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連載小説「クラリセージの調べ」4-7

「どういうこと……?」
 例え話なのか、事実なのかわからないまま、瑠璃子の赤らんだ瞳を凝視する。

 翳っていく陽が不穏な空気の濃度を増す。

 すずくんが、呼吸をするのもためらわれる重い空気を破る。
「岩崎、どういうことなんだ?」

「実は、そういう話を耳にしたの。すーちゃんの耳に入れるか悩んだけど、友人として言うべきだと思った」

 私は続きを待ちわびるように、春らしい色のルージュがぬられた形の良い唇を見つめる。

「大学のとき、結翔ゆうとの家でやってた飲み会や鍋パーティーで顔見知りになった沙月さつきという子がいるの。葉瑠はるの通ってる英会話教室にお迎えにいったとき再会して、今ではママ友。とはいっても、お迎えのときに少し子供の話をする程度だけどね」

 瑠璃子は、誰にも手をつけられないままのさわらの西京焼きにちらりと目を向けてから、私に視線を戻す。

「沙月が私に尋ねたの。『結翔と裕美ゆみ、よりを戻したの?』と。そんなはずない、今は二人とも別の相手と結婚してるんだよと答えたら、沙月が『私、あの二人がファミレスにいるのを二回ほど見かけたよ』と言ったの。彼女は土曜日の昼、家族でファミレスに行くことがよくあるんだって」

「ユミって、結翔さんの元彼女?」

 すずくんの問いに瑠璃子が小さく頷く。
「結翔と十年くらい付き合ってたけど、あの強烈なお母さんに反対されて別れた元彼女というか元婚約者」 

「人違いじゃないのか? 俺たちくらいの年齢だと、中年太りが始まって、大学時代とは顔つきも体型も変わってるだろ」

「そうあってほしいと願う。でも、沙月は、結翔と裕美の中学の同級生で二人の顔を良く知ってる。彼女は嘘をつくような子じゃないし、二回も見たと聞いたから……」

 写真を見た限りだが、裕美は離れ目、鼻脇の大きなほくろという識別しやすい特徴がある。見間違いであってほしいと願う一方で、恐らく事実なのだろうという諦念がシミのように胸に広がる。

「それ、いつのことかわかる?」
 動揺を抑えこみ、震える唇で言葉を絞り出す。

「一回目は聞かなかったけど、二回目は先月の二週目の土曜と言ってた」

「その日、結翔くんは午前中部活で、同僚の先生とお昼を食べてくると言ってた。お義父さんとお義母さんが絹さんの家にヘルプに行くから、私がおじいちゃんの世話を頼まれた日」

「すーちゃんが化学流産して間もない頃でしょう。奥さんにおじいちゃんの世話を任せて、旦那は何やってんだかっ!」

「その頃、おじいちゃん、徘徊が出て大変だったよな。俺が薬を調整して、いくらか改善したけど」

「お義父さんとお義母さんは介護疲れで、絹さんの家で少し寝かせてもらったみたい。向こうのお義母さんがショートステイに出てて、やまとさんも留守だったから、四人でゆっくりできたって……」

 AIのように言葉を紡ぎながら、信じてきたものが瓦解した衝撃をどう処理すべきか考える。どんなに私が打ちのめされていても、世界は変わらずに回り続ける。結翔くんとの生活は続いていく。

「大丈夫?」
 すずくんに気遣わしげな眼差しで尋ねられ、我に返る。

「大丈夫。お料理冷めちゃったね。いただこうか?」

 私は口角を持ち上げ、放置されていた鰆の西京焼きに箸をつける。それに連動するように二人も箸をとる。タイミングを見計らったかのように、天ぷらが運ばれてきて、気を遣わせた仲居さんに申し訳なくなる。

「結翔のこと、どうするの……?」
 瑠璃子がふきのとうの天ぷらに抹茶塩をつけながら私を窺う。

「正直わからない……、実際に私の目で見たわけじゃないし」

「見たらどうするの?」
 瑠璃子が射るような視線を向け、挑発するように尋ねる。

「当然、会うのをやめてもらうよ。妻として不愉快でしょう」

「別れることは考えてないの?」
 その口調には、気遣いとも軽蔑とも解釈できる響きがした。

「まだ、結婚して一年だよ。これから、時間を重ねて信頼関係を築いていきたい。二度と会わないことを約束してもらって、いまの生活を守りたい」
 挑発に乗せられるように飛び出した言葉だが、そこに偽りはない。

「そう……。じゃあ、確かめようよ」

「確かめるって、どうするんだよ?」
 すずくんが懸念をあらわにした眼差しで問いかける。

「土曜日に二度も同じファミレスで見られているんだから、また来る可能性は高いでしょう? すーちゃん、結翔が部活の後、何か予定があると言ったら怪しいよ。その日は一緒にファミレスに張り込もう」

「え……?」

 困惑する私を見て、すずくんが瑠璃子を諫める。
「これはすーちゃん夫婦の問題で、どうするかは彼女が決めることだろう」

「それはそうだね。で、すーちゃんはどうしたいの?」

「二人が会っているのが本当なら、絶対やめてほしい」

「それなら、やっぱり張り込もう。とりあえず、来週の土曜日の12時、ファミレスの駐車場で落ち合おう。奴らが来ても来なくてもいいじゃない」

「わかった」
 私は根負けして同意する。正直、瑠璃子が一緒に来てくれるのは心強い。

「探偵ごっこかよ……」
 すずくんがあきれ顔で、蓮根の天ぷらをしゃきしゃきとかみ砕く。

「これは、すーちゃんのこれからに関わる大事なことなの! すずは関わらなくていいよ」

「俺も行くよ。話し合いが必要になったとき、男がいたほうがいいだろ」

「すずくん、ありがとう」

 すずくんは任せとけと言いたげな眼差しを私に向けた後、瑠璃子に視線を移す。
「なあ岩崎、今日は少し暴走してないか? 何かあったのか?」

「別に何もないよ……」
 瑠璃子は、不貞腐れたように言い放ち、さくっと音を立ててキスの天ぷらを頬張る。

 すずくんは、学級委員をしていた中学時代、問題を起こしたクラスメイトに説教をしていたときの顔つきになる。
「子育てと仕事の両立で疲れているのはわかるけど、すーちゃんに八つ当たりするのは良くない」

「八つ当たりじゃないよ。すーちゃんが心配で、気の毒で、見て見ぬふりができなかったの。これから、あの家で苦労するのが目に見えてるじゃないっ」

 二人は互いに譲らないと主張するように、激しい眼差しをぶつけ合う。

 瑠璃子に複雑な思いはある。だが、このままではせっかくの食事の席を台無しにしてしまう。
「瑠璃子ありがとう。気の張るナースの仕事と、葉瑠ちゃんのお母さん、フサちゃん先生の恋人として、毎日大変だよね。私には想像もつかないくらい、振り回される日々を送っていると思う。せめて今日は、リラックスして美味しいお料理を楽しもうよ」

 瑠璃子の背中をさすりながら声をかけると、彼女はへなへなと崩れ落ちていくような声で言う。
「ごめんね……。葉瑠とフサちゃんのことでショックなことがあって、すーちゃんにひどいこと言っちゃったと思う……」

「いいよ、いいよ。何があったの?」
 私はすずくんと視線を交わし、瑠璃子の背中をさすり続ける。

「岩崎、食いながら話そうか。ほら、煮物がきたぞ」

 若い仲居さんが、「菜の花と春わらび、若鳥のもも肉の炊き合わせです」とみやびな声で説明して下がっていく。

 瑠璃子は張りつめていたものがふっとほどけたような顔で、煮物に視線を落とす。その顔は、中学時代に戻ったようにあどけなく、体操の演技が終わった直後のレオタード姿の彼女を彷彿させる。
「美味し……。どうしたら、こんなに美味しくできるんだろう」

「素人に出せない味が出せるからプロなんだろ。俺たちは、それを味わうために高い金払って食べに来てるの。今日は俺のおごりだから残さず食えよ」

「うん。確かに、簡単に同じ味が出せたらプロの立場ないね」

 舌つづみを打っているうち、心がほぐれたのか、瑠璃子が口を開く。
「フサちゃんに、そろそろ返事がほしいと言われたの……。私もこのままではいけないと思ってたから、覚悟を決めた。葉瑠に『フサちゃん先生がお父さんになるのをどう思う』って聞いてみたの」

「葉瑠ちゃん、何て答えたの?」

「絶対嫌、キモい、マジ無理だって」

「え……、葉瑠ちゃんとフサちゃん先生、相性がいいんじゃなかったの? アニメの話で盛り上がったって聞いたけど……」

「私もそう思ってたんだけどね……。『お母さんとフサちゃん先生が、車の中で見つめ合ったり、私に隠れて手をつないでるの見て、マジ気持ち悪かった。吐き気した』って。あの子、妙に鋭いところあるから、気づいてたんだね……」

 瑠璃子は運ばれてきたたけのこの炊き込みご飯とお吸い物に目を細める。
「今すぐじゃなくても、これから時間をかけて、フサちゃん先生をお父さんとして受け入れることはできないかなと聞いた。そうしたら、『無理、お父さんなんていらない、今のままでいい』って言われちゃった。同席していた両親も、葉瑠の反応を見て、もうやめておけと目で訴えた。それから、葉瑠とも気まずくなっちゃって、もう一週間以上口をきいてない。母に、残念だけど、いまは葉瑠の幸せを一番に考えなさいと言われちゃった」

「お嬢さん、9歳だったよね。女としての母親を目の当たりにしてショックだったのだろうな。難しい年頃だからな」

「残念だったね。瑠璃子が心をかき乱されていたのがよくわかった。そんな状態で、私のことまで心配してくれてありがとう」

「ごめんね、すーちゃん。私、ちょっとおかしかったから、嫌な言い方してしまった。反省してます」

「気にしなくていいよ。葉瑠ちゃんと仲直りできるといいね」

「そうだな。でも、岩崎のなかで迷う材料が減ったな。垢抜けない、地元しか知らないと嫌がってた男と、娘のために結婚する必要はなくなった」

「確かにそうだけど、私だって彼のこと好きで尊敬してる。彼と地元でクリニックを切り盛りすることを本気で考えるくらいね……。好きじゃなければ、これほど悩むことなかった。ずっと一人でいる不安もあったから、彼に愛されて、将来を委ねられる安心感にも支えられてた。葉瑠の幸せを一番に考えなくてはいけないことはわかってるよ。けど、葉瑠のために女性としての気持ちを諦めなくちゃいけないことが無償に悲しくなったのっ!」

「矛盾してるな。この間まで、娘さんのために、垢抜けない男と地元で一生暮らすのが嫌だと息巻いてたのに」

「言ってることめちゃくちゃなのは、わかってるよ! でも、これからも、私が誰かを好きになっても、娘のために諦めなくてはいけない可能性があると思うと割り切れない! 今回も、こうなった以上、フサちゃんとの未来はないから別れるしかない。私が花房クリニックに勤め続けるのは気まずいし、辞めることになると思う……。娘のために犠牲にすることが多すぎると思ってしまうんだよね」

「瑠璃子の気持ちわかるよ。母親としての責任と、一人の人間としての意思を両立させるのは本当に難しいね」

「すーちゃん、本当にそうだよ。自分が子供の頃、母親は子供を一番に考えてくれて、多少無理な願いでも根気強く訴えれば受け入れてくれる菩薩のような存在に見えた。自分も母親になれば、そういう境地になるのかと思ったけど、一人の人間としての私はしっかりいるんだよね。今思えば、私の母も、姉や私のために諦めたことが結構あったと思う」

「そうだね。令和の時代、昔よりは一人の人間、女性としての幸福も前より追及しやすくなったと思う。でも、母としての責任に不満を唱えるのはいまだにタブーだよね。そういう意見はネットで叩かれて、炎上して、社会的に抹殺されそう」

「そうなんだよ。私がいまさっき言ったことが両親の耳にでも入ったら、母親として未熟だと説教されるのはわかってる。だから、オルナ・ドーナト『母親になって後悔してる』を読んだとき、そういう本が世界的に共感を集めたことを知って救われた思いになった。すーちゃんとすずも読んでみるといいよ」

「その本、結構話題になったよね。私は授かることを一番に考えてたから、何となく避けてきたけど、読もうという気持ちになったかも」

「二人とも、産めるからいいよな。ゲイの俺は、血のつながった子の親になれないことがずっと負い目になってる……。何年か前に、女性の政治家が、生産性のないLGBTに税金を注ぐことを否定する記事が雑誌に載って話題になっただろ? あれ、結構応えたな」

「その記事のこと覚えてるよ。子孫を残せない人は生産性がないと言われたような気がして、女性の私も傷ついた」

 重くなった空気を一新するように、すきやきの鍋を持った仲居さんが入ってくる。
「店長からのサービスです。鈴木先生、いつもご贔屓にしていただき、ありがとうございます」

 私と瑠璃子は歓声をあげて御礼を言い、仲居さんが固形燃料に火をつけるのを見守る。

 溶けていく固形燃料と炎を見つめながら考える。子供を授かるにしても、考えたくないが授かれないとしても、私個人としての人生の充実を犠牲にしたくない。万が一、結翔くんと別れることになっても、瑠璃子のように経済的に自分の脚で立っていたい思いが炎のように立ち昇る。