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「巡礼」14

 渡米して数週間、父はおぞましい出来事を忘れたい都の気持ちを慮り、生活の不自由がないかをメールで尋ねるに留めてくれた。京輔もメールをくれたが、話題は部活の愚痴、模試の結果などで、良や茜のことにはふれなかった。他方で都は、良と茜がどうなっているかを知りたいという、怖いもの見たさも捨てきれなかった。葛藤の末、都は衝動的に2人の様子を弟に尋ねてしまった。


 9月末、弟からスナップ写真が入ったエアメールが届いた。開けてみると、純白のウェディングドレスを着た茜と、タキシードに身を包んだ良が写っていた。2人が結婚することはわかっていた。だが、そんなことがあるはずはない、あっていいはずはないと思う自分もいた。都は何らかの理由で結婚が解消される期待を捨てきれていなかった。その望みが打ち砕かれ、奈落の底に落とされたような絶望が襲ってきた。都は震える手で写真を繰った。 父と貴和子さん、京輔はどこか複雑な表情で写っている。良の両親の姿を見ると涙がどっと溢れた。都が高崎の実家を訪れたとき、温かく迎えてくれた日のことが昨日のように思い出された。この2人の義理の娘になるのは、自分だったはずなのに。なぜ、こんなことになってしまったのか! 幾度も叫んだ答えの出ない問いが体中を駆け巡った。2人が指輪を交換する写真を見て、耐えられなくなった都は、獣のような悲鳴を上げてベッドに潜り込み、声を殺して泣き伏した。

 ひとしきり泣いてから、もぞもぞとベッドから這い出して散らばった写真を集めた。良の腕に自分の腕を絡めた茜は、華やかな髪型と化粧が手伝い、輝かんばかりに美しい。なぜ、自分をここまで苦しめて、こんなふうに笑っていられるのか。憎しみを通り越し、異世界の人間を見るような気味悪さを覚えた。慣れないタキシードを着た良は、茜と生きる覚悟を決めた毅然とした表情で写っていた。都を絶望させたあの表情だった。なぜ、良はこんな現実を受け入れられるのか、それに立ち向かえるほど強いのか……。
 都は電気を消し、力なくベッドに横たわった。都と良は、白無垢と羽織袴で神式の式を挙げようと約束していた。2人が和装でなかったのは、せめてもの救いだった。
 

 だが、なぜ自分がこんな屈辱を味あわなければならないのか。語学研修が終わって日本に戻ったら、夫婦になった2人の姿を見せつけられる。親戚は妹に恋人を盗られた間抜けな自分を笑っているだろう。自分は一生、その屈辱につきまとわれる。屈辱を忘れられるほど情熱を注げるものは見つからず、良以上に愛せる男性も見つからない。自分はこれから何のために生きていけばいいのか。自分のなかに答えがないとわかると、暗闇のなかで生きる力が萎えていく静かな音が聞こえるようだった。自分が死ねば、茜と良に一生罪の意識を背負わせることができるだろうか。暗闇のなかでいざなわれるように目を閉じると、体が地の底に吸い込まれていくようだった。

 

 次の日、都は学校を休んだ。絶望の果ての倦怠感が体にまとわりつき、どうしても英語の世界に出て行く力が湧かなかった。アメリカに来てから回復していた食欲も、湧いてこない。いつもは食欲をそそるベーコンを焼く匂いも、今朝は吐き気を誘った。せっかくここでの生活が軌道に乗っていたのに、安易に2人のことを弟に尋ねてしまった自分が情けなかった。


 朝食におりてこない都を心配し、アイリスがお茶を持ってきた。寝巻きのままベッドに力なく横たわっていた都は、ノックの音を聞いて、慌てて床に散らばった写真を集めた。

「友達?」
 アイリスは、茜と良が写っている写真を床から拾って尋ねた。

「いえ、妹です」

「そう、きれいな娘さんね」

 アイリスは多くを尋ねずに写真を返し、寝巻き姿の都をしばらく見つめていた。都はその視線に戸惑った。都の英語がひどいので、2人の意思疎通は彼女の勘と洞察に頼るところが大きい。都は抱えている絶望を見透かされるようで居心地が悪かった。

 アイリスは、都が塞ぎ込んでいるのは、この写真のせいだと気づいたのかもしれない。都の額に手を当て、熱がないのを確かめると、有無を言わさぬ口調で言った。

「私達はこれからドライブに行くの。あなたもいらっしゃい。ほら、早く着替えて!」

 都がしぶしぶ下におりると、アイリスは庭に咲いていた極楽鳥花で花束を作り、ベンは日系スーパーで買ってきた日本酒の大瓶を車に積んでいた。どこに行くのか聞かされないまま、都は後部座席に押し込まれた。


 運転席のベンはラジオから流れるラヴェルのピアノ協奏曲ト長調に合わせ、二重顎を揺らして、リズムをとっている。お腹をぷるぷる揺らしながら、しきりにギラデリのチョコレートに手を伸ばしているのが滑稽だった。医者から甘いものをやめるよう言われているのに、チョコレートだけはやめられないという。アイリスはたまに都を振り返り、窓から見える建物の説明をしてくれた。都はそれに耳を傾けながらも、婚礼衣装に身を包んだ二人の姿が頭を離れなかった。一瞬で通り過ぎてしまう景色のように、悲しみも置いてこられたらどんなに楽だろうか。

 ベンは州道14号をぐんぐん北上した。いつしか、ラジオから流れる音楽がマーラーの「復活」に変わっていた。良との出会いになったこの曲は、いま一番聴きたくない。都はラジオを止めたい衝動と戦いながら、早くこの曲が終わってくれることを願った。復活を歌い上げる第五楽章のソプラノとアルトの二重唱は、いつもより力強く響いた。

 曲が終わる頃、車窓の景色は砂漠のような荒野に変わっていた。ドライブが趣味だというベンは、70代とは誰も信じないハンドルさばきで車を飛ばしていく。都は、こんな人里離れたところに何があるのかと思ったが、今は何もかもがどうでもよく、ぐったりと背もたれに身を預けていた。


 2人は吹き込んでくる熱気や砂塵を避けるために窓を閉め、頻りにペットボトルの水を口にしていた。いけどもいけども人気のない平原が広がり、乾燥に強そうな植物が地面に這いつくばるように茂っていた。すれちがう車もまばらになった。都はこんなところで車が故障したら脱水症状で干からびてしまいそうだと思い、背筋が寒くなった。

「都、このあたり、モハべ砂漠」
 ベンが都を振り返り、拙い日本語で言った。

「ベン、一体どこに向かっているの?」
 都は風雨にさらされた飛行機の機体らしきものを遠目に見ながら尋ねた。

Manzanarマンザナ―

 聞きなれない地名に訝しげな顔の都を振り返り、アイリスがしんみりと言った。
「私達には、忘れたくても忘れられない場所なの。私のパパは、そこで亡くなったの」

「ご病気ですか?」

「もともと喘息気味だったのが、風邪をこじらせて肺炎になってね。生きたいという意志があれば違ったのかもしれないけれど」

「無理もないよ。パパたちは、リッチマンになるつもりでアメリカに渡って、何十年も差別と低賃金に耐えて働いてきた。祖国が真珠湾を攻撃し、築いてきた生活も財産も奪われて、砂漠に追いやられたんだから」


 都が話についていけないのに気づいたアイリスは、ゆっくりとわかりやすい言葉で補足してくれた。
「1941年12月7日、日本海軍がハワイの真珠湾を奇襲攻撃したことは知っているわね?」

 都は頷いた。小学生の頃、友人の祖父が真珠湾攻撃に加わった戦闘機の搭乗員だったことを「男子の本懐」だと誇らしげに語ってくれた。曾祖母や祖父母から戦争で負けた惨めな経験ばかり聞かされて育った都は、日本にも輝かしい勝利の瞬間があったのが嬉しかった。

「それをきっかけに、西海岸、つまりカリフォルニア、オレゴン、ワシントン州、アリゾナ州の南あたりに住んでいた日系人は、住んでいた家を捨てて、人里離れた地に建てられた10箇所の戦時転住センターに行かされたの。俗に言う、強制収容所コンセントレーションキャンプよ」

「そのマンザナーというのが、収容所の名前ですか?」

「そうよ、都。今日はそこで亡くなった父の命日なの」