連載小説「クラリセージの調べ」2-6
紹介状なく特定機能病院を受診したので、保険外療養費に3000円ほど取られることを気にしつつ、会計を済ませた。薬局で、ようやく薬をもらえたときは12時を回っていた。
帰宅し、だるそうな皇太郎くんを2階に寝かせると、緊張が解けてへたり込みたくなった。だが、食後の薬を飲ませるために、昼食を用意しなければならない。
薬局で買ったポカリスエットを温めて飲ませてから、皇太郎くんに尋ねる。
「皇太郎くん、お昼に何が食べたい?」
「ぶっかけうどん……。つめたいの」
ハンバーグが大好物の皇太郎くんが、さっぱりしたものを求めるのを聞くとが可哀そうでたまらなくなる。
「わかった。用意するね。他に食べたいものはある?」
「ヨーグルトとアイス」
「はーい、買ってくるから、しばらく寝て待っていてね」
お義父さんとおじいちゃん、悠くんの昼食も準備しなければならないので、まずは買い物だ。
居間では、マスクをかけたお義父さんが、声色を変えて悠くんに絵本を読み聞かせている。
「お義父さんと悠くん、お昼は冷やしうどんでいいですか? 皇太郎くんが食べたいというので」
「ああ、悪いね。いいよな、悠?」
「では、ちょっと買い物に出ます。皇太郎くんのこと宜しくお願いします。いま、ポカリを飲ませて寝かせました」
思いついて、二人に尋ねる。
「他に必要なものはありますか? 悠くん、アイスとヨーグルト食べるかな?」
小さく頷く悠くんにOKサインを出す。
いつも使っている安いスーパーは遠いので、最寄りのスーパーに車を走らせる。買い物に行くと言ったとき、お義父さんが費用のことを一言も口に出さなかったことが魚の小骨のように引っかかる。私が彼の立場なら、皇太郎くんの医療費と買い物代を出すと申し出て、レシートを持ってくるよう頼む。今日は、かなりの出費をしている。後で、お義母さんに医療費の明細と買い物のレシートを渡すくらいはいいだろう。
スーパーにつくとカートにかごをのせ、冷やしうどんの材料、ヨーグルトやアイスクリームを手早く選ぶ。会計を済ませると、医療費も含め、今日だけで一万円以上支払っていることに気づく。
寂しくなったSuiceの残高を気にしながら、隣のドラッグストアでうがい薬を買い、トイレで入念にうがいと手指の消毒をする。もし、皇太郎くんが陽性なら、私は濃厚接触者だ。夫に移してはならないので、自室で隔離生活を送らなくてはならない。既に、コロナ感染はめずらしくなく、まだ感染していない人のほうがめずらしいと言われ始めている。だが、いよいよ自分の身に迫ってきたと思うと背筋が冷える。
ドラッグストアに戻り、介護用の使い捨て手袋、フェイスシールドを追加で購入する。皇太郎くんをばい菌扱いするようで心苦しいが、彼が陽性の可能性もある。世話をする私が感染したら、他人に移してしまう。
家に戻り、台所を借りてうどんと玉子を茹でる。冷やしたうどんの上にきゅうりとわかめ、2つに切ったゆで玉子を乗せる。他に、子供用にはツナとコーン、大人には紫蘇とかいわれ大根を散らし、つゆをかける。天かすと葱、山葵はお好みで入れてもらうことにする。
おじいちゃんに持っていくうどんをお盆に乗せたとき、台所の入り口から強い視線を感じた。振り返ると、お義父さんが私を凝視している。
「何か?」
「いや。若い女性が家にいるのはいいなと思ってね」
「はあ……。もう、若くありませんが」
「澪さんが来ると、家が華やぐよ。年寄ばかりの家とは空気が変わる」
「お孫さんたちが来るじゃないですか」
「まあ、そうだね……。うん。これからも、どんどん来てくれたまえ」
「すみませんが、おじいちゃんに持っていってくれませんか。もし、皇太郎くんが陽性なら私は濃厚接触者なので」
私がお盆を渡すと、お父さんは、ばつが悪そうに出ていく。
お義父さんと悠くんのうどんを居間のテーブルに出すと、戻ってきたお義父さんに「一緒に食べないのかい?」と尋ねられる。
「皇太郎くんに食べさせて、お薬を飲ませますから」
買ってきたフェイスシールドと手袋をつけ、マスクをしっかり掛け直し、二階に上がる。
「マヨネーズかけて」
皇太郎くんは、トレイに乗ったうどんを見て開口一番に言う。
「わかった。持ってくるね」
そういえば、コンビニの冷やしうどんにはマヨネーズがついていたことを思い出す。おかかもあったほうがいいかもしれないと買わなかったことを後悔する。
さっき、温かいポカリスウェットを飲ませたので、皇太郎くんは汗をかいている。着替えが見つからないので、背中の汗をタオルでふいてやることしかできない。
皇太郎くんの背中にビーズクッションをあて、カーディガンの代わりに大き目のタオルをかけてやる。タオルケットの上にもタオルを広げ、こぼしてもよい体制を整える。
「こうくん、コロナなの?」
フェイスシールドと手袋をつけた私を見て、皇太郎くんが不安を宿した目で訊ねる。
「まだ、調べた結果が出ないから、わからないの。お熱をやっつけるためにたくさん食べようね」
「のどいたい……」
「食べられないほど?」
皇太郎くんは返事の代わりに、ポケモンのイラストの入った箸を取り、不器用にうどんをすする。
お盆の上に落ちる食べこぼしを拾ったり、口の周囲を拭ってやりながら、距離をとって食事を見守る。
幼稚園では、コロナのことをどう教え、お友達との距離を取らせているのだろうか。このままマスク生活が続けば、お友達や先生の素顔を知らないまま卒園を迎えると思うと不憫になる。
彼がうどんを半分ほど食べたとき、バタバタと階段をのぼってくる音がし、お義母さんが部屋に入ってくる。
「ただいま~。片付けはみんなに任せて、急いで帰ってきたわ。お昼も食べられなかったから、お腹空いちゃってさ。大丈夫、皇太郎?」
お義母さんは私のフェイスシールドに目を留める。
「何その大袈裟な格好。皇太郎が怖がるじゃない」
非難混じりの声で言われ、怒りが突起のように立ち上がる。
「陰性だとわかるまでは、陽性の可能性があるんです。私が感染したら、お義母さんとお義父さん、おじいちゃんに感染させるかもしれないんですよ。結翔さんに感染させたら、担任しているクラスはどうなるんですか」
「そんなこと言ったって」
「皇太郎くんに食後のお薬を飲ませてあげてください。あと、汗をかいたので、着替えさせてあげてください。それから、これがお預かりした母子手帳と保険証、処方されたお薬、医療費の明細、昼食の買い物のレシートです」
お義母さんはざっと目を通した後、スーパーのレシートに目を落とす。
「へえ……、随分かかったのね。澪さん、お買い物下手ね。このスーパーは高いのよ」
立て替えた金額を支払う気がないどころか、買い物を批判され、この場にいたら醜い言い争いをしてしまいそうだった。
「買い物の件は申し訳ございませんでした。私はこれで失礼します。皇太郎くんのコロナ検査の結果は、今日中か明日、お義母さんの携帯にかかってくるようにしました」
「え、帰っちゃうの……?」
「お口に合うかわかりませんが、お義母さんの分の冷やしうどんが冷蔵庫にあります」
持ち物を手に取り、振り返らずに家を出る。
もう土日は家にいたくないと思った。以前いた試験監督専門の人材派遣会社にパートタイムで席を残してある。小山市内で行われる試験で復帰させてもらおうと決めた。
★
帰宅すると、すぐに手洗いとうがいをし、シャワーを浴びる。
ドライヤーで髪を乾かしているとき、結翔くんが帰宅した。
「あれ、この時間に風呂入ったの?」
結翔くんは髪の濡れた私を見て、怪訝そうな顔をする。
マスクをかけ、一定の距離を保ち、結翔くんに告げる。
「話があるの」
「食事に行くんじゃなかったのか……? 楽しみにしてたのに」
「話がしたいの」
「わかった」
結翔くんは私の気迫に圧されたように食卓の椅子に掛ける。
「今日、お義母さんが来て、発熱した皇太郎くんと、ほとんど初対面の悠くんの世話、お義父さんとおじいちゃん含めて4人の昼食を頼まれたの。陽性の可能性のある皇太郎くんを病院に連れて行ったから、これから暫くマスクをかけて距離をとって」
私が今日あったことを弾丸のようにまくしたてると、マスクをした結翔くんは神妙な顔で言う。
「大変だったな。いろいろありがとう」
私が頷くと、結翔くんは訊ねる。
「皇太郎の検査結果は、いつわかる?」
「今日中か明日には、お義母さんの携帯に連絡が来ると思う」
「そうか。絹姉ちゃんとこも大変だな。倭さんも感染してるかもしれないんだもんな」
顎に手を当てて思いを巡らせる結翔くんに、私は決めたことを伝える。
「それでね、私決めたから。土日は試験監督の仕事を入れようと思う。もう、今日みたいに動員されるのは耐えられない。今日だけで一万円以上かかったんだよ」
「それは俺が払う。うちは姉ちゃんたちに子供ができてから、困ったときは互いに協力し合ってきたんだ。俺だって、姉ちゃんたちが忙しいときは、皇太郎や悠を預かって、遊びに連れて行く。俺たちも将来は助けてもらうかもしれないだろ?」
「それは理解できるよ。でも、お金のことは、曖昧にしたくないの。そうすれば、私も気持ちよく手伝えると思う。今日、お義母さんに立替えた分のレシート渡したら、払うどころか、私の買い物が下手だからこんなにかかると言われたんだよ。うどんの具に多少は贅沢したかもしれないけれど、子供の食が進むように工夫したつもり。病院に連れて行ったり、初めてのことばかりで大変な思いをしたのに、感謝の言葉がないどころか文句言われて耐えられなかった」
「おふくろのことは本当にすまない。確かに今までは身内だから互いに甘えてしまったと思う。澪が言うように、お金のことは、きちんとしないといけないな。今度、おふくろと話し合いの機会を作ろう。澪が仕事をする件も、そのときに相談しよう」
「私も同席していいの?」
「もちろん」
「ありがとう。お義母さんと私の板挟みで、大変な思いをさせてしまうと思うけど……」
「俺がいま、一番守らなくてはいけないのは、俺の家族。つまり澪だ」
当然だろという顔をする結翔くんを見て、この人と結婚して本当に良かったと改めて思った。
結翔くんは目元に涼し気な笑みを浮かべて続ける。
「それより、腹減ったんだけど」
「あ、ごめん。すぐに何か作るね」
「昨夜、バナナケーキ作ってくれたよな? とりあえず、腹ふさぎに食う」
「あれは悠くんに出して、残りは母屋に置いてきちゃった」
「まじで……?」
「ある材料でしか作れないけど、何食べたい?」
「冷やし中華かラーメンできる?」
そのとき、チャイムの音に会話を中断された。
「紬さん!?」
モニターにはスーツ姿の紬さんがケーキの箱を持って映っている。
「お、紬姉ちゃん。お疲れ。上がれば?」
紬さんは結翔くんを無視して私に言う。
「澪さん、今日は本当にありがとう。悠から聞きました。おやつもお昼もいただいたらしいわね。お手数をお掛けして、本当にごめんなさい。これ、せめてものお礼です」
「ご丁寧にありがとうございます。悠くんとはあまりお話できなくて、十分なことができなくてすみません」
「悠がバナナケーキを気に入って、たくさんいただいちゃいました。私も一切れいただきましたがとても美味しかったです。今度レシピを教えてください」
「あはは、ゴパンで作りました」
「そうなの? うちもゴパン、買おうかしら」
紬さんは私から結翔くんに視線を移す。
「結翔、澪さんが嫌な思いをしないように、気を付けてあげてね。私も悠を主人の実家に預けて、同居してるお義姉さんに迷惑かけてるから、できるだけの御礼をしているの。助けてもらうのはやむを得ないかもしれないけれど、感謝を忘れないようにお母さんに言ってね」
「わかってる……。俺ももっと気を付けないといけない」
私は万感の思いを込めて、紬さんに頭を下げる。目が合うと、彼女はいたずらっぽくウインクする。
紬さんが帰ると、初めて報われた思いが湧いてきた。願わくは、絹さんが医療費だけでも支払いに来てくれることだった。
夕食のために、かれいを煮魚にしようと冷蔵庫から出したとき、私のスマホが振動する。お義母さんからだった。
「澪さん、あたしよ」
「お疲れ様です」
昼間は冷淡な態度で出てきてしまったので、多少の気まずさを抱えながら応答する。
「あのね、さっき病院から連絡があったんだけど、皇太郎が陽性だって」
全身から、すとんと血の気が引く。皇太郎くんの汗ばんだ手の感触、赤い頬でせき込む顔が生々しく甦る。
濡れた髪を拭きながらリビングに入ってきた結翔くんが、硬直する私を見て、電話の内容を察したかのように険しい顔になる。