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連載小説「クラリセージの調べ」4-3

 スクリーンのなかで、上品な身なりの英国人の男女が、モーツァルトの音楽に合わせて優雅に踊る。アロマディフューザーから流れるベルガモットの香りが、華やぎを添える。
 
 映画は非日常にトリップさせてくれる。会社員時代は、週末に自室でアロマを楽しみながら、映画を見るのが好きだった。だが、結婚してから、そんな贅沢な時間を持つことはなかった。

 帰省した際の母の言葉を思い返しているうち、子供を授からないと自分の存在価値がないと日々思い詰めたことが、自分を追い込んでいたと気づいた。これでは身がもたず、結翔くんも気詰まりだと思い、週に一度は自分を労わる時間を持つことにした。映画はその一つだ。

 結翔くん、皇太郎くんと三人で出かけ、気持ちが楽になったことも手伝い、二回目の人工授精は気負いなく臨めた。高温期を安定させるために、生理三日目から排卵誘発剤を服用したことも、気持ちに余裕を与えてくれた。その後は、身体を大切にすることは心がけているが、過剰に結果を祈ることはやめた。

 お気に入りの黒豆茶を淹れようとしたとき、めずらしくチャイムが鳴る。平日の昼間に尋ねてくるのは、お義母さんか新聞の集金だろうとモニターを覗くと、お義父さんが映っている。

「お義父さん、どうしました?」

 受話器越しに尋ねると、お義父さんは持っている紙袋を掲げる。
「美味しいせんべいをもらったから、お裾分けだ」

「ありがとうございます……」

 ドアを開けると、お義父さんは玄関にぬっと入ってきて、おせんべいの袋を突き出す。

「坂角総本舗のゆかりじゃないですか。東京にいるとき、よく買いました」
 会社員時代、取引先への手土産の定番だったので、見慣れた袋のデザインに心が和む。

「これで、お茶でも飲まないかい?」

 断る言い訳を考えるが、お義父さんが納得し、角が立たないものを咄嗟に思いつけない自分を呪う。 

「散らかっていますが、どうぞ……」

 お義父さんをリビングに通し、黒豆茶を淹れているあいだ、背中に強い視線を感じる。 

「澪さん、あなたに平山ひらやまという親戚はいないかい?」

 振り返って見た義父の目には、何かを希求するような鋭い光が宿っている。

「いないと思いますが……」

「そうかい。あなたによく似た人を知っているから、もしやと思ってね」
 
「残念ながら」

「いや、いいんだ。忘れてくれたまえ」

 ゆかりに黒豆茶を添えて出し、リビングのソファに義父と向かい合わせに座る。陽光が注ぐリビングにいる義父は、水気のない皮膚、白髪をオールバックにしても地肌の目立つ頭頂部が露わになり、普段より老いて見える。

「おじいちゃん、最近どうですか?」

「まだらボケって言うのかね。ボケているかと思えば、驚くほどしっかりすることもあるよ」
 黄色く変色した前歯がにっとのぞき、口臭がかすかに漂う。

「その日によって違うんですよね。私の曾祖母もそうでした。介護保険の審査が、たまたま良い日に当たってしまい、軽く評価されてしまったことがありました」

「ははは、どっちがいいのかわかんないね」

「おじいちゃんのお加減のいいときに、お話させていただいても宜しいでしょうか?」

「もちろんだよ。いつでも、大歓迎。昔話をするときはえらく威勢がいいよ」

 もともと、それほど会話のネタがないので、私は気まずさを埋めるように「いただきます」とゆかりに手を伸ばす。

 義父は「この家は、いい匂いがするね」とアロマディフューザーに目を遣る。その視線は、テーブルに開きっぱなしのノートパソコンに移る。

「映画を観ていたのかい?」

「ええ……」
 昼間からいいご身分だと言われないかと身構えてしまう。

「何を観ていたんだい?」

「『Becoming Jane  ジェイン・オースティン 秘められた恋』です」

「ああ、見たことあるよ。私は、若い時に駆け落ちしたけれど結ばれなかったジェインとルフロイが、年齢を重ねてから再会するラストが好きだね。あ、ネタバレしちゃったね」

「大丈夫です。再会した二人に何が起こるのですか?」

「ジェインは、ルフロイが娘にジェインと名付けたことを知るんだ……」

 義父はしばし虚空を見据え、昔話を語るように続ける。
「私はね、娘二人の名前は母さんにつけさせた。けれど、息子が生まれた時は私がつけた。実は私も、息子に昔愛した女性の名前を一文字いただいたんだ。誰にも内緒だよ。当の結翔も知らない」

 そんなことを私に言って、どうしようと言うのか……。知りたくもない秘密を共有させられたことに戸惑いと怒りが湧いてくる。

「私と澪さんの秘密だよ」
 吸いつくような視線が飛んできて、全身が粟立つ。彼の意図がわからず、これ以上関わりたくないと思った。

「すみません、クリニックに行く時間が近いので……」

 義父の白髪混じりの長い眉毛が、怪訝そうに上がるが、私は視線をそらさずに見返す。

「ああ、そうかい。そういえば、今日はじいさんにも往診が来る日だった。ははは、今日は医者日和だね」

 義父は皮肉のこもった笑みとともに、ソファから立ち上がる。

 気まずさを抱えて玄関まで送ると、義父が私を振り返る。その目に、見たことのないやわらかさが宿っていることに困惑する。

「澪さん、またこうして話をしよう。今度は私の好きな映画を持ってくるよ」

 咄嗟に防衛反応が働き、訪問を習慣にされないよう釘を刺す。
「私が母屋に伺います。おじいちゃんともお話したいです」


               ★
 土曜日のファミリーレストランで、先日のお義父さんの訪問と、今までの気味悪い言動のことを相談すると、瑠璃子とすずくんは親身になって助言してくれる。

「そのお義父さん、キモイよ……。すーちゃん、絶対二人になるのを避けたほうがいい」

「あの息子さんがねえ……。ご主人に相談するのは難しい内容だし、聞き流しておけばいいんじゃない。岩崎の言うように、二人にならないほうがいいな」

「ありがとう。やっぱり、おかしいよね。私の考えすぎかと思ったけど……」
 安堵した私は、すっかり冷めてしまったドリンクバーのハーブティーを口に運ぶ。
「二人に聞いてもらってよかった。夫にも、両親にも話せなかったから」

 瑠璃子が驚いたように尋ねる。
「今まで、結翔に相談したことなかったの?」

「何かされたわけではないし、説明が難しくて……。彼は、お父さんをすごく尊敬しているから、下手に悪口言ったら、築いてきた関係が壊れてしまう気がするから」

「視線がいやらしいとか、スキンシップが気持ち悪いとかは個人の感じ方だと言われればそれまでだよな。でも、すーちゃんが気持ち悪いと思っているなら、それは問題じゃないかな。一度もご主人に相談したことないの?」

「相談というか……。お風呂掃除をしているとき、お義父さんが窓からぬっと顔を出したことがあったから、気持ち悪くて窓に目隠しシートを張ったの。そのことを夫に話したら、『親父がのぞくって言うのか?』と厳しい声で言われて空気がぴりっとした。私が初めて不妊治療のクリニックに行った日だったから、神経質になっているんじゃないかと言われちゃった。そういうわけで、お父さんの悪口は地雷原だと学習したよ」

「あー、何で男ってファザコンが多いのかねえ。嫌だ嫌だ」
 瑠璃子がすずくんに視線を投げ、露骨に顔をしかめる。

「何で俺の話になるんだよ。いまは、すーちゃんの話しだろ」
 すずくんはコーヒーカップを脇に押しやり、手を前で組むと、私に視線を据える。
「すーちゃん、もしこれからお義父さんと二人になるときは、スマホの録音機能をオンにしておくといい。それから、部屋に録音機能付きの監視カメラをつけることをお勧めする。今は、小型で性能良いのが5000円程度で手に入る。まあ、まずは絶対に二人にならないようにして、それが無駄な買い物になることが一番だよな」

 すずくんは、固くなった空気を和らげるように、優しく微笑む。

 身内を監視することに戸惑いはあるが、真摯に助言してくれるすずくんの眼差しを見ると、それくらいの備えは必要だと思えてくる。

「それがいいと思う。証拠があれば、いくらファザコン結翔でも、認めないわけにはいかないよね。お義父さんも、呆けてたから覚えてないと言って、ごまかすことはできないし」

「あ、認知症の人が、抑制が効かなくなって、性的逸脱行動に出ることはよくあるんだ。認知症がでている可能性は?」

「それはないと思う。至ってまとも」

「俺もあのお義父さんが呆けてるとは思えない。どちらにせよ、証拠は残しておいたほうがいいな」

「そうだね。確かに、動画と録音があれば、結翔くんも話を聞いてくれると思う」

「その前に、すーちゃんが傷つけられないことが一番だよ。危ないと思ったら、迷わずあの家を出て、実家に避難するか、うちに来てもいいよ」

「ありがとう、心強いよ。二人に話したら気が楽になった。あ、二人を信用して相談したから、絶対他言しないでね」

 当然だと頷く二人を見て、勇気を出して相談して本当に良かったと思った。いつの間にか、休日の昼下がりのおしゃべりを楽しんでいた主婦や学生がいなくなり、束の間の静けさが店内を包む。

 西日を遮るために、隣席のブラインドを下ろしに来た店員が去るのを待って訊ねる。

「瑠璃子、フサちゃん先生と葉瑠ちゃんと三人で、東京にアナ雪を観に行ったんでしょう。どうだった?」

 瑠璃子は微妙な表情で、アイスコーヒーのグラスをストローでかき回す。氷がからからと心地よい音を立てる。
「葉瑠はずっと楽しそうで、フサちゃんとも話が盛り上がってた。私もそれなりに楽しかったよ」

「だったら、何でそんな浮かない顔してるの?」

「何て言うか……。彼、地元ではお洒落に見えたけど、都内のスタイリッシュな場所で見るとあか抜けないんだよね……。この冴えない男と連れ添うと思うと、気分が萎えた」

「面倒くさい女だなあ、何様だよ」

「フサちゃん先生、診察室ではあか抜けて見えるよ。お洒落で上質な靴を履いてるよね」

「それ、私が一緒に選んだ。彼の服も靴も、ださかったから、私が選んだのを身に着けてもらってるの」

「それなら、都内でも映える服を瑠璃子が選べばいいんじゃない?」

「服じゃないんだよ! 雰囲気とか、言葉とか、考えとか、地元生まれ地元育ちオーラが漂ってるんだよ。あの人、大学もJ医大で、県内から出て暮らしたことないんだよ。時々、視野が狭いのが嫌になる」

 すずくんは小さく溜息を吐き、諭すような口調で切り出す。
「岩崎、前にこの辺りの人間は視野が狭くて、多様性を尊重できないのが嫌だと言ったよな? でも、岩崎も自分の考えが一番優れていると思ってて、他の人のそれを蔑んでいないか? 俺は、そういう母親の姿勢が、娘さんに与える影響が心配になる」

 彼の指摘は言い得て妙だ。だが、唇をへの字にし、不機嫌を露わにする瑠璃子を見ると口を開けなくなる。

「ごめん、言い方悪かったな。俺も、年輩の方の凝り固まった考えに閉口することがあるから人のことは言えない。でも、自分も相手に考えを押し付け過ぎていないかは、常に考えるようにしてるよ」

 フォローを忘れないすずくんに、険しかった瑠璃子の表情が緩む。
「確かにすずの言うことは一理ある……。私が経験に基づいていまの価値観を形成したように、葉瑠にも自分で考えられる人になってほしい」

 瑠璃子は一言一言を噛みしめるように続ける。
「最近思うんだよね……。私のエゴで、フサちゃんを気に入っている葉瑠の気持ちを踏みにじる選択をするのは違うって……。私は親だから、少なくとも彼女が成人するまでは、その人生に責任があるから」

 瑠璃子の目尻はかすかに下がり、瞳に優しい光が宿っている。母親の顔だと思った。彼女は最終的に、娘の幸せを一番に考える予感がする。子供が母親にもたらす計り知れない力を意識させられ、それを手に入れた数多の女に嫉妬を覚える。

「すずは、いつまで、いまのクリニックに勤めるの?」

「今の仕事で学ぶことは多いし、居心地もいい。けど、だからこそ、今のままではいけないという焦りもある……」

 すずくんは、カップに残ったコーヒーを飲み干してから話し出す。
「訪問診療の患者さんは年輩の方がほとんどだから、終末期からお看取りまで担当することが多い。彼らのなかに、自分の人生を振り返って、十分生きたから思い残すことはないと達観した表情で言う人がいる。それを見ると、いまの俺では、こういう最後は迎えられないだろうと思う。まだ若いのに死が近い患者さんが、もしも病気が治ったら、こういうことをやりたいと訴えるのに向き合うと、健康な体があるのに、やりたいことに踏み出せない自分が後ろめたくて、苦しくなる……」

 眉間のしわを深くするすずくんを見ていると、彼が前に進むために越えなくてはならない山が見えてくる。

「すずくん、差し出がましいかもしれないけど、お父さんと腹を割って話したほうがいいと思う。理解してもらえれば自信になるだろうし、そうでなければ自分の道を行く覚悟ができるんじゃない? ごめんね、余計なこと言って……。今のままでは、いつまでも苦しんでいる気がして心配になるの」

「確かに、ファザコンすずには、お父さんの反応が分岐点になるかもね。退路を断たないと、うじうじ同じところで足踏みしてる気がする」

 すずくんの整ったマスクに、傷ついたような笑みが浮かぶ。
「二人とも、ガツンとくるな……。まあ、確かに、親父とけりをつけないと腹を括れないかもな」

「もし、お父さんが受け入れてくれたら、実家の病院でずっと働くの? それこそ、お父さんに服従して、すずのやりたいことを諦めることにならない? ゲイをカミングアウトして、精神科医として同性愛者の患者さんを診るとか、泌尿器科医として性転換手術に関わるほうが、すずの個性を生かせると思う。すずしかできないことをするほうが、人間としても、ドクターとしても格好いいよ」

 三人とも、他人へのアドバイスは切れるのに、自分が囚われているものから自由になれないのが滑稽に映る。