連載小説「クラリセージの調べ」3-1
2週間後にようやく予約が取れた不妊治療外来は、待合室のソファが埋まるほど混みあっている。掛けている患者は、20代から40代くらいまで幅があるように映る。カップルで来院している患者もちらほら見られ、女性を座らせて男性が立っている二人も目に付く。
私はネットでダウンロードして記入してきた問診票を受付に出すと、邪魔にならない壁際に立つ。持ってきた翻訳小説の文庫本を開くが、受付、診察室、検査室、処置室がマイクで競い合うように患者番号を呼ぶので、聞き漏らさないようにしていると集中できない。
文庫本の文字を目で追いながら、義母と対峙した週末を思い出す。あのとき結翔くんは、実の母親を前に、全面的に私の側に立ってくれた。彼に深く感謝しながらも、その胸中を思うと、申し訳ない気持ちが溢れた。今となると、なぜ彼は、そこまで私を守ってくれたのかと不思議になる。私たちは大恋愛で一緒になったわけではなく、そこまでの絆を確立するほど年月を経ていない。にも関わらず、彼は常に私の意思を優先させようと力を尽くしてくれる。彼の中に、この結婚を守ろうとする堅固な意志が働いているように思え、その背後に何かある気がしてならない。
そんなことを考えているうち、自分の番号が呼ばれ、現実に引き戻される。入室すると、花房医師は私が記入した問診票と持参した半年分の基礎体温表に目を落としている。
私は背筋を伸ばして椅子に掛け、きょろきょろし過ぎない程度に診察室を見回す。
秋のやわらかい陽がブラインドの隙間から注ぎ、リノリウムの床にボーダー模様をつくっている。診察室の壁や床は清潔感のある白だが、ドアや机は木のぬくもりを感じさせるこげ茶色で、冷たくなりがちな色彩を中和している。木製の掛け時計は外国製だろうか。
心が和むよう工夫された診察室だが、これから待っている内診を思うと緊張で身体が板のように強張っていく。心臓は息苦しいほどに早鐘を打っている。
「市川さんですね。花房雅臣です」
書類から目を上げた花房医師は、私に小さな顔を向ける。くっきりした眉、濃い睫毛に縁どられたアーモンド形の瞳が印象的だ。マスクの下にはかわいい系の顔立ちが隠れていそうだが、目元や肌のたるみから、自分より少し年上だろうと推測する。
「宜しくお願いします」
花房医師は「宜しく」と小さく頭を下げると、問診票を見て尋ねる。
「ご本人もご主人も34歳。できるだけ早く、お子さんがほしいということですね?」
医師は自由記述欄の「可能な限り早く妊娠を希望」という文字に赤ペンでアンダーラインを引く。
「はい。個人的なことで恐縮ですが、義祖父の認知能力がしっかりしているうちに、孫を見せたいのです。できることは何でもしたいので、宜しくお願いします」
「そうですか。半年間も毎日基礎体温表をつけて、タイミング法を試してきたのですね。真摯に取り組んできたのがわかります」
「はい。妊活アプリで排卵日を予測して、その辺りはできるだけ試してきたのですが……」
「なるほど。基礎体温表を拝見した限りでは、低温期と高温期が出ていますね。生理は28日周期」
「はい。あの、私、10年ほどピルを飲んでいたのですが、それは授かれないことと関係ありますか?」
「いえ、ピルで妊娠しにくくなることはありません」
花房医師は安堵する私に目元を緩め、優しくたたみかける。
「では、最初なので、膣、子宮や卵巣の状態を見せていただけますか」
「はい、宜しくお願いします」
若い看護師に案内され、扉の向こうの診察室に移る。下を脱いで内診台に座るよう指示され、がちがちに緊張しながらスカートとストッキング、ショーツを手早く脱ぐ。家を出る直前に陰部を洗い、それからトイレに行っていないが、においが残っていないか気になってしまう。この瞬間ほど憂鬱なことはない。ピルを処方してもらっていたときの医師は女性だったが、それでも嫌だった。男性医師の前で股を広げる屈辱は耐えがたい。
授かるためだと覚悟を決め、内診台に座る。下半身にタオルをかけてくれる看護師の心遣いがありがたい。背もたれが傾き、椅子が上がり、足受けが開くと、まな板に乗せられた鯉の気分だ。カーテンの向こうで、医師や看護師が器具を準備する気配がうかがえ、心拍が上がっていく。
「市川さん、力を抜いてください。診察させていただきます」
膣が押し広げられる痛み、侵入する指、下腹部で動く指の感覚を耐える。意外にも以前診てもらった医師のときよりも痛くなく、花房医師の技術の高さを感じる。だが、不快なのは変わりなく、早く終わることだけをひたすら願う。気を紛らわすために、今まで、この内診台で、どれだけの女が恥ずかしい部分を見せたのか。いま、この瞬間、世界中でどれだけの女がこの屈辱に耐えているのかと想像してみる。
医師の片方の手が腹部に乗る。
「お腹を軽く押しますが、痛かったら言ってくださいね」
特に痛みは感じず、今日は小山ハーヴェストウォークに寄り、《ハーブガーデン》で柚子の精油を買い足そうと全く関係ないことを考えてやり過ごす。
「超音波の器具が入ります。最初は少し痛いかもしれませんが、頑張ってくださいね。深く呼吸するとリラックスできます」
言われるままに深呼吸を繰り返していると、医師の穏やかな声がする。
「子宮や卵巣の腫れはありませんね」
医師がモニターを指さす。
「ここを見て下さい。排卵が近いようですね。卵胞が成熟してきています」
安堵の息をつくと、「終わりましたよ。お疲れ様でした」と看護師が声をかけてくれる。
診察室に戻り、再び医師と向き合う。解放感が先立ち、陰部を見せた相手と向き合う気まずさは頭から飛んでしまう。
「視診と触診では、子宮や卵巣に大きな問題は見当たりませんでした。この後、採尿と採血をお願いします。検査結果は来週出るので、受付で私の診察を予約してください。ご存じかと思いますが、計画書を作るときは、ご主人にも来院していただくので、ご夫婦で相談しておいてください」
「はい。ありがとうございました。これから、宜しくお願いします」
診察室を出るとき、看護師にマジックで名前の書かれた尿検査の紙コップを渡される。採尿後はトイレの横にある小窓にコップを出し、突き当りの処置室に向かうよう指示を受ける。
処置室では、採血を待つ数人の女性が丸椅子に掛けて待っている。丸椅子に落ち着いて数分後に、長い髪を束ねた小柄な看護師に呼ばれる。
「48番の市川澪さんですね。採血しますので、こちらにお掛けください。アルコール消毒は大丈夫ですか?」
「はい。大丈夫です」
「では、腕をこちらに出してください……。はい、ちくりとしますよ」
駆血帯を巻かれて血管が浮き上がった腕に針が刺さり、自分の血が抜かれていくのを無気力に見つめる。看護師の強い視線を感じた気がしたが、確かめる前に処置が終わる。
「ここを押さえてください……。はい、しばらく押さえておいてくださいね。お疲れ様でした」
看護師に御礼を言い、かごからバッグを取ったとき、彼女にそっと腕をつかまれる。
「すーちゃんでしょ?」
看護師は周囲を気にして小声で囁く。目の前の看護師の顔をまじまじと見つめる。顔半分がマスクで覆われているが間違いない。
「もしかして、瑠璃子……?」
目尻に放射線上に広がる小じわが目につくが、円らな瞳が中学時代の面影を残している。彼女は公家のように気品のある美人で成績優秀、難なく進学高校に進んだ。都内の難関国立大学を卒業して総合商社に入り、外資系コンサルタント会社に勤務する男性と結婚して、都内の高級マンションに住んでいた。
瑠璃子は小さく頷く。名札に記された岩崎は旧姓だ。
「こっちに帰ってきてたんだ」
「うん。よかったら、ここにメールちょうだい」
瑠璃子はメモに携帯のメールアドレスを走り書きし、さっと渡す。
「わかった。近いうちに連絡するね」
瑠璃子は何もなかったように、「待合室でお待ちください」と事務的に告げ、次の患者を呼ぶ。
旧友と再会した興奮と検査が終わった解放感で高揚状態のまま、混み合う待合室に戻る。椅子が埋まっているので、壁際に立ったままスマホをいじっていると、10分も経たないうちに呼ばれ、会計と来週の予約が済んだ。
★
買い物を済ませて帰宅すると、家の前に訪問診療の車が止まっているのが目に入る。ぶつからないように気を付けて車を入れ、荷物を持って車から出ると、医師が母屋からカバンを持って出てくるところだった。庭先で、「お世話になります」と挨拶してすれ違うとき、四角いレンズの眼鏡をかけた医師の顔をちらりと見る。
驚きで心臓が跳ね上がる。長身痩躯、色白の首筋に目立つ大きめのほくろ。間違いない!
「あの、鈴木紳次さんですよね……?」
「はい」
急に声を掛けられた医師は、立ち止まって私の顔を凝視する。
「すーちゃん、鈴木澪さん?」
「当たりです」
彼が私の顔を認識してくれただけではなく、ニックネームとフルネームを覚えていたことが嬉しく、マスクのなかで口角が上がってしまう。
「覚えていてくれて嬉しいです」
「そりゃ、覚えてるよ。クラスに鈴木が2人いて、俺が『すず』で鈴木さんが『すーちゃん』って呼ばれることになったんだから」
このニックネームは結構気に入っていて、会社の同期に鈴木が2人いたときも、私を「すーちゃん」と呼んでもらうことにした。
生徒会長のすずくんは雲の上の人だった。当時は憧れるだけでろくに言葉も交わせなかったが、年月を経て再会したことが自分を大胆にする。
「おじいちゃんのところに訪問診療の先生が来ているのは知ってたけど、まさかすずくんだったとは。お世話になります」
「ここに嫁いだの?」
私が頷くと、彼は「そうか」と相槌を打つ。
一通りの会話が終わると、気まずい沈黙が落ちてくる。
「そうだ、今日、岩崎瑠璃子と再会したの。すずくんにも会えて、中学の同級生に縁のある日でびっくり」
「へえ、岩崎もいるんだ。今度3人で飲もうか?」
「ぜひぜひ!」
すずくんは頷き、「じゃ、また」と車に戻っていく。
興奮冷めやらないまま家に入った私は、彼の連絡先を聞き忘れたことに気づいた。来週の訪問診療は、義両親が留守で私が対応することを思い出し、心が躍る。