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連載小説「クラリセージの調べ」1-4


 コートを着ていても木枯らしが肌を刺す一月の日曜だった。市川家と鈴木家は、結翔さんの友人が経営する小さな喫茶店を貸し切りにし、初めて顔を合わせた。

 当初は両家の両親と私たちで6名の予定だった。だが、数日前になって、「私だけ、まだ澪さんに会っていない」と言い張る二番目の姉 きぬさん(36歳)が加わることになった。

 男性はスーツかジャケット、女性はワンピースやスーツ姿で、自然とかしこまった空気が醸し出される。飲み物だけの席だが、垂れ込める雲の隙間から注ぐ冬のとコーヒーの芳香、店内に流れるヒーリングサウンドが上質な空間を作ってくれる。私は出窓に飾られたアロマティカスとユーカリの鉢に目を引き付けられる。新居では、ハーブや紫蘇を育てて料理に使おうと決める。

 両家の親たちは、教師の家同士でつながれたことに上機嫌に見える。
 私の両親は、 ZOOM対面のとき、敷地内同居を心配し、結翔さんに私のことを何度もお願いしていた。だが、快活な市川家の両親と対面し、ひとまず安堵したようだ。

 式は市内の神社、コロナ禍なので参列者は少数の親族のみ、披露宴は開かないと予め決めたことを確認し、友好を深めるための雑談に移る。

「長女と次女の式は、私の教え子が司会をしている那須の式場で盛大に挙げたんですよ。親戚や娘の同僚、町内会の皆さんにも来てもらってね」
 義父の康男さんが誇らしげに胸を張る。
「お色直しを5回して、華やかだったのよ。一生に一度の晴れ舞台だものね。絹のときは、たまたま美容師があたしの教え子で、ずいぶんわがままを聞いてもらったわね」
 義母の糸子さんが得意そうに言い添える。
「同僚がみんな先生だから、どのスピーチもこなれていた。歌もかくし芸も良かったね。生徒も来てくれて歌を歌ってくれたな」
 康男さんの言葉に、糸子さんが絹さんと「そうだったね」と誇らしげに頷き合う。
「結翔は長男だから、コロナじゃなければ盛大にお披露目したかったのよ。コロナが収まってからやればいいと何度も言ったのに……」

「納得して決めたことだろう。もう蒸し返さないでくれよ。おふくろだって、感染者が出て重症化したら後味悪いだろ」
 結翔さんが愚痴を続けそうな糸子さんを止めてくれたことにほっとする。

 結翔さんは姉二人の豪勢な結婚式にしらけてしまったという。自分のときは、シンプルにしたいと思ったが、両親は彼のときには一番お金をかけると意気込んでいたらしい。私も、小柄で痩せ型で自慢できる容姿ではなく、派手なお披露目にも興味がないので、彼が両親を説得してくれたことに安堵した。

 私は、康男さんがときおり舐めまわすような視線で私を見ることが引っかかっている。視線かぶつかると、気まずそうにそらされるので、息子の嫁になる女性を観察したいのだろうと気に留めないことにする。

「ねえ、澪さん」
 親たちが教師時代の話に花を咲かせ始めたとき、対面の絹さんがアクリル板越しに顔を近づけて話しかけてくる。
「澪っていう字、なんかエロいよね」
 絹さんは、赤みの濃い唇の端に、にやにや笑いを浮かべている。

「姉ちゃん、何だよ、その言い方」
 結翔さんが、即座にたしなめてくれたが、絹さんが悪びれる様子はない。

 からかわれているのか、悪気のない発言なのか判断できず、無難に流すことにする。
「あはは、澪はれるという字と似ていますね。でも、澪という字のさんずいの右側はしたたるで、れるとは違うんです」

「したたるも、何かエロくない? 澪さん、何か色っぽいし、実は魔性の女? 結翔、気を付けないと」

「姉ちゃん、いい加減にしろよ」
 結翔さんは眉間にしわを寄せる。

 顔を引きつらせる私を前に、絹さんは、細目に嘲笑するような笑いを張り付けている。こうしてみると、絹さんは糸子さんと並ぶと顔の造りがそっくりだ。二人ともショートカットなので、親子というより姉妹に見える。

 初っ端から侮辱されたのは悔しいが、余裕を見せるように笑みを張り付ける。
「紛らわしい字だから、よく間違われるんですよ」
 字を間違えられたことはあっても、そんな品のない言い方をされたのは初めてですと言いたい思いを飲み込む。国語教師の父が『源氏物語』の「澪標みおつくし」からつけてくれた名前を揶揄され、初端から悪い印象を抱いてしまう。

 不愉快な思いを抱え、カモミールティーをすすっていると、糸子さんが話を向ける。

「澪さんは、結婚したら、お仕事辞めるのよね? 高崎まで通うのは大変だもんねぇ。そこまでして続ける必要はないわよね」

「澪はいまの会社を3月で退職するんだ。その後、こっちで就職する予定。いま就活中」

「あら、そうなの。でも、こっちでは、ろくな仕事がないでしょう。そんなに無理して働くことないわよ」

 私の両親や祖父母は、教師や公務員に価値を置き、それ以外を低く見ているところがある。糸子さんの発言にも、同じ考えが透けて見える。

「澪さんも結翔も、当然子供を考えてるでしょう。澪さんも、いい歳なんだから、子づくりに専念したら? もし、不妊治療ということになったら、仕事をしていると休みにくいでしょう」

 糸子さんの露骨な言い方に、私の両親が厳しい面持ちになる。
「お気持ちは嬉しいですが、澪が仕事を続けるかは本人に決めさせてやってくれませんか。これでも、今の会社では主任なんですよ」
 
 私の心情を慮り、父が穏やかに口を挟んでくれる。それに力を得て、私も言うべきことは言うことにする。

「もちろん、子供は早くほしいです。私の年齢では急がないと高齢出産になりますし。でも、将来のために仕事は続けたいです。妊活、出産、子育てにはお金がかかるので」

 子供のことを意識すると、下腹が反応したように熱を持つ。子供を切望する私は、葉酸のサプリメントを摂り、食事にも気を付け、身体を冷やさないようにしている。
 
「あら、市川家の跡取りに関わることは、当然うちが援助するわよ。澪さんは、跡取りを産んでくれる大切な方なんだから、体をいたわってほしいの」
「そうだね。澪さんは命がけで結翔の子供を生んでくれる人だからね」
 康男さんは腕組みをして神妙な顔で言う

「お心遣いありがとうございます。澪の子は、私たちにとっても、大切な孫です。うちでも、できるだけ援助させていただきます。出産となったら、うちに里帰りさせてください」
 私の母が対抗するように言い添える。

「何もしないのも気が引けるので、仕事は探します」
 両親の援護を頼もしく思いながら、私も意思を示す。

 糸子さんは、待っていたかのように、トーンの上がった声で提案する。
「何もしないのが気になるなら、たまに孫の世話を手伝ってもらえないかしら?」
 
「お孫さんというと、絹さんのお子さんですか?」
 母が糸子さんと絹さんの顔を交互に見ながら尋ねる。

「そうなの。皇太郎こうたろうっていうのよ。皇帝の皇に太郎ね。あたしが幼稚園にお迎えにいって、絹が迎えに来るまでうちで預かってるの。あたしも、ママさんバレーのコーチをしてるからメンバーとランチに行きたいときもあるのよ。それに、日曜の子供食堂の打ち合わせが平日に入ることもあるの。そういうとき、澪さんが手伝ってくれると本当に助かるのよ。うちのお父さんは役立たずだし」

「お孫さん、皇太郎くんというのですね。立派なお名前ですね。おいくつですか?」
 母が尋ねる。

「もうすぐ4歳になります。母が手伝ってくれるので、学校に戻れたんです」
 絹さんが誇らしげに答える。

「そうですよね。私も両親と義母の助けがなければ、仕事をしながら澪を育てるのは無理でした。教師の家はそうやって乗り越えてきたのですよね」

「あの頃は、今みたいに長い育休なんてなかったから、大変だったわね。イクメンなんていう言葉もないから、旦那は頼りにならないし」
 糸子さんが早速調子を合わせる。

「市川さんは、その時代にお仕事を続けながら3人も育てたのですから、頭が下がります」
 母と糸子さんは同士のように頷きあい、父と康男さんは気まずそうに目を伏せる。

 糸子さんは私に向き直って言い添える。
「だからね、澪さん。子供ができたときの練習だと思って、たまに手伝ってよ。私もお父さんも、もう年だからさ」
 糸子さんの細い目は、断るなど論外と言いたげに光っている。

「私でよろしければ……」
 時々手伝う程度なら、断る理由がなく、私は深く考えずに承知した。何よりも、初端から波風を立てたくなかった。

 絹さんが「悪いわね、澪さん。でも、いいお母さんになる準備ができるよ」と上から目線でのたまう。


                 ★
 両親と実家に帰ると、自室のベッドに倒れこんだ。体の芯から凝り固まったような疲れが、じわじわと染み出してくる。

 今までは、実家に帰ると劣等感を思い出すので、めったに帰省しなかった。だが、今は頼りになる実家があることが嬉しいのが皮肉だ。

 小学校から使っていた勉強机と椅子、壁に飾った亡き愛犬ナナの写真を目にすると感傷的になる。家族が切望する進学高校に落ちた日も、第一志望の大学に落ちた日も、ここに横たわり、ナナの写真を見ていたことを思い出す。少女時代は、それなりに苦しかったが、いま思えば私は安全な場所にいたのだと気づく。

 私が結翔さんと仲睦まじい夫婦になり、健康な後継ぎを生み、嫁として合格点をもらうこと。これが、祖父母や両親を喜ばせる最後のチャンスになるだろう。絶対に上手くやらなくてはと心を決める。

「澪、お茶が入ったわよ」
「はいっ!!」
 決意表明のような大声が出たことに驚いたが、その勢いで階下に降りる。

 ダイニングテーブルにつくと、見慣れた若草色のテーブルクロスが目に入る。庭でもいだ柚子が無造作にかごに盛られている。両親が柚子の香りが好きで、冬には湯舟に柚子が浮いていた。結翔くんと私の思い出を彩る香りでもあるので、新居でも柚子湯をしようと決める。

 傾いた陽が、庭の隅にあるナナの小屋に注ぐ。差し込んでくる西日が、家具の傷みや色落ちをさらけ出している。テーブルや椅子は随分年期が入ったが、少女時代から親しんだものだ。家族三人で座ると、自分がまだ娘でいられることを確認させてくれる。

 春先に迎えた柴犬の雑種のタケルが寄ってきて、くんくんと私のスリッパの匂いを嗅ぐ。タケルを撫でながら、次に帰るときは里帰り出産にしたいと願う。 

 
「いやあ、あの家族はかなり曲者くせものだな」
 父が車のなかで何度もぼやいたことを繰り返す。
「特にあのお母さんと絹さん。強烈だったわね」
 母が市川家の手土産のどらやきの箱を開けながら、鬱憤を吐き出す。

「でも、澪たちの会話に聞き耳を立てていたら、絹さんが澪の名前をからかったとき、結翔くんが澪側に立ってくれたな。私たちがZOOMで念を押したのが良かったのかな」
「もちろん、私も聞いてたわよ。あの字を『れる』と勘違いするなんて、本当に教養がないわね」
「私が熟考してつけた名前をバカにしやがって。結翔くんが言ってくれなかったら、私が言ってやったよ」

「結翔くんは頼りになるよ。糸子さんの癖が強いのがわかってるから、結婚式の件も私たちの希望を貫いてくれた。それに、離れの合鍵を頑として両親に渡さなかった。来るときはお客様のようにチャイムを鳴らしてと言ってくれた」

「向こうのご両親がそれを破るようなら、結翔さんを通して、はっきり言ってもらうのよ。澪が直接言うとかどが立つから。糸子さんは押しが強いから、ルールを決めても、なあなあにしてしまいそうだし」

「気を付けるよ。結翔くんと協力して、上手くやるから心配しないで!」

「向こうの家でトラブルがあったら、いつでも言うのよ。私たちが出ていって澪を守るから……」

「ありがとう、頼りにしてます」 
 いつもは厳しい母の声に、湿っぽい響きがした。私は目頭が熱くなったのをごまかすように、足元のタケルに目を落とす。 

「いろいろあったけど、これで澪も、ちゃんとしてくれたわね」
 母が感傷的な空気を一新するように言い、私の顔を見つめる。
「ああ、ちゃんとしてくれて安心したよ。あとは孫を待つだけだな。孫が来てくれたら、タケルとも遊べるだろう」
 父が茶碗を両手で包み、しみじみとした声で言う。

 両親のいう「ちゃんとする」は、結婚して子供を生むことを意味するのだろう。今までの自分がちゃんとしていなかったと言われたようで、複雑な気分になるが、ちゃんとしたいのは私も同じだ。


               ★
 式は木漏れ日が美しい春。高齢の祖母が寒さで体調を崩さないように配慮した日程だった。

 感染防止対策のために、参列は少数の親族のみ。市川家は義父母と紬さん、絹さん家族。鈴木家は両親と父方の祖母。参列できない親族や友人に送るために、写真を前撮りした。

 
 雅楽の演奏に導かれ、白無垢の裾を気にしながら、大鳥居から境内、神殿へ、しずしずと進む。小山で過ごした娘時代から、東京での大学生活と会社員の日々を思い出し、しばし思い出と戯れた。隣にいるのが、かつて愛した人だったらという思いが一瞬だけ脳裏をかすめたが、これ以上ないほどの夫が傍らにいる幸せに浸る。

 式のあいだは、作法を間違えないかで頭がいっぱいで、優美な巫女の舞にも、両家が結ばれる儀式にも感慨を覚える余裕のないまま終わってしまった。残ったのは、やり遂げた充実感だった。紬さんと絹さんは、子供が大人しくしていたことに安堵していた。

 会食はしないので、参列者に折詰とカタログギフトをお渡しした。義両親は、簡素すぎると不満をにじませていたが、会社員時代の親友もオンライン結婚式を挙げたことを思うと気にならなかった。むしろ、マスクを外す会食で、感染者が出なかったかと心配しないで済むのがありがたかった。

 糸子さんが、帰ったらお赤飯を炊いて隣組に配ると言ったときは、そんな習慣があるのかと面食らった。結翔くんから、糸子さんは、ご近所にかなりの影響力があり、頼られる模範的な家でありたいという意識が強いと耳打ちされた。結翔くんと義両親とともに、お赤飯を持って近所を回りながら、糸子さんの顔を潰さない嫁にならなければと思った。

 出来上がった婚礼写真は、少し緊張気味だが、結翔くんの隣でなかなか美人に写っていた。私の祖父母、会社員時代の親友の評判も上々だった。