連載小説「クラリセージの調べ」4-5
※ 診察の描写は一例です。治療については、専門医にご相談ください。
妊娠判定のために血液検査が必要なので、予約時間の30分前に来院し、瑠璃子に採血してもらった。
二回目の早期妊娠検査薬の陽性線がうっすらとしていたことが、靴の裏にこびりついたガムのように頭から離れない。だが、考えても仕方がないので、持ってきた翻訳小説を開く。不妊治療中の妻に寄り添う夫の目線で書かれている。取り寄せたものの怖くて読めなかったが、陽性が出た今ならと、昨夜から読み進めている。知らなかった男性側の感情を発見するたびに、針で胸を刺されるようにちくりと響く。ページを繰るに連れて開いていく二人の心の距離に胸をしめつけられ、本を閉じたくなったとき、診察室に呼ばれる。
「先生、血液検査の結果はどうでしたか? 妊娠していたでしょうか?」
はやる思いを抑えられず、椅子に腰を落ち着ける前に尋ねてしまう。
フサちゃん先生は、モニターから私に視線を移し、抑制の効いた声で答える。
「妊娠中に産生されるhCGというホルモンは確かに検出されました」
「それでは!?」
身を乗り出さんばかりの私に、先生は穏やかな口調を崩さずに問いかける。
「今日は最後の生理から数えて、4週後半くらいですね?」
「そう思います」
「少し早いですが、もしかしたら胎嚢が見えるかもしれません。経腟エコーをしてみましょう」
「お願いします!」
いつもは安心させてくれる円やかな声が、今日は癇に障る。血液検査に問題があるなら、はっきり言ってくれればいいと不満を抱えながらも、どうか胎嚢が見えますようにと祈りながら診察台に座る。もしも違ったら、市川のお義母さんに何を言われるかと思うと、何としても見えてほしい。
プローブが挿入され、先生が様々な角度に動かしているのがわかる。モニター画像に、何度もネットで見た黒い楕円形のような胎嚢は現れてくれない。いつもより時間が長いのが不安で、心拍数が突き上げられるように上がっていく。
「お疲れ様でした。現時点では、確認できませんでした」
カーテンの向こうで、先生が静かに告げた。
「そうですか……。ありがとうございました」
絶望で石のようになった身体を叱咤して身なりを整える。
診察室に戻り、先生と向き合うと、問い詰めるように尋ねてしまう。
「胎嚢が見えないということは……」
「胎嚢が見える時期には個人差があります。早い方は、4週後半から見えますが、たいていは5週からです。来週、また見てみましょう」
「はい……。あの、この時点で見えないのは、異常ではないんですね? 私、早期妊娠検査薬で二回調べたのですが、二回目は一回目より線が薄くて……、そのことがずっと気になっていて」
雲が太陽にかかったのか、ブラインドから漏れる日がすっと陰っていく。先生は、私としっかり目線を合わせる。
「実は、先ほど検査した市川さんのhCGは20で、かなり低い値です。私の経験から、4週で100はないと妊娠継続は難しいと考えます」
全身から、引き潮のように血の気が引いていく。流れているオルゴールサウンドの「となりのトトロ」が、早とちりした自分を嘲笑するように聴こえる。
「では……、どうなるのでしょうか?」
「化学流産の可能性が高いでしょう。妊娠検査薬で陽性になったにも関わらず、胎嚢が確認できないまま終わってしまうことを指します。実は妊娠の30から40%で起こっているのですが、不妊治療をしていなければ気づかず、生理が少し遅れたと思うくらいです」
「私も生理のような出血が起こるのでしょうか……?」
「残念ながら、その可能性が高いでしょう」
「でも、これから、hCGが上がっていく可能性もありますよね?」
先生はそれ以上の質問をかわすかのように締めくくる。
「来週、また検査してみましょう」
言葉を切った先生は畳みかけるように続ける。
「市川さんのhCG値からは考えにくいですが、受精卵が子宮内膜以外に着床してしまう子宮外妊娠の可能性もゼロではありません。子宮外妊娠の9割以上は、卵管に着床する卵管妊娠です。卵管に着床した胎芽が成長すると、卵管破裂が起こって出血し、大変危険です。この可能性がないかを慎重に見ていく必要があります」
化学流産、子宮外妊娠、卵管妊娠、卵管破裂……、不妊治療をしていなければ知らなかった語彙が次々と加えられていくのを呆然と聞いているしかない。目を落とした先に、瑠璃子が選んだ上質な靴が見える。
どうやってクリニックを出て帰宅したかは、記憶がおぼろだ。先生から、何か体に異常を感じたら、ためらわずに受診するようにと真摯な目で念を押されたのは覚えている。
★
リビングのソファで項垂れる私を見て、帰宅した結翔くんは幽霊を見たかのように動きを止める。
彼は暗雲が漂う空気を一掃するかのように、快活な声を出す。
「お、今日は鮭の塩麴焼きか。いつ食べても旨いんだよな」
本当なら悲しみと絶望をぶつけるように八つ当たりしたい。だが、私以上に楽しみにしていた彼を慮り、その衝動をねじ伏せる。
「座って……」
対岸に座った彼に、今日あったことを淡々と説明する。言葉を紡ぐのも億劫だが、同志のように歩んできた彼には報告しなければという義務感だった。
「そうか……。でも、来週胎嚢が見えるかもしれないんだろ? その、hCGというのが上がる可能性もあるし」
どこまでも楽観的なのが結翔くんらしいが、今日はその明るさに怒りの突起が立ち上がる。フサちゃん先生の言動を思い返せば、彼が伝えたかったことは見えてくる。それを受け入れようとしているときに、無垢なポジティブ思考を突き付けられるほど腹が立つことはない。
彼は言い含めるように続ける。
「どんな状態でも、俺たち夫婦のところに、赤ちゃんが来てくれた。妊娠しないと出てこないホルモンが陽性だったのは事実だろう。医者が何を言おうと、その子が生きようと頑張っているなら、親である俺たちが希望をつながなくてどうする。いま、その子を守れるのは、お腹に宿している澪だけだろう」
その言葉は、頭蓋骨まで震わせるかのように深く響いた。反射的に子宮に手をあて、「ごめんね」と語りかけると嗚咽がこみ上げてくる。
「私が……絶対守るから……。一緒に頑張ろうね……」
結翔くんが二人分を守るかのように、私をぎゅっと抱きしめる。
「澪だけじゃない。俺たち二人で守るんだろう。三人で頑張ろう」
私も結翔くんも、涙を拭き、ご飯をおかわりして食べた。生きようとしている子を諦めかけた自分にぞっとし、まだ見ぬ子にエネルギーを与えようと餓鬼のように食べた。
★
翌朝、基礎体温を測ろうと枕元に手を伸ばしたとき、股にどろりとした感覚を覚えた。
急いでトイレに駆け込むと、ショーツに生理のような血がついている。赤く染まったペーパーを手にしたまま、しばし思考が止まる。
次の瞬間、フサちゃん先生の言葉を思い出す。それでも、生きようとしている子を助けられるかもしれない可能性が閃光のように脳を貫く。
生理用ナプキンをあて、すぐにクリニックに電話するが、朝の6時なので当然ながら留守番電話に応答される。
早朝で申し訳ないと思うが、瑠璃子にLINE通話をかけてしまう。
弾丸のように事情を説明し終えた私に、瑠璃子は即座に言い放つ。
「朝一でクリニックに来て。院長に言っておく」
「でも、出血してるんだよ……。エコーできるかな?」
少し安心すると、現実的な不安が湧いてくる。
「診察台にシートを敷くから大丈夫。生理中でも受診が必要な患者さんもいるから、私たちは何とも思わない。とにかく落ち着いて、朝一で来て」
「わかった。ありがとう。朝早く、本当にごめんね」
★
朝一で実施した血液検査の数値を見た花房院長は、「化学流産でしょうね」と沈痛な面持ちで告げる。
「あの、経腟エコーは……?」
「今日はやめておきましょう」
院長の心遣いが嬉しい一方で、もしかしたら胎嚢が見えるかもしれないと、万が一の可能性にかけたい思いもある。だが、私のエゴで手を煩わせるのは間違いだろう。
「残念ですが、化学流産はお母さんの力で防ぐことはできないのです。どうか、自分を責めないでくださいね」
母親に近い年齢のベテラン医師には、患者を納得させる貫禄が備わっている。
「ありがとうございます。あの、何か処置をしていただくのでしょうか?」
「特に必要ありません。次の生理が来たら、治療を再開できますよ」
マスクをかけた院長の目元に、柔和な笑みがかすかに浮かぶ。
「わかりました。朝早くからお騒がせしてすみませんでした。本当にありがとうございました」
「とんでもない。過剰反応なくらいがちょうどいいんです。心配なことがあったら、いつでも来てくださいね」
会計を済ませ、車のなかで結翔くんにLINEを送ろうとすると、会社員時代の同期から写真付きのメッセージが届いていた。昨年生まれた男の子が、彼に抱かれて笑っている。それを見ていると、私たちの受精卵も、着床できていたら、こんなふうに成長していたのかもしれないと思い、ハンドルに顔を埋めて泣いた。
ひとしきり泣いて顔を上げると、フロントガラス越しに当たる陽に目を刺される。空が高く青いことに救われる。化学流産は、流産に数えられないと知っている。それでも、私は胎嚢になれなかった受精卵のことを忘れまいと誓う。いま起こっている出血は、確かに小さな命が存在した証だ。私たちのところに来てくれてありがとう。ほんの短い間でも幸せを運んできてくれてありがとうと、空に帰る卵に感謝する。
翌朝、下がった基礎体温を見ると、小さな命が消えた事実を実感し、また泣きたくなってしまう。それでも、窓際に立って朝日を浴びているうちに、私は新しい命を宿せるという自信が泉のように湧き出してくる。