連載小説「クラリセージの調べ」3-6
※ 診察の描写は一例です。治療については専門医にご相談ください。
昨夜の濃厚な交わりの名残を脚の間に残し、内診台に乗る。シャワーを浴びられないので、臭いが気になる。
頚管粘液を採取する花房医師に、昨夜の営みを見透かされるようで身体が委縮する。介助の看護師が瑠璃子であることは、心強さと同時に、屈辱感も引き起こす。彼らは毎日数えきれないほど女の股を見ているので、そんなことを考えている暇はないだろう。だが、ここに乗る女は、自分のように感じているのではないか。
一旦待合室に戻され、めずらしく開いているソファに腰を下ろす。朝一番に予約している患者には、自分と同様に性交の余韻を残す女、これから夫の精子を子宮に注入される女がいると推察する。自動ドアが開き、30代後半くらいの女が入ってくると、朝の清冽な冷気が微かに侵入してくる。女は、精液らしきものを受付に出すと、固い面持ちで、開いているソファの端に掛ける。女たちは、互いに目を合わせないように俯き、悲壮感とも緊張感とも形容できる空気をつくりだしている。ブラインドの隙間から漏れるやわらかい朝の陽も、それを中和できそうにない。
しばらく待たされてから、診察室に呼ばれる。冬の弱々しい日が、花房医師の背中に細い光の筋をつくっている。控えている看護師が、瑠璃子ではないことに安堵する。
顕微鏡から目を上げた医師は、私に見えるように、モニターに画像を映す。
「こちらが、先ほど採取させていただいた頚管粘液のなかにいる精子です。結論から申し上げると、運動精子、つまり動いている精子の数がちょっと少ないですね」
「もしかして、私に抗精子抗体があるのでしょうか……? それで、精子の動きを止めてしまっているとか……」
医師は私の不安を鎮めるように穏やかな声で言う。
「いえ、市川さんの抗精子抗体は先日の検査では陰性でした。精子の状態は、体調や精神状態に左右されます。ご主人、お疲れが溜まっていたり、睡眠不足だったりしませんか?」
結翔くんの疲労した目元が即座に浮かんでくる。
「その可能性はあります……」
医師は肌触りの良い絹のような声で提案する。
「明後日、もう一度、検査してみましょう。ご主人が、よく眠り、よく食べた状態でね。何度か検査するのは、よくあることなので、あまり心配しないでください。もし、また運動率が良くなくても、人工授精は、精子を子宮に送り届けられる方法なので、適応症例になります」
「わかりました。宜しくお願いします」
医師に頭を下げながら、授かれないのは自分のせいではないかもしれないという考えが萌し、心がふわりと軽くなる。そんなことを思う自分に嫌悪を覚え、慌てて打ち消す。
その日の夕方、結果を告げると、結翔くんは蒼ざめた顔で、申し訳ないと平謝りした。私は慌てて宥め、医師の言葉を伝えると、彼は腑に落ちたように頷く。
「最近、期末の採点に追われた上に、不登校の子の親とのやりとりがこじれて、肉体的にも、精神的にもぼろぼろだったんだ。眠りの質も良くなかった。今夜と明日はできるだけ早く寝るから、明後日の朝早く起きてやらないか?」
それを経て採取された頚管粘液のなかで、十分な数の精子が躍動しているのをスクリーンで観察できた。来月、人工受精を行う目途が立ち、絹さんのお祝いを前に気持ちを楽にしてくれた。
★
前と同じ駅ビルのカフェで、瑠璃子は神妙な顔で頭を下げる。
「すーちゃん、忙しいのに出てきてもらってごめんね」
「大丈夫。夫は土曜の午前中は仕事だし。それより、相談したいことって何?」
「うん。フサちゃんのことで、聞いてほしいことがあるの……」
瑠璃子は軽やかな口調で言い足す。
「今日は娘のお迎えを父に頼んだから、ちょっとゆっくりできるよ。VAL一階で買い物したいから、またこの店にしちゃった。美味しい店を探しとけば良かったんだけど、ごめんね」
「全然いいよ。実は私も、明日親戚の集まりで11人分の料理するから、下で生鮮を見たかったの」
「えー、11人なんて超大変。お互い、生活臭くなったね」
東京で会っていた会社員時代は、二人で流行りの服に身を包み、ネットで話題のレストランを予約して、舌鼓を打った。食事を終えると、お洒落なカフェに長居して、話に花を咲かせた。時間もお金も若さもあふれていたあの頃はもう帰らない。互いに時間の制約があるいまは、話し足りないまま別れてしまうが、人生を前に進めたことを実感させてくれる。
瑠璃子はパスタを運んできた店員に、「ありがとうございます」と丁寧に言い、目尻に小じわをつくって微笑む。昔から、彼女は感謝と謝罪をしっかり伝えられる人だった。
「とりあえず、食べようか」
瑠璃子は、いつものように「いただきます」と両手を合わせてからフォークを取る。今日は二人とも、えびとアボカドのバジルソースを選び、フォークにくるくると巻き付けることにしばし注意を傾ける。
「先週末、葉瑠をフサちゃんに会わせたんだ。もちろん、お父さん候補と言わないで。お母さんがクリニックで一緒に仕事をしている『フサちゃん先生』と紹介して、ファミレスでランチ」
「そうなんだ。葉瑠ちゃん、どんな反応してた?」
先生を娘に会わせたということは、瑠璃子の気持ちがプロポーズ承諾に向け、一歩前進したことを意味するのだろうか。
「それがね……。人見知りなところのある葉瑠が、アニメの話で、フサちゃんとめちゃくちゃ盛り上がったの。あの人、ジブリからディズニーアニメまで詳しいから、驚いちゃった」
「よかったじゃない。花房先生って、アニメ好きなんだ」
花房医師の童顔を思い浮かべ、彼がアニメを見ているところを想像するが、ケーシー白衣を着てマスクをした姿しか浮かんでこない。
「子供のときからジブリ大好き少年だったみたい。DVDも漫画も、映画のパンフレットも全部持ってて、三鷹の森ジブリ美術館に3回行ったんだって。ディズニーアニメも、公開されたら字幕と吹き替えの両方を見るらしい」
「意外だけど素敵な趣味だね。きっと、子供も好きなんだろうね」
「38歳のおっさんがキモイよ。アニソンにも声優にも詳しくて、葉瑠とマニアックな会話してるんだよ。二人で、『ありの~ままの~♬』なんて歌いだして……。一緒にいるこっちが恥ずかしくなった」
愚痴をこぼしながらも、彼女が本気で嫌がっていないのが伝わってくる。
「葉瑠ちゃんに拒絶されるより、良かったじゃない。また、会わせるの?」
「冬休みに、劇団四季の『アナと雪の女王』を三人で見に行くことになった。葉瑠が、行きたいってお母さんに言っているのに、なかなか連れてってもらえないってぼやいたら、彼がじゃあ行こうかと言いだして。まあ、久々に都内に出られるのは楽しみだけどね……」
「わあ、素敵!」
四季劇場のある竹芝を歩く三人を想像すると、絵に描いたように幸せな親子に見える。
「二人が仲良くしているのを見て、私がつまらないことにこだわっていたら、後悔するのかなとちょっとだけ思った。父親のいない子にしてしまったことは、ずっと申し訳ないと思ってたし。葉瑠が父親と一緒にいる子を見るたびに、複雑な表情をしているのを見て、罪悪感を覚えたことは数えきれない」
「葉瑠ちゃんは、前のご主人に会ったことあるの?」
「何度か会わせたよ。物心つかないときは人見知りして泣いたし、わかるようになってからはお行儀よくしてた。年齢より大人びた子だから、失礼なことをしないように気を遣っているのがわかった。だから、初対面のふさちゃんと楽しそうにしているのを見て本当に驚いたよ。なんというか、心の奥底にある自分でも知らなかったろうそくに点火された感じ?」
彼女のなかの変化は、子供を媒介に起こった。そのことを思うと、自分のなかの子供への思いが一層熱くなる。それを瑠璃子に悟られたくないので、彼女の話に集中する。
「それでね、浮かれた葉瑠がうちの両親に、フサちゃんとランチしたことと、冬休みにアナ雪を見に行くことをしゃべっちゃったんだ……。口止めするのを忘れた私が悪いんだけど。それを聞いた両親が、彼を紹介しろと言いだして……」
「どんどん波がきているね」
瑠璃子は口元をゆがめる。
「まだ、微妙な状況だから、もう少し待ってと説得したけど、ドクターだと知って大喜び……」
自分の経験からも、波が来ているときは、驚くほど自然に進行していく。瑠璃子はその波に背中を押されながらも、必死に足を踏ん張り、流されるのを拒んでいるように映る。
瑠璃子は髪をかき上げ、両手で顔を覆う。
「もう、自分でも何がいいのかわからなくて……」
「瑠璃子のなかだけに留まっていたことに、葉瑠ちゃんやご両親の反応が作用して、心境に変化が起きているんだね」
「そんな感じ。すーちゃん、切れるね」
「瑠璃子は、どの道を選んでも、しっかりと足を踏みしめて歩いていけるよ。そうする能力と運に恵まれた人だから」
「ありがとう。もう少し考えてみるよ。何となくだけど、整理されてきたし」
瑠璃子は口角を押し上げて微笑み、音が出ないように気を付けて残り少ないアイスコーヒーをストローで吸い上げる。
瑠璃子の話が一段落したところで、すずくんのことを思い出す。
「話変わるけど、鈴木紳次くんと再会したこと、LINEで話したよね。瑠璃子が良ければ、3人のグループライン作ろうと思うんだけど。せっかくだから、3人でご飯食べようよ」
「ああ、すずね。いいよ、つなげてくれて。私も聞いてみたいことがあるし」
「聞いてみたいこと?」
瑠璃子の瞳が妖しい光を帯びる。その眼差しは、噂話に興じる中学時代の彼女を呼び覚ます。
「彼、実家の病院を追い出されたらしいの。その後、どうしたか、しばらく聞かなかったけど、地元にいたんだね。彼が何で追い出されたか知りたいじゃない。お兄さんと二人で、病院を刷新することが期待されてたのに」
瑠璃子の反応を見て、すずくんのことを話したことを猛烈に後悔する。生徒会で瑠璃子と一緒だったすずくんは、彼女のこんな一面を恐れ、グループラインを提案したとき躊躇したのかもしれない。彼に申し訳ない気持ちがあふれるが、もう遅い。
後悔に苛まれ、ストローの袋をもてあそんでいると、瑠璃子が強張った声で切り出す。
「また話変わるけど、すーちゃんの苗字が市川に変わったのを知って、ずっと考えてたんだ……。もしかして、すーちゃんの旦那さんって、市川結翔?」