巡礼 6-(4)
都はキムラ家のガーデンテラスに座り、蛍光ペンと付箋、電子辞書を傍らに 、英語文献と格闘していた。夕暮れの冷たい風が頬をかすめ、本から顔を上げた。四季の変化に乏しい南カリフォルニアの風も冷たくなった気がした。渡米してもう2ヶ月半。日本なら紅葉の季節だ。赤や黄色に染まった落ち葉が、本にはらりと舞落ちれば風情があるかもしれない。だが、ここでは紅葉は見られない。
都は感傷的になりやすい夕暮れが苦手だった。英語づくしの1日が終わり、ふっと息をつくと、空が薄紫色から朱色、そして群青色にうつり変わっていく。それを見上げると、良のことが無性に思い出される。カリフォルニア特有のピンクの夕焼けが現れた日には、良に見せたくて思わずカメラのシャッターを切った。
時が流れても、良は都の心を離れてくれない。マンザナーを訪れ、日系アメリカ人の歴史を学び、以前よりは前向きになれた。だが、ふとした瞬間、良を激しく求める気持ちは消えなかった。良が会いにきてくれるかもしれないという期待を捨てきれず、道行く人のなかに彼を探した。彼に似た面持ちの東洋人を見ると、思わず後を追ってしまう。
失恋を忘れるには新しい恋という通説に従い、新たな恋人を探そうとした。語学学校で机を並べる男性には、アメリカで医師免許を取りたい、博士号を取得したいなど目標がしっかりした男性もいて、日本で漫然と大学生活を送る男子にはない逞しさがあった。
だが、良と作り上げた居心地のよい空気と、日本文学やクラシック音楽について語り合えた時間はまだあまりにも鮮やかで、別の男性とデートをしても彼と比較してしまった。
それを実感するたび、彼を奪った茜への憎しみが燃え上がった。良は自分と重ねた2年間よりも、たった1度の茜との関係を選んだ。それが同情であっても、義務感であっても、自分が良に捨てられたことは変わらない。
なぜ自分がこんなに苦しまなければならないのか。行き場のない苦しみを抱えた都は、複雑に絡まった運命の糸を手繰りはじめた。良を家族に紹介したこと、茜に家庭教師をするのを許したことは何度後悔してもしきれない。茜がいなかったらと思うと、父が再婚しなければと思った。母が生きていれば、再婚はなかったと思うと、母を轢いた車の運転手を恨む思いに火が付いた。過去を恨んでも何も生み出さないとわかっていても、どこかに憎しみをぶつけないとやりきれなかった。
良と茜はどうしているだろうか。2人は良の大学の近くにアパートを借り、新生活を始めたという。茜のお腹は目立ち始めただろうか。良は様々な葛藤を封印し、茜と子供を守る義務を果たしているに違いない。それでも、いつかは、それが義務ではなく、心からの思いになってしまう。2人が地に足をつけて歩き出しても、自分はずっと立ち止まったままだったら……。それを想像すると、心がきーんと音を立てて凍っていくような孤独が迫ってきた。夕暮れの冷たい風が体の熱を奪い、都の体は石像のように固くなっていった。
どれだけ石のように座っていただろうか。アイリスが温かい珈琲をテーブルに置いた。
「温まるわよ」
「ありがとうございます」
都は能面のような顔のまま、機械的に湯気の立つカップをとり、ミルクを注いだ。すべてを吸い込む闇のような珈琲に、ミルクが銀河系を描くように広がっていった。アイリスは黙って前の椅子にかけ、珈琲をすすっていた。英語を話す気力が湧かない都には、彼女が黙っていてくれるのがありがたかった。
義務のように口へ運んでいたカップが空になり、カフェインが都の体に血を通わせはじめた頃、アイリスの顔は夕闇でぼやけ始めていた。
「最近、随分熱心なのね」アイリスがテーブルに置かれた本に目を注いで言った。
「ええ、卒業論文で、日本に永住した二世について書きたいと思って。結城先生にいろいろ教えていただいて」
「素晴らしいわ! その論文、日本語で書くの?」
都は申し訳ない気持ちで頷いた。英作文もままならない今の自分には、英語で論文を書く力などない。
「残念ね。私は読めないけれど、ベンなら読めるかもしれない。できたら、送ってちょうだいね」
「もちろんです」
「でも、なぜ日系アメリカ人にそんなに興味を持ったの?」
暗闇のなかでアイリスが都を見据えていた。
「これまでも、日本から来た方に、自分の経験を話したことはあったけれど、あなたのように深く興味を持ってくれる人はいなかったわ」
都は不自由な英語で、何とか自分の気持ちを伝えようとした。
「貴女がたは、自分の意思ではないのに日米関係の間に置かれ、それに振り回されました。どうしてと叫びたかったと思います」
アイリスは黙って続きを待った。都はそれ以上、英語で続けることができず、身振り手振りを交え、ゆっくりと日本語で話し始めた。
「それでも、貴女がたは運命を受け入れ、その経験を踏み台にして、アメリカで居場所を作りました。私はその強さに勇気づけられました。私にも日本人の血が流れています。そう思うと、辛い経験を乗り越えられるような気がして」
決してわかりやすい説明ではなかったが、アイリスは都の言わんとしていることを理解したようだった。
「辛いことがあったのね?」
都は肯いた。今まで誰にも話さずにきたが、あと少しでここを去ると思うと、打ち明けてもいいような衝動に駆られた。一緒に暮らすうちにできた親密感と、彼女の包み込むような瞳も心のガードを下げてくれた。
「恋人というか婚約者が、妹と1度だけ関係を持ってしまって、妹が妊娠して……。妹は、父が再婚した女性の娘です……」
都は拙い英語で事の経緯を説明しはじめた。都が言葉に詰まるたびにアイリスが言葉を補い、意味が通じない文章を作ると想像力を駆使して言い直してくれた。
都が話終わると、アイリスが尋ねた。
「彼は妹さんと結婚して子供を育てると決めたのね?」
都は頷いた。
「潔い男ね」アイリスは感慨深げに言った。「そんな決断ができる男性はそういないわ。アメリカでは十代の女の子が妊娠すると、中絶したり、養子に出したりすることが多いのよ」
「わかっています。でも、彼はあまりにも潔すぎて! 私はどうなるんですか、彼を忘れられなくて苦しいです!」
都は迸(ほとばし)る感情を剥き出しにし、涙をぽろぽろこぼしながら訴えた。あの日から抑えてきた思いが、堰を切ったように溢れ出し、感情を制御できなくなっていた。
「都、あなたがどんなに苦しんでいるかと思うと……。でも、忘れないで。彼も苦しんで、運命を受け入れる決断をしたの。心から愛したあなたを傷つけ、別の女性を選ばなければならないのはどんなに苦しいか。でも、彼はそれが正しい道だと結論を出したの」
「だったら、捨てられた私はどうなるんですか! どうして、私が捨てられなくてはならないの! 私は妹に恨まれるようなこと、何もしていないのに!」
「彼はいま、あなたを裏切り、傷つけた痛みであなた以上に苦しんでいるのよ。彼があなたに望むのは、新しい幸せをつかむこと。いい、都、彼はもう戻ってこないの。これは運命なのよ!」
良も苦しんでいる。その一言が、木霊のように胸に響いた。ずっと、誰かにそれを言葉にしてほしかったのかもしれない。都は良の苦しみが、ずしんと胸に落ちてきたような優しい痛みを覚えた。溢れ出した熱い涙は、2人分の涙に思えた。
アイリスは都を包み込むように語りかけた。
「誰を恨んでも自分が辛くなるだけ。私もそうだったわ。真珠湾を奇襲した日本を恨んでも、私達を収容所に入れて父を死に追いやったアメリカを憎んでも……。日本人の血を引いて生まれたことをどれだけ恨んでも仕方がないのよ。現実を受け入れた上で、どう生きるかが、その後の人生を決めるの」
アイリスの力強い言葉は、憎しみから逃れられなかった都の心に喝を入れた。暗闇でぼやけた彼女の背後に、苦難を乗り越えた数多(あまた)の日系人の影が揺らめいているようだった。
クリネックスの箱を持ってきたアイリスは、都の傍らにきて背中をさすりながら言った。
「大丈夫。あなたには日本人の血が流れているの」