連載小説「クラリセージの調べ」5-2
日が長くなると、庭仕事が進む。若々しい雑草を引き抜きながら、亡き飼い犬ナナと散歩した少女時代を思い出す。ナナは生え始めた草の匂いを嗅ぎ、もしゃもしゃと食んでいた。五感で春を堪能していたのかと思い返しながら、ジョウロで紫蘇に水をやる。もう少し育ったら、冷やしうどんの具に使える。夫はうどんや蕎麦に、紫蘇と葱、茗荷をたっぷり入れる。今年は葱と茗荷も育ててみよう。
こうして、夫との将来を描いている自分に気付く。
裕美のことは、治りきらないささくれのように、ひっかかり続ける。だが、夫も敢えて明るく振舞い、今迄以上に義母や義姉を遠ざけ、関係修復に努めているのが痛いほどわかる。義父の言動は相変わらず気味悪いが、今のところあからさまな行動はない。監視カメラを設置してあるので、何かあれば証拠として突きつけられるのが安心材料になっている。
こうした要素が積み重なり、私も修復に向け、気持ちを育てている。
子供に思い入れの強い夫を思うと、子供ができれば、今より絆の強い家族になれる予感がする。フサちゃん先生に体外受精を提案されたこと、おじいちゃんの認知症が進行していることも、治療を前向きに考えなければという感情を呼び起こす。看護師資格の取得が遅くなるのは残念だが、授かって、落ち着いたら、子供を実家に預けて専門学校に通える。経験者の瑠璃子にLINEで相談すると、どうにかなると背中を押してくれた。展望が開けると、早く治療をし、人生を前に進めなくてはという思いが湧いてくる。
空を見上げると、群青色の海原に金色のレモンがぽっかり浮かび、宝石の粒が散らばっている。聞きなれたアウトランダーのエンジン音が聞こえ、ヘッドライトの光が揺れる。
夫と食卓を囲むと、肌に馴染んだ空気が流れる。夫とは、連休明けの慌ただしさで、ゆっくり話す時間を持てていない。だが、今日は、いつもより険しい顔をしていないので、切り出してよい気がした。
「結翔くん、少し話をしてもいいかな?」
夫の目元がぴくりと引きつったが、すぐに涼し気な眼差しが向けられる。
「うん。ここのところ、忙しくて愛想悪くてごめんな」
「ううん。気にしないで」
私は向かい合わせに座り、木製のスプーンを手にする。
「お腹空いたでしょ。食べながら話そ」
彼がトマトケチャップをオムライスにかけるのを見ながら、重々しくならないように切り出す。
「花房先生に、大学病院に転院して、体外受精にステップアップしないかと提案されたの。結翔くんはどう思う?」
夫はスプーンを持ったまま目を見開く。
「いいじゃないか、大賛成だよ。じいちゃんのボケの進行もあるし、すぐにでもやろう」
彼の声は夜空に抜けるように軽やかで澄んでいる。
私を見つめる曇りのない瞳に後ろめたさを覚え、視線が落ちていく。
「新患の受付は週二回、午前中しかないんだよ。それに、採卵日は麻酔をかけられるから、自分で車を運転して帰れない。電車とバス、タクシーを乗り継いで帰らなくちゃならない。もし、気分が悪くなったら、迎えにきてもらうことになるかも……。いろいろ、迷惑かけるけど大丈夫?」
彼の顔いっぱいに柚子がしゅっと弾けるような笑みが広がる。
「なんだ、そんなこと気にしてたのか。事前に言ってもらえれば、都合をつける。精子を取る時間も全面的に協力する。車を出せるときは送迎するし、必要なときは遠慮せずにタクシーを使え。もちろん、金は俺が出す」
屈託のない明るさに、この人は純粋に子供を待ち望んでいるのだと思った。オムライスを美味しそうに頬張る夫を横目に、山積する懸念を封印し、いまは治療に取り組むべきだと気持ちが傾いていく。
「なあ、転院を機会に、おふくろに払ってもらってる治療代を俺たちで払うことにしないか?」
「え、嬉しいけど……、体外受精は人工授精よりずっとお金かかるんだよ」
「構わない。俺たちの子供のことだろう」
私が口を開くより先に、夫はさらに提案を重ねる。
「それから、もしうまくいかなかったとき、澪は治療を頑張ったご褒美に好きなことをするのはどうだ?」
「え?」
「例えば、治療中は焚けない香りを楽しむとか。あの紫蘇みたいなアロマも、好きなのに封印してるんだろ。あと、二人で出かけるのもいいんじゃないか? コロナも落ち着いてきたし、新婚旅行の代わりに遠出するのも悪くない。子供ができたら、旅行なんて難しいだろ。落ち込んで自分を責めるんじゃなくて、ご褒美も考えないと、もたないぞ」
彼にしては気の利いた提案が続き、女の勘が作動する。
「ねえ、それ、結翔くんが考えてくれたの?」
彼の目に苛立ちが浮かんだが、次の瞬間、かすかに視線が泳いだのを見逃さなかった。口に出してしまったら、せっかく修復した関係を壊してしまうと思ったが、見過ごすことなどできない。
「もしかして、裕美さんのアドバイス?」
「何でそうなるんだよ……」
彼は眉間を寄せて反論したが、言葉に力がなく、語尾が萎んでいく。
「言ったよね。もう、彼女に会うのも連絡とるのも止めてほしい、二人で話し合って問題を解決したいって!」
「これは、その前にアドバイスされたことだ。澪との関係を一番大切に思っているから、もう連絡を取っていない。信じないなら、俺のスマホを見ればいい」
「結翔くんを信用したいから、そういうことはしない。でも、彼女のアドバイスは一切口にしないで! 二人で寝ていると信じていたベッドに三人で寝ていたみたいで、すごく不愉快!」
「悪かった……。だけど、彼女の助言があったから、俺は澪を守ってこられた。俺は女性の気持ちがわからない無骨な男だから、そんな俺を良く知る彼女に聞くしかなかった。彼女は俺たちの幸せを願ってアドバイスしてくれてる。相談できなくなると、もっと澪を苛立たせて、俺たちはダメになってしまうかもしれないんだ」
ここまで来ても彼女との関係を維持したがることに、絶望的な気分になる。だが、ここで感情的になれば、醜い言い争いになるのは火を見るより明らかなので、残っている理性をかき集めて言葉を紡ぐ。
「ありのままの結翔くんで、私と向き合ってくれればいいんだよ」
「それだと、俺は澪の癇に障ることを言ってしまうだろ。正直、俺は治療がうまくいかなくて激しく落ち込む澪に、どう接したらいいかわからないんだよ。何をしても、何を言っても、気に障るだろ」
激しい浮き沈みを繰り返した日々を批判めいた言葉で要約され、屈辱と悲しみが全身を駆け巡る。だが、自分の身体で体験していないので、同じに受け止められない彼の気持ちを考え、深呼吸して沸騰しそうな感情を鎮める。
「それでも、元カノに差し出されたものを受け取るより、ずっとまし。もし、私が元カレに夫婦関係の相談をしていて、そのアドバイスを家庭に持ち込んでいたらどう思う?」
「すごく不愉快で、バカにされた気分になる……」
「そうでしょう? 私も同じ気持ち」
彼はバツが悪そうに項垂れる。
「すまなかった……」
「わかってくれればいいの。あとで、初診の日時を考えよう」
★
診察シーンは一例で、実在する医療機関とは一切関係ありません。治療については、専門医にご相談下さい。
慣れない大学病院で気が張っていたが、診察室でフサちゃん先生の顔を見るとほっとする。彼は見慣れたケーシー白衣ではなく、紺色のスクラブの上に白衣を羽織っている。
「市川さん、遠いところ、ありがとうございます。ご主人も、お仕事を休んでいただいたのですね」
「はい、半休を取りました」
夫は緊張気味に背筋を伸ばして答える。
フサちゃん先生は、腕時計に視線を投げる。
「そうですか。では、できるだけ時間を取らないように進めましょう」
先生は、自身で書いた紹介状や検査結果にさっと目を通してから続ける。
「市川さんの今後の治療ですが、クリニックで相談した通り、体外受精にステップアップで宜しいでしょうか?」
「はい、宜しくお願いします」
「わかりました。まず、体外受精の説明会があるので、それに予約してください。それから、ご夫妻とも、当院で必要な検査を受けていただきます」
夫がかすかに身を乗り出して尋ねる。
「あの、妻は既にクリニックでいろいろ検査してますよね。私も何度か精液を提出して、人工授精ができています。率直に言って、私たちに子供ができない理由は何ですか?」
フサちゃん先生は夫と私の顔を順に見てから答える。
「実際のところ、決定的な原因はわからないのです」
「それなら、なぜできないのですか?」
詰め寄る夫をなだめつつ、自分も心中で何度発したかわからない問いだと思った。
「ご夫婦で一通り検査をしても、原因が見つからない機能性不妊、つまり原因不明不妊は全体の15%程度いらっしゃいます」
「私たちは、それに該当してしまったんですか……」
先生は肯定も否定もせず、思慮深い眼差しで続ける。
「体外受精は、不妊に悩む多くのご夫婦に有効です」
「わかりました。妻の通院や身体の負担が増えてしまうので、私もできる限り協力したいと思います。私は何をしたら良いのでしょうか?」
「奥様はこれまでの経緯と、卵巣予備能検査(AMH)の結果から、体外受精の適応になることがわかっています。ご主人も、当院の泌尿器科で一通りの検査を受けてください。そして、体外受精を実施することになった場合、奥様の採卵日にご主人の精液を提出していただきます」
先生はイラストを指さしながら説明を始める。
「体外受精をする場合、奥様の月経周期やAMH値、通院の負担を考慮し、採卵前の卵巣刺激は通院回数が少なくて済むPPOS法でいきます。
まず、生理3日目に受診していただき、血液検査でホルモン値を測ります。その日から、受精卵が着床しやすいよう子宮内膜を整える黄体ホルモン(プロゲステロン)の服用と、排卵誘発剤の自己注射を続けていただきます。生理開始から10日目あたりに来ていただいて、卵胞の数や大きさを診せていただきます。その後、数日以内にもう一度診せていただき、採卵日を決めます。採卵予定時刻の35時間ほど前に、卵胞を成熟させる点鼻薬を入れて、採卵に備えます」
「その卵胞に、私の精子をふりかけるのですよね?」
「そうです。当院で、運動性の良い精子を抽出してふりかけます。そして受精した受精卵たち、つまり胚たちの中から、状態の良いものを選んで、すべて凍結します。その胚を次の生理周期以降、融解して移植します。奥様が40歳以下なので、子供一人あたり6回まで移植できます」
説明を続けようとする先生を遮り、夫が口を挟む。
「ちょっと待って下さい。その胚をすぐに移植してもらうことはできないんですか?」
「できません。PPOS法では、卵胞を育てる時期に、黄体ホルモンを服用して排卵を防ぐので、子宮内膜が着床に適さない状態です。
この方法は、新鮮胚移植はできませんが、黄体ホルモン剤を安く抑えられ、奥様の通院回数を少なくでき、卵巣過剰刺激症候群になるリスクを下げられます」
「そうですか……」
先生は意気消沈した夫に穏やかな眼差しを向けて言い添える。
「現在は技術が発達し、胚の凍結や融解によるダメージがほとんどなくなったので、妊娠率が高くて安全な胚凍結保存が主流になりました。当院でも基本的には凍結融解胚を移植しています」
「わかりました。思ったより、時間かかるんですね」
投げやりな口調に夫の焦りと失望がにじみ、胸に突き刺さる。
「ご主人、焦らないでくださいね。不妊治療はただでさえ奥様の心身に多大な負担をかけるのですから、ストレスを与えると妊娠が遠のいてしまいますよ」
フサちゃん先生は、感謝の眼差しを送る私と目を合わせ、小さく頷く。