだったんだね」

「ああ。偉大な文人や軍人を育んだ松山は、両親から聞いた通り美しかった。今でも目を閉じると、穏やかな瀬戸内海に浮かぶ島々、松山城で見上げた中秋の名月、橙色に色づいていく蜜柑が浮かんでくる」

「グランパの親戚は、ナイスな人たちだった?」

 カズヤは眉間に小さくしわを寄せる。
「残念ながら、父が強調した日本人の心の温かさは幻想だった。父の親戚に、異国の雰囲気をまとい、周囲から浮いていた私を受け入れる寛容さはなかった。
 渡米した父が送金しているとはいえ、祖父母と長男の叔父夫婦、四人の従兄弟がひしめき合うように暮らす家は、家計に余裕がなかった。血の繋がらない叔母は、厄介物の私に次々と仕事を言いつけ、私は薪割り、便所掃除、風呂焚き、家業のみかん畑の手伝いを命令されるままにこなした。働かないと、食べさせてもらえなかったからね」

「苦労なさったんですね。松山だと伊予弁でしょうか?」

「子供の頃から両親の伊予弁を聞いていたので、言葉はどうにかなると思ったんだが、予想以上に苦労したよ。早口の伊予弁が聞き取れず、頼まれたことと違うことをしてしまい、間抜けだ、ご近所に恥ずかしいと何度も怒鳴られた。言いたいことを伝える表現が浮かばず、妙な表現になって従兄弟に嘲笑されるのは日常茶飯事だった。救いだったのは、祖父母が叔母に内緒で小遣いをくれたことと、江田島の海軍兵学校から年に数回帰ってくる長男が私に優しかったことだ。
 こうした環境で、私は中学に入るために勉強した。夕食後、母方の親戚に紹介された先生の家に通い、国語や歴史を中心に教わった。学校に行ければ仕事から解放されると思い、疲れた体に鞭打って勉強したよ。
 そんな日々に目にした日本の自然は、鮮やかに目に焼き付いている。年中温暖な南カリフォルニアで育った私には、四季がはっきりした気候が新鮮だった。短い命を燃やす蝉の声、赤や黄に染まって散る木の葉、陽が射すと溶けだす霜柱、ぱっと咲き誇って散る桜。刹那の美に目を見張り、その一瞬一瞬に魅了された。西海岸のからっとした空気、椰子の木や鮮やかな花々を思わない日はなかったが、自分のルーツが美しい日本にあることは誇らしかった。
 翌年の春、幸いなことに私は松山中学に入れた。皆の前で自己紹介をすると、アメリカ出身ということで珍しがられ、たくさんの級友が話しかけてくれた」

「じゃあ、グランパは日本の中学で苦労することはなかったの?」

「いや、最初の軍事教練で私と級友の相違があらわになると状況は変わった。配属将校は私たちを前に、耳をつんざくような鋭い声で『気をつけ』、『休め』、『敬礼』、『直れ』と次々と号令をかけた。号令の意味がわからなかった私は、きびきびと動く周囲の真似をするしかなかった。いつも一歩遅れて動く私を不審に思った将校は、私一人を前に出して号令をかけた。号令と違う動きをしてしまった私を見て、級友がどっと笑った。アメリカで優等生だった私にとって、耐え難い屈辱だったよ。英語がわからない移民に慣れていたアメリカと違い、同質性が高い日本では、外見は自分たちと同じでも、日本語が不自由な私の姿は異様に映ったに違いない。
 負けず嫌いの私は、親切な級友に助けられ、号令や手旗信号を覚えた。だが、配属将校に目をつけられてしまい、ゲートルの巻き方が変だ、大和魂が足りないとか、顔を見るたびに罵倒されたよ。意地の悪い級友にアメ公と罵られたり、号令と違う動きをした私の真似をされたりし、腸が煮えくり返る思いをした。
 アメリカではジャップと二級市民扱いされ、日本でもアメ公と罵られた私は、自分の居場所がどこにもない孤独に怯える夢を見るようになった。悩みを共有できる二世が近くにいれば違ったかもしれない。だが、同じ学校にいる唯一の二世は、3歳で日本に来たので英語を話せず、アメリカのことも覚えていなかった。日本語の世界にいながら、英語で思考している自分は、1人だけ周囲から取り残されていた。恥をかくたびに胃がきりきり痛み、いっそのこと言葉の不自由のないアメリカに帰ろうと何度思ったかわからない。だが、私が日本の大学を出て、良い仕事に就くことを期待している両親のことを思うと、言いだせなかった」

「そんな日々を生き抜く心の支えはありましたか?」

「私を前向きにしてくれたのは剣道。アメリカで、両親の勧めで6歳から剣道を習っていた私は、ふたを開けてみると、剣道部員のなかでも1、2を争う腕だった。私の腕が知れ渡ると、級友も一目置くようになった。相変わらず虐める級友はいたが、優等生であることが重要なアイデンティティだった私は、優位に立てるものを見つけたことで少しずつ自分を取り戻した。相手から1本取るたびに、剣道の師範に叩き込まれた大和魂が呼び覚まされた。級友にひけをとらない日本男子になろう、日本の良いところを取り込んでやろうという思いが沸々と湧いてきた。
 まずは、不自由な日本語をどうにかしなければならない。乏しい語彙を広げるために、寝る前の読書が習慣になった。繰り返し読んだのが、松山が舞台の『坊っちゃん』。伊予弁の地元民と江戸っ子の坊ちゃんの小気味のいい会話が好きだったね。
 そうして、卒業後の進路を決める頃には自然と日本語で思考するようになっていて、読み書きも上達し、どうにかやっていける自信がついていたよ」

 英語に苦労している私には、日本語に苦労した彼の辛さが悲しいほどにわかる。母国で優等生であることが重要なアイデンティティで、それが崩された屈辱にも共感する。今の私のように、プライドが邪魔をして英語に心を閉ざしてしまえば、彼のようになれないだろう。

「さすが、グランパだね。俺も正岡子規や夏目漱石が暮らした松山に行ってみたい! 富士美は行ったことある?」

「はい、2年前に松山の道後温泉に行きました。坊っちゃん列車に乗って、坊っちゃん団子を食べました。うちもみかん農家なので、松山は親しみを感じる町でした。ジョージさんの親戚もみかん農家だったのですね」

 カズヤは、遠くを見るような眼差しを私に注ぐ。
「私の親戚の家は、佳史くんの家とは比べものにならないほど小さいみかん農家だったよ」

 彼は追憶の世界から呼び戻されたかのように時計を見上げる。
「私が話し過ぎて、すっかり遅くなってしまったね。佳史くんの話までいかなかったから、また今度だ。ジョージ、富士美を送ってやりなさい」

 いつの間にか日が陰り、風が冷たくなっている。朝晩の寒暖の差が激しい気候にはいまだに慣れない。朝は夏でもトレーナーを着て出かけ、昼は半袖になり、夕方はトレーナーを着て帰るほどだ。

「興味深いお話をありがとうございました。次は、佳史さんのことを教えていただけるのが楽しみです。私は写真と祖母の話でしか彼を知らないのです」

「もちろんだよ。必ず、近いうちにいらっしゃい」
 彼の口調は、口約束に終わらせることを許さないかのような気迫があった。

 アパートの前まで送ってくれたジョージは、私が車を降りようとすると、ぐっと腕を引き寄せて軽くハグをした。艶のある髪が私の耳脇をかすめ、ぴりっと電気が走ったような感覚を覚える。驚いて身を固くする私の耳元で、彼は英語で囁く。

「今度は2人で会いたい。電話番号を教えて」

 私がメモ帳に書いた電話番号を渡すと、彼はにっと微笑み、窓からひらひらと手を振って去っていく。去っていくルパン3世の姿と重なり、思わず口角が緩んでしまう。