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澪標 17
あなたと分かち難く結びついた冬の荒海が、1年前と変わらずに、そこにいた。
鉛色の空も、飲み込むように襲いかかってくる荒波も、波消しブロックに乗り上げて生まれる無数の白い泡も、あの日と変わらなかった。無数の生命を育み、飲み込んできた海水の匂いも、力強く鼻腔に侵入してきた。
1年前のあなたと私だけが、もうどこにもいなかった。
太古から繰り返されてきた自然の営みの前には、1年など、まばたきよりも短い時間だと思った。
風は、あの日よりも穏やかだった。マスクをかけている2人には、大声を出さなくても話ができるのはありがたかった。
あなたと私は、人気のない砂浜をしばらく黙って歩いた。あなたの背中が遠ざかるのが怖く、横に並んで歩いた。
やがて、あなたは歩みを止め、私を正面から見据えた。
「いろいろ考えたのですが、僕はあのような状態になってしまった妻を見捨てることはできません……。勝手なことを言って、本当に申し訳ございませんが、あなたと一緒になることはできなくなってしまいました」
一言も弁解しない潔さがあなたらしかった。
あなたに思いつく限りの罵詈雑言を浴びせ、会社に訴えてあなたを難しい立場に追い込むこともできた。新型コロナウイルスさえなければと恨むこともできた。
だが、あなたを苦しめようという思いなど、これっぽっちも湧いてこなかった。
「最初からわかっていました。あなたがご家族を捨てることなどできないと」
「何と御詫びを申し上げていいかわかりませんが、本当に申し訳ございません。コロナさえなかったらと思います」
あなたは深々と頭を下げた。砂浜にあなたの涙の染みができた。
「もう、やめてください。コロナがなくても、いずれこうなるとわかっていました。コロナはただのきっかけにすぎません」
私はいつまでも頭を上げないあなたの体を起こし、指であなたの涙を拭った。
波打ち際を歩き続けた。捨てられていた空き缶につまづき、転びそうになっても、体勢を立て直して歩いた。歩いていないと、悲しみで崩れ落ちてしまい、二度と立ち上がれなくなると思ったから。あなたの目の前で、荒波に飲まれてしまいたい衝動もあった。それでも、こうなってよかったのだという思いが、私の中にたゆたっていた。
追いついてきたあなたが私の腕を強く掴み、止められない歩みを止めてくれた。心底私を案じるあなたの瞳を見て、あなたは私を愛しているとわかった。それだけで、もう十分だった。
あなたは、右手でマスクの上から私の頬に触れた。
「澪標という言葉があります。水深が十分にあり、船が航行できる通路を澪。澪を航行する船が座礁しないよう、水深などを知らせる標識を澪標といいます」
何度も声を詰まらせながら、あなたは言葉を絞り出した。
「僕にとって、あなたが……、愛するあなたと別の航路を選んだことが人生の澪標です。本当はあなたと一緒になりたかった! 残りの人生をあなたと共に歩きたかった……。僕はあなたと別れてまで、もとの航路に戻ることを選びました。だからこそ、これから何があっても、その航路から外れてはならないと思います」
「それでこそ、私が愛したあなたです」
「僕は、航路を外れそうになるたびに、ここであなたと別れたことを思い出します……」
自然に笑みがこぼれた。私たちは万感の思いを込めて、互いへの感謝と謝罪の言葉を交わした。
なぜ、私たちは出会ってしまったのかと運命を恨んだこともあったが、確かに意味があったのだ。