連鎖 3-(2)
どれくらい、そうしていただろうか。
凪が、いいかげん帰らなければと重い腰を上げようとすると、音楽室から香川が奏でるピアノが聴こえてきた。
合奏指導をするために、彼がピアノで旋律を弾いてみせることはあったが、彼の授業を受けたことはないので、本格的に弾くのを聴いたことがない。凪は彼の性格からして、教科書のように正確で、自信に溢れた演奏をするのだろうと思った。
香川は指慣らしを終えると、ゆったりとしたスピードで、リスト「愛の夢」第3番変イ長調を奏で始めた。
凪は思わず立ち上がった。5歳からピアノを習っている凪は、生演奏やCDで演奏をたくさん聴いてきたので、良い演奏には敏感に反応する。彼の演奏は技巧といい表現といい、音楽教諭にしておくには勿体無いレベルだった。ピアノの調律が十分でないのが何とも残念だった。
凪はこの曲の甘さが鼻につき、誰の演奏を聞いても好きになれなかった。だが、彼の演奏は不思議と心のひだまで染み込んでくる。乾いた男性的な音色に、燃やしきれなかった情熱を思わせるような物悲しさが漂い、胸を締めつけられた。
次に弾き始めたのはリスト編曲「ラ・カンパネラ」。重なっていく音で、広がっていく鐘の響きが立体的に表現されていく。彼の曲の理解は、構造、細部ともに緻密で、描きたい絵が彼のなかで定まっているかのようだった。リズムを刻む高音が不思議と鼻につかず、トリルも息を飲むほど美しい。リスト特有の超絶技巧が流れるように弾きこなされ、気品と愛らしさの漂う鐘の音が響き続けた。
凪は、通っているピアノ教室に、超絶技巧を自慢するかのようにこの曲を弾く人がいたのを思い出した。香川の演奏では、超絶技巧は表現の一部として完全に曲に溶け込んでいる。その音色には、燻っている情熱がほとばしるような烈しさもあった。
凪は貪るように耳を傾けながら、こんな演奏をする彼がどんな人生を歩んできたのかと思いを馳せずにいられなかった。
案外、淋しい人なのかもしれない……。そう思うと、完璧で近づき難い人と決めつけ、無意識に築いてきた壁が取り払われるような気がした。
凪は誘われるように、部室と音楽室をつなぐドアを開け、音楽室に入っていってしまった。
「まだ、帰っていなかったのか?」香川は椅子から立ち上がって、案ずるように尋ねた。
凪は「少しだけ、聴かせて下さい」とピアノの前の席に座った。
「リクエストは?」
「今、かなりへこんでます」
「そのようだな」香川は銀縁眼鏡の奥から気遣わしげに凪を見た。
「元気が出る曲をお願いします」
香川は頷いてピアノに向かい、豊かなバリトンで弾き歌い始めた。
凪は空気を震わせる歌声と曲が持つ鼓舞するような力強さに圧倒され、気持ちを引き上げられた。古典的な香りがする歌詞は、安定感のある香川の声によく合った。
凪は立ち上がって拍手を送り、曲名を尋ねた。
「The Impossible Dream(見果てぬ夢)。『ラ・マンチャの男』というミュージカルに出てくる。カトリックを冒涜した罪で牢獄に入れられた作家のセルバンテスは、牢獄で宗教裁判を待っている。牢獄で囚人に身ぐるみ剥がれそうになった彼は、持っていた脚本を守るために、囚人に即興劇を演じさせて、自分の人生への向き合い方を語る。囚人たちはだんだん彼の思いに動かされ、最後は見果てぬ夢を合唱しながら、宗教裁判に挑む彼を送り出す」
「そのミュージカル、聞いたことあります。松本幸四郎が主演している作品ですよね?」
香川は肯いた。
「そこに、私の好きな台詞があるんだ。『一番憎むべき狂気とは、あるがままの人生に折り合いをつけてしまって、あるべき姿のために戦わないことだ』 いい言葉だろ? 俺は自分を見失いそうになるたびに、この言葉を思い出し、この歌を口ずさみながら自分を奮い立たせてきた」
心が折れた凪に、香川の言葉は響かなかった。
自分だって、あるべき姿のために戦ってきた。第1を吹いても先輩に文句を言わせない実力がほしくて練習してきたのに、どうしても敵わない。さぼっている先輩に実力があり、限界まで頑張っている自分が上達しないのがやりきれない。
今の自分は、部活に出ることさえも怖いところまで追い込まれ、練習どころではない。これ以上、どう戦えばいいかわからない……。
「先生みたいに完璧で、自分に自信を持てる人には、似合う言葉だと思います……」卑屈になった凪は吐き捨てるように言った。
「私は戦っても報われません! 練習しても練習しても、先輩のように上手く吹けないし。私は第一を吹いても先輩に文句を言わせないくらい上手くなりたいんです……!」
本音が迸るように溢れ出し、鼻の奥がつんと熱くなった。
香川はそんな凪を見つめ、ぽつりと言った。
「橘は私を誤解してる。私の人生は才能のなさに苛立ったり、挫折したりの繰り返しだった。一言で言えばコンプレックスの固まりだ。何かある度に、この歌に励まされているんだ……」
彼の声は力なく、置き去りにされた少年のような寂寥感を漂わせていた。勢いで本音をぶつけてしまったことに罪悪感を覚えた凪は、取り繕うように尋ねた
「あの、どんなとき、励まされたのですか……?」
「この曲との出会いから話さなくちゃな。聞きたいか?」
凪は頷いた。こんなところを見られたら、太田一派を激怒させることが脳裏をかすめたが、好奇心には勝てなかった。