「巡礼」22
翌週末、ベンが机上に置かれたICレコーダーを前に、インタビューに応じていた。向かいのソファには、美人ではないが知的な面持ちの日本人女性が掛け、流れるような英語でベンに質問をしていた。
「ご両親の出身地と、アメリカでの仕事について教えてください」
「父の弁蔵は、1892年に広島で生まれました。八人兄弟の六男だと聞きました。19のときアメリカに渡って、ソーテルでガーデナーをしていたそうです。渡米から三年後、親戚の紹介で、同じ広島出身の美代と写真を交換して結婚しました。ピクチャー・ブライドだね」
「ベン、写真をお見せしたら」
アイリスが年季の入ったアルバムを持ってきた。ベンがそれを大事そうに開き、紋付羽織袴と白無垢姿の2人が映る色褪せた白黒写真を指差した。和装の2人を見た都は、良と和装の結婚式を挙げると約束していたことを思い出し、胸がちくりと傷んだ。
「和装の結婚写真が残っているのはめずらしいですね」
写真を覗き込んだ日本人女性が、感慨深げに言った。
「2人は移民局の近くの教会で、他の写真花嫁のカップルと一緒に、キリスト教の牧師が司る結婚式をしたそうです。でも父は、母が故郷から花嫁衣装を持ってきたと知って、方々駆けずり回って紋付羽織袴を借り、この写真を撮ったそうです」
女性はもう一度写真を愛おしそうに見てから、質問を続けた。
「MISLSに入った経緯を教えてください」
「1944年末、収容所に入っているときに徴兵されました。僕は運動神経が鈍くて戦闘部隊には向かなかったから、MISのほうがいいと思いました。日本語が少しできたので、希望通りMISLSに配属されました」
「MISLSに入る前、日本語はどうやって身につけましたか?」
「親の勧めで日本語学校に通っていました。一世の両親は、日本語しか話さなかったので、小さいときは家では日本語でした。長男のマイクは、両親からも厳しく日本語を教えられて、日本の親戚から取り寄せた日本語の本も読んでいたので、他の兄弟よりずっと上手でした。彼はMISLSを終えたあと、教官として学校に残りました」
「お兄さんは帰米ですか?」
「いや、兄弟に帰米はいません」
「日本語学校は、嫌ではありませんでしたか?」
「放課後や週末が潰れるので、嫌でたまらなかったよ。でも、MISで役にたったのでよかったと思っているよ」
ベンは豪快に笑って、アイリスの肩を抱いた。都はベンの緊張が、少しずつほぐれてきたのがわかった。
質問をしている結城凪子という女性は、都内の私立大学の准教授だった。日系アメリカ人史の研究者で、元語学兵にインタビューをしてデータを収集するプロジェクトのリーダーだという。ベンは博物館で会ったジョーの紹介でインタビューを受けることになった。結城の口調は淡々としていたが、すべてを受け止める彼女の深い眼差しは、ベンに何でも話してよいという安心感を与えたようだった。
「アメリカ軍、特にMISに入ることに抵抗はありませんでしたか?」
「大学に行くつもりだったのに徴兵が来て、10日間以内にテキサスの基地に行かなくちゃならなかった。慌ただしかったから、考える余裕はなかったね」
「では、MISLSの日々について教えてください」
「僕は暖かいカリフォルニアで育ったから、雪深いミネソタの寒さはきつかった。とにかく、きつい半年間だったよ。毎日8時間の授業があって、夜には2時間の自習時間が義務付けられていたんだ。会話や読本、草書、軍事用語、日本の歴史や文化まで短期間で叩き込まれたよ。テストがひっきりなしに続いて、トイレットの明かりで勉強したせいで、目が悪くなっちゃってね」
「これがミネソタにいた頃のベン。一緒に写っているのが、お兄さんのマイク」
アイリスが1枚の写真を指さした。冬用の軍服に身を包み、暖かそうな帽子をかぶった兄弟が雪の中に立っていた。
「収容所を出てミネソタに移住していた家族を訪ねたとき、パパが撮ってくれたんだ。日曜は外出できたから、兄と一緒にママが作る和食を食べにいくのが楽しみだったな」
「卒業して最初の任地はどこですか」
「終戦の年の7月に、船でフィリピンに送られたんだ。指揮官は白人の少尉。MISを卒業した白人は将校になれたけど、二世はどんなに日本語がうまくても軍曹。理不尽だけど、当時は仕方がないと諦めていたよ。僕たちには、間違って味方から撃たれないように、白人の護衛がついていたような状況だからね」
「フィリピンの様子と、任務について聞かせてください」
「戦闘で破壊された街を初めて見て、自分が戦地にいることを実感したよ。ルソンの捕虜収容所で、グレッグという日本語が上手な帰米二世と一緒に、日本人捕虜の尋問をした。彼は英語で文書を書くのが苦手だったので、僕が表現を直した。捕虜の日記や手紙の翻訳もしたよ。フィリピンには3ヶ月ほどいたかな」
「捕虜の尋問で、印象に残っていることを教えてください」
「やっぱり、初めて尋問した捕虜のことだな。僕は日本人に会うのが怖かったんだ。彼らが二世の自分をどう見るかっていうことがね。同時に、白人から忠誠を疑われてきた僕達には、しっかり仕事をして評価されたいという気負いもあった。
最初に尋問したのは20歳くらいの1等兵だった。骨と皮ばかりなのに、ぎらぎらした目で僕達を睨みつけて、名前や階級を尋ねても答えなかった。彼の気持ちをほぐすために、故郷や家族のことを尋ねても答えない。煙草や菓子を勧めても頑なに拒み続けた。僕たちは、日本人もアメリカ人も、家族や故郷を思う心は同じだと根気強く語りかけた。自分たち二世にも日本生まれの両親がいる。早く戦争を終わらせて、互いに親元へ帰ろうと言ったよ。フィリピンに送られる前に会った両親の顔が浮かび、僕にも胸に迫るものがあった。けれど、その兵隊は、自分は帰っても喜ばれないと嘲笑うような目を向けた。なぜかと尋ねると、捕虜になったら両親は家に入れてくれないし、妹の縁談にも障るというんだ。驚いたよ。同じ日本人の血を引くのに、生まれた国が違うだけで、こんなにも考えが隔たってしまうのかと。
そんなやりとりを見ていたグレッグが、親は世間体を気にして、そういう態度をとるかもしれないけれど、本音では君が生きて帰ったことを喜んでいる、そんなこともわからんのかと一喝したんだ。すると、その兵隊は追い詰められたような表情で顔を歪ませた。握り締めた拳が微かに震えていた。彼は気持ちが落ち着いた後、尋問に応じてくれたよ。中学まで日本で過ごしたグレッグだから、彼の心を開かせることができたんだろうな」
都は、日本語や日本文化を理解する二世が米軍にいたことで、どれほどの日本人の命が救われたかと思うと、彼らに対する深い感謝の思いが湧いた。
「原爆投下や終戦の報は、フィリピンで聞いたのですね?」
「ああ。新聞できのこ雲の写真を見て背筋が凍ったよ。写真でしか見たことがないけれど、祖父母や親戚が広島にいたから胸が詰まる思いだったよ。もう戦争はたくさんだった。終戦の報を聞いたときは、ほっとしたよ」
「フィリピンに3ヶ月ほどいたとすると、日本に着いたのは1945年10月頃ですか?」
「そう、輸送船で横浜に上陸した。船酔いで体調は最悪だったよ」
「どんな思いで、両親の祖国に上陸しましたか?」
「もちろん好奇心はあった。それから、広島の親戚に会いたいし、彼らが無事かを確かめたかった。破壊し尽くされて瓦礫だらけの都市を見て、暗澹たる思いになったよ」
「あなたが配属されたのはどこですか?」
「ATISこと連合軍翻訳通訳部が入っていた東京のNYKビル」
「ATISで、どんな仕事をしていましたか?」
「NYKビルの2階で翻訳をしていた。主に政府機関の文書の翻訳。僕は日本語を英語にしていた。宿舎も同じビルにあったから、仕事場と宿舎が一体のようなものだった。ビルのなかには、PXと呼ばれる売店やバーもあったよ」
ベンがアルバムをめくり、一枚の写真を指した。
「そう、これだ。ルームメイトとNYKビルの前で撮ったんだ。いい男だろ。彼は日本の大学を出ていて、日本語が上手だった」
ポマードをぬった髪をオールバックにしたベンが、長身の二世と肩を組んで笑っていた。白黒写真でも、長身の二世の容姿が際立っているのがわかる。瓜実顔に、秀でた鼻梁が印象的な男だった。だが、軍帽が影をつくっているせいかもしれないが、笑顔を見せていても瞳が光を失っていた。都は今の自分もこんな悲しみをたたえた目をしている気がし、その二世に妙な親近感を覚えた。
「これは上司のキーティング少佐と箱根で撮った。この日は富士山が綺麗に見えたよ」
芦ノ湖を背景に、中年の将校とベンが写っていた。2人の身長と容貌の違いが、滑稽を通り越して悲しかった。都はゼミ合宿で見学した富士屋ホテルに、進駐軍に接収された時代があったことをふと思い出した。