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巡礼 4-(3)

 収容所と聞いて、都が思いつくのはナチスがユダヤ人を収容したアウシュビッツだった。自由と民主主義の旗振り役のようなアメリカにも、そんなものが存在したのだろうか。
「収容所って、ナチスがユダヤ人を収容したような……?」
「幸い、そこまでひどくなかったわ。私達はひどい場所に転住を強いられたの。それへの序章は、真珠湾攻撃の日の夜から始まっていたわ。日系人社会のリーダーのような存在の一世は、法的な手続きを踏まずに、FBIに連行されていったの。日本語学校の先生、県人会の会長、仏教の開教師、柔道の先生、日系新聞の編集長や記者とかね……。日系人の家では、FBIが来たとき日本とのつながりを疑われないように、日本に関連するものを捨てたり、焼いたりしたの。刀や掛け軸、剣道の道具、日本語の本や手紙、レコードとかね。私のパパは日本贔屓で、日本軍のために募金を集めて、日本に送金していたから、FBIに連行されて、ノースダコタにある司法省管轄の抑留所に入れられたの」


「あの頃の日系人社会は、経済的にも追い詰められていったね。真珠湾の後、日系人が次々と仕事を首にされたし、貯金を下ろそうとしても、一世の銀行口座は凍結されていた。おまけに、日系人が移動できる範囲は自宅から5マイル以内に制限されて、夜9時から翌朝6時までの夜間外出禁止令まで出ていた」
「でも、あなた方が真珠湾を攻撃したわけじゃないでしょう。なぜ、そこまでひどいことになったのですか? 日本のスパイがいたとか?」都は腑に落ちない表情で尋ねた。
「日本のスパイなんていなかった。日本領事館の役人は僕達を移民だって馬鹿にしていたんだから。日系人は白人から『ジャップ』と呼ばれて差別されてきたんだよ。その感情が真珠湾攻撃で手がつけられないほど燃え上がったんだ。ラジオは連日、ジャップとがなりたて、新聞の見出しにもジャップの文字が踊った。日系の店は、『私はアメリカ人です』と看板を掲げても、石を投げ込まれてガラスを割られたり、店の中をめちゃめちゃにされたりした。白人には、日本人と日系アメリカ人の違いなんかわからないんだよ!」
 いつもは陽気なベンが、苦々しげに吐き捨てた。
「どうして、日本人はそこまで嫌われたのですか?」
「勤勉なこと、シャイで英語が下手、アメリカへの同化が遅かったのが大きな理由だろう。一世の親達は、はじめはアメリカに定住するつもりはなくて、金を貯めて故郷に帰るつもりだった。だから、英語を覚える暇もなく、低賃金に耐えて、ろくに休みをとらずに働いた。日本人が劣悪な条件でも真面目に働くから、みな日本人を雇いたがる。そうすると、白人とか他の人種が職を奪われるんだ。僕の父はガーデナーをしていたけれど、日本人のガーデナーは腕がよく丁寧に仕事をするので、白人の金持ちが日本人を雇うようになったんだ」
「日本人は、石ころや切り株だらけの荒地を血のにじむような努力で豊かな土壌に変えたそうよ。石ころを拾い、草をむしり、木を切り倒して。白人は日本人が小作人をしているあいだは許せても、土地を所有して成功してしまうと黙っていられなくなったのでしょうね。1913年にカリフォルニア州で、市民権を取得できない外国人が土地を所有すること、3年以上賃借することを禁じる州法が成立したの。当時、アジア出身者はアメリカへの帰化が認められていなかったから、特に日本人を標的にした法律よ」
「君の親父さんは、ボーディング・ハウスをやっていたんだろ?」
「その前はターミナル島で漁師をしていたの。その後、県人会の人の紹介で、日本に帰ることになった人が経営していたリトル・トーキョーのボーディング・ハウスを引き継いだの」
「ボーディング・ハウスって何ですか?」
「長期滞在型の簡易ホテル。住む場所や仕事が見つからない人がよく泊まっていたわ。毎晩、様々な訛りの日本語が聞こえて賑やかだった」


 アイリスは都が話についていけるように、ゆっくりと一つ一つの単語を丁寧に発音して話してくれた。
「1942年2月19日、F・D・ローズベルト大統領が大統領令9066に署名したの。陸軍長官と軍に、特定地域を軍管理地域に指定して、住民を立ち退かせる権限を与える命令よ。これで、西海岸とアリゾナの南あたりが軍管理地域に指定されたの。そこに住む日本人の血を引く者は、市民権の有る無しに関わらず、砂漠のなかや人里離れた10箇所の転住所に行くことになったの」


 ベンの車はマンザナーから数十キロのローンパインに入った。ベンによると、西部劇の全盛期には、この街でたくさんの撮影が行われたらしい。アメリカ本土で最高峰のホイットニー山への登り口なので、街には登山客が泊まるモーテルが目に付いた。ビジターセンターで冷房の効いた車内から出ると、むっとした熱気が都を包んだ。


 ベンが遠くに連なる山脈を指差していった。
「都、向こうに見えるのがシェラネバダ山脈。あれがホイットニー山。富士山より高いよ」
「収容所から、ウィリアムソン山がきれいに見えたわね」アイリスが懐かしそうに言った。
 雪をたたえた雄大な山並みは、思わず息を呑むほど美しかった。この景色は彼らがマンザナーに収容されていた半世紀以上前から変わっていないのだろう。都はそれを今、自分が見ていると思うと言葉にできない感慨が湧いてきた。