「カモメと富士山」10
週が明けてから、朔くんにブレスレットを返したことで一悶着あり、しばらくは気まずい状態が続いた。ようやく、話ができるようになった頃、彼が仲直りの証に手作りカレーを振舞うと言い出した。
本格的なインドカレーではなく、子供の頃から馴染んでいるハウスバーモントカレーの匂いが部屋に広がる。ジョージへの一部始終を綴ったメールに返事はないが、美味しいものを食べられると思うと、ほんの一時だけ憂鬱を忘れられそうだ。
黒いエプロンをかけた朔くんが、グラタン皿に盛りつけたカレーライスを運んで来る。
「できましたよ。あ、まだ10時半ですけど、食えますか?」
ミナさんが、めずらしく柔和な表情をが浮かべる。
「朝と昼一緒でちょうどいいわ。あー、小学校の給食室から漂ってきた懐かしい匂い。いただきます!」
「私、祖母が作ってくれた夕食のカレーを思い出します。みかん畑の作業で忙しい両親に代わって、夕食は祖母が作ってくれたんです」
「うちの母はカレーを作らなかったから給食の味ね。そういえば、朔くんは家でこういう素朴なカレー食べてたの? 有名シェフが作る高級なのしか食べなそう」
朔くんは、カレーを口に運ぶミナさんにやわらかい視線を向ける。
「そんなことないすよ。小学校の林間学校で食べたカレーが、すげー美味くて、自分で作るようになったんです。俺が唯一作れる料理です」
「やっぱり、朔くんの家ではこういうの食べなかったんだね。でも、日本のカレールーは偉大な発明ですね。よほどのことがない限り、失敗しないで作れるし」
「本当にそうね。カレールーが日系スーパーで買えるのが嬉しい。さ、朔くんも座って、冷めないうちに食べよう!」
朔くんは、「美味しい」と顔をほころばせるミナさんに目尻を下げる。2人のあいだの空気が優しくなっていることに気付き、彼が私を遠ざけない理由を考えてはっとするが、まさかとその考えを追いやる。
朔くんのカレーは、じゃがいもと人参、玉ねぎと豚肉という定番の具が入っていて、白いご飯と相性抜群だ。異国で食べると驚くほど美味しく感じるのが不思議だ。スプーンを動かしている2人も、同じ思いなのだろう。
「富士美ちゃん、ジョージに書いたメールの返事来た?」
「まだです……。読んでくれたかもわかりません」
ミナさんは考え込むように目を伏せ、朔くんは小さく溜息をついてカレーを口に運ぶ。
重くなった空気をどうにかしようと、テレビを点けようと思った。テロの首謀者をかくまうタリバン政権への空爆が、昨日始まったばかりなのだ。
そのとき、めずらしく玄関のチャイムが鳴る。ドアアイからのぞくと、そこに立っているのは野球帽にサングラス姿のカズヤだ。ジョージから私の朝帰り騒動を聞かされ、ご立腹なのだろうか。尋常ではない事態に体の芯が冷えていく。
恐る恐るドアを開けると、カズヤは意外にも穏やかな表情で尋ねる。
「急に訪ねて悪かったね。これから、ドライブに行かないかい?」
節度ある姿勢を崩さない彼が、連絡もせずに来た上に、いきなり連れ出そうとするのに面食らってしまう。
「友人がいるのですが……」
「日本人?」
「日本人と韓国人です。韓国人の彼女は日本育ちで、日本語も話しますが」
「ちょうどいい。良かったら、2人も一緒に来ないかい?」
「でも……、どこに行くのですか?」
「Manzanar収容所跡だ。今度、私たち日系人と近所のイスラム教徒でマンザナーを訪れ、有事のマイノリティの権利とヘイトクライム対策について考える。今日はその下見に行くんだ」
「あの、どうして、私を誘ってくださるのですか?」
彼は力強い口調で切り出す。
「ジョージが失礼な態度をとって本当にすまなかったね。あなたに、ジョージや私たちの活動を理解してもらいたいから、どうか一緒に来てくれないか。下で、ジョージとアリシアも待っている」
彼の口調は、行かないという選択肢を与えないほどの気迫がこもっていた。
話を聞いていたらしいミナさんが、私の肩に手を置く。
「富士美ちゃん、行こうよ」
ミナさんは、カズヤに向かって話し出す。
「はじめまして、ミナと申します。日本で生まれ育った韓国人です。私も連れていってください」
2人は握手を交わし、ミナさんは流暢な英語でカズヤと話し始める。
「わかりました……。私も行きます」
ここで私が行かない選択肢はないだろう。
ミナさんが。気のない顔をして皿を片付けている朔くんを促す。
「ほら、朔くんも行こう!」
★
サングラスをかけたアリシアがワゴン車から降りてくる。
「ミーナ!?」
「アリ!」
ミナさんが目を見開いて走り寄り、2人はハグを交わす。
「アリは私のビザと永住権申請でお世話になってる弁護士なの」
「そうだったんですね。驚きました」
アリシアが私たちを促す。
「さ、みんな乗って。ジョー、運転は私が代わるから、ガールフレンドと和解したら」
アリシアが運転席、カズヤが助手席に座り、2列目にジョージと私、3列目にミナさんと朔くんが座る。ジョージは朔くんがいることに眉を顰め、敵意のこもった一瞥を加える。
ジョージと私は、気まずいまま並んで座る。閉塞感を持て余し、車窓に目を移す。車は州間高速道路5号線(I-5)に入る。I-5はメキシコ国境からカナダ国境まで伸びていて、カリフォルニア州を南北に貫いている。アリシアは、それをぐんぐん北上していく。
助手席のカズヤが、後ろを振り向き、英語でゆっくりと語り掛ける。
「急に連れてきてしまってすまなかったね。なぜ、私たち日系アメリカ人が、いまイスラム教徒と連携すべきかをあなた方に知ってもらいたかった。
日系アメリカ人は、今でも外国人と間違えられ、アメリカに何年住んでいるのですか、英語が上手ですねと言われることがある。アメリカ社会に、日系アメリカ人と日本人の区別は付けられていないんだ。だから、日米関係が悪くなると、日系アメリカ人はヘイトクライムのターゲットにされる。
だからこそ、私たちはアメリカ人であることを社会に訴え続けなくてはならない。アメリカ人として、正しいと信じることをすることでね。今、やらなくてはいけないのは、人種や宗教に基づくヘイトクライムや取り締まりを許さないこと、そのターゲットになっている人達に寄り添うことだ」
似た内容はジョージからも聞いたが、カズヤの口から語られると説得力が違う。アメリカに居場所を作るために働きかけてきた83年の歳月の重みだろう。
「アジア系初の閣僚になったノーマン・ミネタ運輸長官は、日系二世だ。第二次世界大戦時にワイオミング州のハートマウンテン収容所に収容された経験がある。彼は9・11後、航空会社に、イスラム教徒や中東系と見られる人たちを差別しないよう通達した。そこには、人種や肌の色、宗教、国籍などに基づいた捜査、いわゆるレイシャルプロファイリングを許さない彼の意志が反映されている。彼は、レイシャルプロファイリングをしない代わりに、空港でのセキュリティチェックを連邦政府職員が実施し、全ての航空機搭乗者を平等に厳しくチェックすると決めた。
彼も、アメリカ人として正しいと信じることをして、社会に働きかけなければならないと思っているのだろう」
ミナさんが口を挟む。
「日系と外見が似た韓国系も状況は似ていると思います。日本や中国とアメリカの関係が悪くなれば、外見が似ている韓国系も一括りにされてバッシングのターゲットにされます」
アリシアがすかさず応じる。
「ミーナの言う通りよ。だから、アジア系と一括りにするのは難しくても、協力できる争点はあるはず。いま、アジア太平洋系のエスニック団体はイスラム系団体と協力してくれているわ」
「アメリカでマイノリティとして生きてくのって面倒ですね……。日本に住む日本人は楽でいいです」
朔くんの気の抜けた口調に車内の空気が弛緩し、苦笑いがさざめくように広がっていく。彼の反応は、多くの日本人の反応に当てはまるように思える。
「在日コリアンは、気楽じゃいられないけどね。あんたには、その視点が欠けてる」
ミナさんのぼやきに、朔くんが「すんません」と首を竦め、再び笑いが広がる。
カズヤが振り向き、私に視線を移す。
「富士美さんが日本で言ってくれたね。日本人と日系アメリカ人は、生まれも育ちも考え方も違う。日本に対する思いも当然違う。それでも、良好な日米関係を望む思いは同じではないかと。
その通りだ。私たち日系アメリカ人は、日米関係が悪くなれば、国内でバッシングされる。日本も、日米の外交・防衛関係を始め、経済関係、学術交流、旅行などに支障が出たら困るだろう?」
「おっしゃる通りです……。私、あのときは深く考えていませんでした」
カズヤは白眉を下げ、張りのある声で続ける。
「あなたの言ったように、日本人と日系アメリカ人の考えは違う。それぞれの信念に基づいて行動すると利益が相反してしまうこともある。日本人は、なぜ日系アメリカ人が日本を叩くのかと理解に苦しむこともあるだろう。
だがらこそ、理解し合うために、日本人に日系アメリカ人がどんな経験をしてアメリカ社会に根を下ろし、何を考えて行動しているかを知っていてほしい。特に外交官志望の富士美さんにはね。
そして、私たちも日本人の考えを知りたい。互いに理解し合えば、日米関係を良好に保つ道を共に模索できるだろう」
「私もそう思います。私も日系アメリカ人の経験や考えを学び、理解したいです」
ジョージがそっと手を伸ばし、勇気づけるように私の手を握ってくれる。彼が触れた掌がかっと熱を持ち、そこから広がった熱が全身を駆け巡る。手を握られただけで、ここまで反応してしまう自分に驚く。私はもっとクールな女だったはずだ。
ジョージが私にだけ聞こえる声でぼそりと言う。
「メール読んだ。あの日の状況はわかった。富士美を信じることにする」
「わかってくれてありがとう」
じんわりと広がっていく安堵に包まれ、彼の手を握り返す。
「私たち日系人が、砂漠のなかの収容所に送られるまでには、長い過程があった。カリフォルニア州の反日感情は連邦政治レベルにまで達し、それが日米関係にも影響した。まずは、そこまでの話をしよう」
カズヤはミネラルウォーターで喉を潤してから話し出す。
「日本人は19世紀後半から、出稼ぎ労働者としてアメリカ本土に渡っていた。当時は、アメリカで働けば日本の4から5倍の給料が得られて、故郷に送金できた。彼らは農業労働者、アメリカ人家庭での家内労働者、鉄道建設の労働者として働く者がほとんどだった。中には、日本人相手の宿屋、レストラン、食料品店、床屋、銭湯などを経営する者も少数いた。
この頃から、排日気運はあったが、大規模で組織的なものではなかった。排日がひどくなったのは20世紀初頭。外交問題として浮上したのは、1906年のサンフランシスコ学童隔離事件だ。富士美さん、聞いたことがある?」
「いえ……。1906年というと、日本が日露戦争に勝った頃ですよね?」
「その通りだ。アメリカは、極東に軍事的影響力を増していく日本を警戒していた。だから、日本を刺激したくなかった。
1906年4月にサンフランシスコ地震が起こり、学校の半数が消失してしまった。その影響で、市内の公立小学校に在籍する日本人と韓国人の児童93名が東洋人学校に移された。背景には、日本人移民労働者に対する反発があった。
日本政府は、それに抗議した。セオドア・ローズヴェルト大統領は日本との友好関係維持を重視し、サンフランシスコ教育委員会に隔離をやめるよう説得し、児童は翌年戻ることができた。だが、大統領の対応は、州内の日本人移民に対する反発をさらに強めてしまい、日本人に対する暴力、家や店の破壊などのヘイトクライムが増えた」
ミナさんが眉を顰めて口を挟む。
「隔離された児童に韓国人も含まれていたんですね。この頃から、日本人と韓国人は同じように見られていたのですね」
私も慎重に言葉を選んで言い添える。
「カリフォルニア州の反日感情が、外交レベルにまで発展することが、よくわかりました。内政と外交がリンクする実例ですね」
外交史の教科書では言及されないか、数行で済まされてしまう事例には関心がなかったが、その波紋を考えると、知らないでは済まされない。
カズヤは頷いて続ける。
「大統領は、サンフランシスコ市長と教育委員会に隔離をやめるよう説得した際、日本と移民を制限する協定を結ぶことを約束させられていたんだ。
大統領はそれに向けて動いた。その結果、1907年移民法とそれに伴う行政命令により、日本人移民がハワイやメキシコ、カナダを経由してアメリカ本土に入国できなくなった。実は、私の叔父もハワイ経由でアメリカ本土に入っているが、その道が塞がれたことになる。
日本政府は、中国のようにアメリカへの移民を禁止される法を可決されるのは避けたいと願っていたので、これを受け入れた。そして、日本政府はアメリカからの要請に基づき、アメリカへの労働者にパスポートを出さないことにした。これが、いわゆる紳士協約だ」
運転席のアリシアが口を開く。
「アメリカは日本の顔を立ててくれたってわけね。それだけ、当時の日本が国力をつけていたということね」
朔くんが尋ねる。
「労働者にビザは出なくても、留学生や駐在員、旅行者とかには出てたんですか?」
「そうだ。それから、既にアメリカに住んでいる日本人の家族も渡米を禁止されていなかった。出稼ぎのつもりだったが、思うように金が貯まらず、アメリカに定住を考えていた日本人男性たちは、それを利用して妻を迎えた。当時、日本人コミュニティの女性人口は少なく、異人種間の結婚も禁止されていたので、日本人の妻が海を渡るようになったんだ。
アメリカの日本人男性は、故郷の親戚に頼んで、妻になる女性を探してもらう。アメリカの男性と日本の女性は、海を挟んで写真や履歴書、手紙を交換する。やがて、男性は女性を自分の籍に入れ、アメリカに呼び寄せる。妻は海を渡り、アメリカに到着して初めて夫と会う。いわゆる、写真花嫁だ」
「それ、アメリカ人から見れば、理解不能で野蛮な習慣ですよね。お互い別人の写真を送ったり、嘘を書いたり、代筆してもらった手紙を送るとかもあったでしょうね」
朔くんの発言は、私の心の声を代弁していた。実際に、そういう事例があったことは想像できる。
アリシアが尋ねる。
「カズは二世よね? カズのご両親も、そのころアメリカに来たの?」
カズヤは頷く。
「私の父、前川史郎は労働目的の渡航が禁止される直前、1906年にアメリカに入国した。彼は1887年生まれで、七人兄弟の五男だった。渡米したのは19歳のとき。8歳年上の次男が、ハワイのさとうきび畑で働いて金を貯め、西海岸に渡ってロサンゼルスのリトル・トーキョーで活動写真館を経営していたので、彼を頼っての渡米だ。
史郎は活動写真館の2階に間借りし、アイルランド系アメリカ人のアーサーが経営する広大な農場で働いた。賃金は安く、農場監督にこき使われた。しかし、兄が衣食住を提供してくれたおかげで、節約すれば雀の涙ほどの貯金はできた。
母のハナは写真花嫁だ。2人は愛媛の親戚を通して写真を交換し、一度も会わないまま籍を入れた。1914年春、ハナは史郎が送った船賃で、彼の写真と結婚証明の書類を胸に抱いて海を渡った。
2人は西ロサンゼルスに家を借りて新婚生活を始めた。みかん農家の娘だった母は丈夫で忍耐強く、父と同じ農場で労働に励んだ。2人は子供の名義で土地を持つことを夢見てひたすら働いていた。1918年に私が生まれたが、しばらくして、その夢は閉ざされてしまうんだ」
ジョージが腑に落ちない表情で問いかける。
「グランパ、何があったの? 子供の名義って、どういうこと?」
「1913年に。カリフォルア州議会で外国人土地法が成立した。市民権を取得できない外国人の土地所有、3年以上の賃借を禁じる法だ。日本人を含むアジア系は帰化不能外国人に分類されるので、これは農業で成功した日本人を締め出す法だ。一世のなかには、市民権を持つ二世の名義で土地を所有するものもいた。アメリカは出生地主義だから、私のようなアメリカ生まれの二世は、自動的に市民権がもらえるからね。だが、1920年の法改正で、日本人の借地権も取り上げられ、この抜け道が塞がれてしまったんだ」
「そこまで、日本人が排斥されたのは、どんな理由ですか? 外見や生活習慣、英語が苦手だったことでしょうか?」
自分が英語に苦労しているので、当時の日本人の英語が十分ではなく、日本人同士で身を寄せ合っていたことは容易に想像できる。
私の問いかけに、カズヤは眉間に力を入れる。
「富士美さんが言ったような外見や生活習慣に基づく人種的偏見、それから日本の極東への軍事的進出に対する恐れ、日本人が低賃金で休みなく働き、白人と競合したことが絡み合ったのだろうね。そんな排日の声を大きくしたのが購買部数を増やしたい新聞、地元の声を吸い上げて支持を広げたい政治家だ。投票権のない日本人は叩いても選挙に影響がないからだ。
日本人は都市労働者として排斥されると、定住を指向して農業に進出した。手がつけられない荒地を豊かな土壌に変える日本人は白人の強力な競争相手となり、それが排日気運を高めた。その結果が外国人土地法だ。同じような州法は、オレゴン州、ワシントン州、アリゾナ州などでも成立した」