連載小説「クラリセージの調べ」4-4
聞きなれた雀の声が一日の始まりを告げる。ベッドに横たわったまま、枕元に右手を伸ばす。一年以上続けている習慣なので、難なく婦人体温計を探り当てる。舌下に体温計を入れ、眠気に引きずられて目を閉じる。危うく寝落ちしそうになった頃、かすかな電子音に引き戻される。
寝ぼけ眼をこすり、示された体温を凝視する。アプリの予想では、一昨日で高温期が終わるはずだったが、昨日も基礎体温は高いままだった。どうせ、今日あたり下降すると思っていたが、予想に反して高いままなのだ。
私は基礎体温の山と谷がはっきり出るほうで、生理もほぼ28日でやってくる。
ここ数日冷えが厳しいので、厚着して眠っている。布団のなかで身体が温まりすぎたせいで高いのかもしれない。いや、前の生理から排卵誘発剤の服用を始めたので、その効果ではないか。
全身を熱いものが駆け抜け、鼓動が高まっていく。結翔くんは静かな寝息を立てている。まだ早い、早とちりだと自分を諫める。フサちゃん先生には、生理が一週間遅れたら受診するよう言われているのだ。
普通の妊娠検査薬は、尿中のヒト絨毛性ゴナドトロピン(hCG)が50mIU/ml以上になると反応し、生理予定日の一週間後から検査できる。だが、早期妊娠検査薬は、尿中のhCGが25mIU/ml以上で反応し、生理予定日から検査可能だ。既に予定日から二日経過している。今まで、基礎体温や生理に、散々気持ちをかき乱され、振り回された記憶が次々と脳裏を過る。授からないことで、どれだけ悔しく、悲しい思いをしてきただろうか。フライングでも構わない、早期妊娠検査薬で調べてみたい。
結翔くんを送り出した後、ドラッグストアが開く時間を待って、車に向かう。頬をかすめる空気が、温かくなっている。庭の柿の木は、骸骨の腕のように細い枝を垂直に伸ばしていて、春はまだ遠そうに見える。だが、木の内部では、新緑が芽吹く準備が着々と進められていると思うと、気持ちを鼓舞される。見上げた空が、雲一つない青空であることも吉兆に映る。
大学生の頃、生理が遅れ、当時交際していた性欲の強い恋人を呪いながら検査薬を買いに行ったことを思い出す。今の自分は、あの頃と違い、誇らしい気分で検査薬を求めに行けるのだ。
ようやくあちら側に行けるかもしれないという期待と緊張が混じり、ハンドルを握る手がかすかに汗ばむ。FMから流れるIL DIVOのアメイジンググレイスに合わせてハミングしながら、陽性になったら何が起こるかを想像する。結翔くんは、どんなに喜ぶだろうか。裕美ではなく、私と結婚したことが間違いではなかったと思ってくれるに違いない。彼と二人で市川のおじいちゃんに報告する場面を想像すると口角が上がる。肩身の狭い思いをしていた義母も近所に自慢できるだろう。あの義父も、後継ぎができたことに胸を撫でおろすに違いない。ようやく、私も市川家に居場所ができるのだ。大きなお腹を抱えて出産のために里帰りする自分、誇らしげに迎えてくれる両親の顔を脳裏に描いてみる。生まれた孫を連れ、結翔くんと共に祖父母に会いに行く私は、何とも幸せそうな顔をしている。私は両親の言う「ちゃんとする」を実現できるかもしれない。子供は何と多くの問題を解決してくれるのかと改めて思う。
女性薬剤師がレジにいるタイミングを見計らい、日本で唯一販売されている早期妊娠検査薬「チェックワンファスト※」を購入したいと申し出る。念のため、二回検査用を希望する。現物を持って戻ってきたアイラインの濃い薬剤師から注意事項を説明され、支払いを済ませ、紙袋に入った検査薬を受け取る。この箱の中身が幸せを運んでくれると思うと、思わず胸に抱きしめてしまう。
(※ 2023年9月に販売中止。澪が使用するのは2023年2月)
帰宅すると、手洗い、うがいをする時間さえもどかしく、紙袋から箱を取り出し、説明事項を貪り読む。hCG濃度の高い朝一番の尿で検査するのが理想だと知っているが、はやる思いを抑えられない。検査薬はもう一本ある。明日の朝もう一度検査すればいい。
トイレに入り、紙コップに採尿する。ほんのりと温かい黄色い液体に、チェックスティックをきっかり5秒浸す。棚の上にスティックを置いて、スマホのタイマーを1分間にセットし、便座に座ったまま目を閉じる。視覚が閉ざされ、鋭敏になった耳に、前の通りを往来する車の音、間の抜けたカラスの声が大きく響く。グレープフルーツの精油でつくった消臭スプレーの芳香とかすかなアンモニア臭が鼻腔をかすめる。まだだろうか……。1分をこれほど長く感じたことなどない。
ようやく鳴ったアラーム音に目を開けるが、すぐにはスティックに目を遣れず、まずは大きく深呼吸する。にわかに心拍が上がっていく。覚悟を決め、恐る恐るスティックに目を移す。
「え?」
何度見ても間違いない。二つある窓のうち、どちらの窓にも赤紫色の縦線が出ている。一つは検査が終了したことを示す窓で、もう一つは判定窓だ。もう一度、説明書を開いて確かめるが間違っていない。判定窓に陽性を示す赤紫色の縦線が出ている!
全身の細胞が騒ぎ出すような歓喜に包まれ、「やったー!!」と両腕を突き上げる。市販の検査薬の精度は99%だという。念のため、明日の朝も検査するが、じわじわと湧いてくる歓びを抑えることなどできない。
ネットで、来週のフサちゃん先生の外来が空いているかをダメもとで調べる。キャンセルがあったのか、奇跡的に午前中最後の枠が空いている。上手くいくときは、様々なものが味方してくれるというのは本当だ。
ソファにごろりと横になり、いつ誰に知らせようかと頭をフル回転させる。結翔くんだけには一刻も早く知らせたくて、あくまでも市販の検査薬の結果であること、クリニックで診断が確定するまで誰にも言わないよう念を押す文章を入れたLINEを送る。市川家には、胎嚢と心音が確認されてから報告しようと思うが、実家の親には連絡してしまう。
「もしもし、お母さん?」
受話器の向こうで、柴犬の雑種のタケルの鳴き声が聞こえる。
「ああ、澪。いま、タケルに餌をやろうとしてたのよ。もう、興奮して騒がしくて」
母の足元にまとわりついて餌をねだるタケルの姿が浮かび、口元が緩む。
「タケルの声、聞こえるよ。会いたいな」
「会いにいらっしゃいよ。お父さんも首を長くして待ってるわよ」
「うん、近いうちにいくよ」
「それで、今日はどうしたの。やけに、声が澄んでるわね」
元教師の母の観察力は侮れない。彼女は常に相手と全力で向き合い、かすかな表情や声色の変化にまで目を光らせていた。そんな母と向き合うのを疲れると思うこともあったが、今はそれが健在であることが嬉しい。
「うん。実はね……、高温期が続くし、生理も遅れているから、早期妊娠検査薬で調べたの。そしたら、陽性だった!」
一瞬の間の後、母のトーンの高い声が響く。
「まあ、おめでとう!! クリニックには行ったの?」
「3日後に、予約が取れた。明日の朝もう一度調べるけど、市販の検査薬の精度は99%で、医療機関で検査するのとほとんど変わらないみたい。受診が待ち遠しいよ」
「良かったわね。あなた、食べ物や生活習慣に気を遣って、サプリメントを服用して、本当に頑張っていたわ。市川家に入って、決して友好的ではない人たちに神経を使いながらだものね。わが娘を誇りに思うわ」
母の言葉に瞼の裏が熱くなる。鼻声になってしまいそうで、敢えて冷めた声を出す。
「まだ、クリニックで診断してもらってないし……。結翔くんとお母さんにしか言っていないから、市川家に電話したりしないでね。お父さんにも言っといて」
「わかったわ。今まで以上に身体を大切にするのよ」
電話を切ると、母に抱きしめられているような余韻に包まれ、堪えていた涙があふれる。
★
「澪!」
結翔くんは、いつもより30分ほど早く、私の好きなケーキ屋の箱を持って帰ってきた。
「本当なのか……?」
私が頷くと、彼はケーキの箱をソファに置く。両腕を広げ、ゆっくりと近づいてくると、私のお腹をかばうように優しく抱きしめる。
強く抱きしめられると思ったが、抱擁は長く優しく続く。髪を撫でる大きな手を感じながら、彼がどれほど待ち望んできたかが静かに伝わってきて、鼻の奥がつんとする。
子供を切望する彼は、実家と私のあいだで板挟みになりながらも、私を守ってくれた。私以上に気を遣い、辛い日々だったことに思いを馳せると、彼の背中に回した手にぐっと力が入る。
「良かった。本当に楽しみだよ」
抱擁を解いて見上げた彼の目はうっすらと潤んでいる。彼を見上げ、見つめ合ったまま伝える。
「3日後に、花房クリニックの若先生の予約が取れたから、そのときに診断してもらえると思う。お義母さんたちに報告するタイミングは、その結果を聞いた後で考えよう」
結翔くんは、バツが悪そうに視線をそらす。
「ごめん……。実は、あんまり嬉しくて、おふくろだけには電話で言っちゃったんだ……」
「えーっ! まだ、言わないでってLINEに書いたじゃない。もし、違ったら、何言われるかわからないよ!」
「いや……。おふくろは俺より冷静だった。まずは胎嚢が見えて、次に胎児の心音が聞こえるまでは喜ぶわけにいかないと言われた。体育教師だから詳しいんだよ」
さっきまであった幸福感が、風船がしぼむように消えていく。あのお義母さんが、自分の胸にだけ秘めておくなど考えにくい。お義父さんやおじいちゃん、絹さんたちにも伝わってしまうに違いない。3日後の受診で、胎嚢が確認できなかったら、何を言われるかわかったものではない……。
ちらし寿司をつまみ食いする結翔くんを横目に、受診への不安が膨れ上がる。