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連載小説「クラリセージの調べ」2-2

 キッチンの小窓から、幼稚園の制服を着た皇太郎くんが玄関に駆けて行くのが見える。車をオートロックした義母の糸子さんは、皇太郎くんのカバンを持って追いかける。

 あれからしばらく、餡や生地の試作を繰り返し、子供の口にも大人の口にも合いそうなパンを作れるようになった。出来上がった米粉あんパンは、まだほのかに温かい。

 帰宅した2人が落ち着いた頃を見計らい、母屋の呼び鈴を押す。忙しない足音とともに、お義母さんが前掛けで手を拭きながら出てくる。その背後から、おもちゃのマシンガンを持った皇太郎くんが走ってきて、私に向かってバン、バン、バンと撃った後、廊下を走っていく。半ズボンからのぞく、やわらかそうな足が眩しく映る。

「こーら、皇太郎! お客様に撃ってはダメと言ったでしょ!」
 お義母さんは皇太郎くんを怒鳴った後、私に向き直る。

「ごめんね~、澪さん。どした?」

「先日は美味しい梅干しをありがとうございました。お口に合うかわかりませんが、米粉あんぱんを作ったので、よかったら召し上がってください」

 私がパンの入ったジップロックを差し出すと、お義母さんは細い目を丸くする。
「手作りなの?」

「はい。余計なものは入れていません」

「それなら皇太郎にも食べさせられるわ。まあ、まだ温かいじゃない。ちょうど、おやつを食べさせようと思っていたのよ。助かるわ」

 皇太郎くんが、再び玄関に出てきて腹ばいになり、私にマシンガンを向ける。
「こら、皇太郎!」

「では、おじゃましました」
 私は、かがんで皇太郎くんと目線を合わせ、「またね」と微笑みかける。

「あ、待って、澪さん。よかったら、少し上がっていかない? 一緒に食べましょうよ」

「ご迷惑ではないですか?」
 
「全然。散らかってるけど、居間で皇太郎を見張っていてくれると助かるわ」

 夕飯の準備が終わっていないのが気になったが、断るのも失礼だ。好奇心も手伝い、「おじゃまします」と言って、居間に足を踏み入れる。

 そこには、私にとっての異世界が広がっていた。足元には色とりどりのブロックや絵本が散らばり、気を付けないと踏んでしまう。テレビからはアニメソングが流れている。部屋の中央には、子供用の滑り台が鎮座し、周囲にはケガ防止のマットが敷かれている。ソファとテーブルは左側に寄せられ、テーブルの脚には、ぶつかってケガをしないように座布団がしばりつけてある。棚には、男の子の好きそうなおもちゃが所狭しと収納され、午後の日に照らされている。目や耳を直撃する多様な色と音に眩暈めまいがしそうになる。

 子供中心に動いている家と、大人だけの静かな家は、流れる空気が違う。最後に子供と接したのは、コロナ前に元同僚の出産祝いに家を訪ねたときだろうか。

 小さな足で廊下を走り、居間に入ってきた皇太郎くんは、ソファに飛び乗ると、すぐに飛び降りてテーブルを挟んだ側のソファに駆けていって飛び乗る。まるで小さな台風だ。

「澪さ~ん、皇太郎がケガしないように見ててね!」
 台所からお義母さんが叫ぶ。

「は~い!」
 ソファから飛び降りた皇太郎くんは、2つのソファを全速力で行ったり来たりする。転んでテーブルに頭をぶつけたり、膝を強打したら大変だ。体が傾いたら、すかさず支えなくてはと身構える。

「皇太郎くん、何して遊んでるの?」

「にんじゃー!」
 皇太郎くんは、動きを止めずに叫び、今度は滑り台を駆け上り、周囲を睥睨してから、勢いよく滑り降りる。なるほど、山越え、谷越えかと思いながら忙しない動きを目で追う。皇太郎くんの肌は、当たり前だが驚くほどきれいで、思わず触ってみたくなる。この不思議な愛おしい生き物を自分も欲しいという思いが胸を熱くする。

「長野のちびっこ忍者村に行ってから、忍者ごっこに夢中なのよ。いつ転ぶかと思うと、目が離せないわよね」
 パンの乗ったトレイを持ってきたお義母さんが愚痴をこぼすが、言葉の端々に愛おしさがにじみ出ている。

 お義母さんは、皇太郎くんを羽交い絞めにして座布団に座らせてから、手をアルコールティッシュで拭いてやる。幼稚園でも何度も消毒しているのか、皇太郎くんの手の甲がかぶれているのが痛々しい。

「澪さん、悪いけど、台所から麦茶のトレイを持ってきてくれる? 出してあるから」

「あ、はい」
 母屋の台所には、親戚が集まる食事会のとき手伝いに入ったことがあり、勝手がわかっている。トレイには、皇太郎くん用のプラスチック蓋とストロー付きのマグ、大人用の麦茶のグラスが2つ乗っている。

「ありがと。さあ、いただきましょう」
 お義母さんは、パンを一つ取って頬張る。

「まあ、ふんわりして美味しい。これなら大丈夫ね」
 義母に褒めてもらえたことで、ほのぼのとした満足感に満たされる。今夜、夫に報告しようと心に小さな灯りがともる。

「さ、皇太郎も、パンパンいただきましょ」
 半分に千切ったパンを手渡された皇太郎くんは、ぱくりとかぶりつく。
「美味しい?」
 お義母さんに尋ねられ、皇太郎くんは、小さな口をもぐもぐ動かしながら頷く。

 それを見た瞬間、全身の細胞が騒ぎ出したかのような歓喜に包まれる。あの絹さんの息子が食べてくれてこんなに嬉しいのなら、自分の子が食べてくれたらどんなに幸せだろうか。早く子供を授かりたい、授からなくてはという焦りが胸を締め付ける。

「すごいわね、澪さん。こんなの作れるんだ」

「いえ、材料を入れると機械が生地を作ってくれるんです。米粉パンでも小麦粉パンでも作れます」

「でも、すごいわよ」

 お義母さんが、皇太郎くんがパンを喉に詰まらせないよう、タイミングを計って麦茶を飲ませながら大げさにほめてくれる。

「他には、どんなパンを作るの?」

「一人暮らしのときは、よもぎパンやヨーグルトパン、ミルクパン、米粉のパウンドケーキをよく作りました。ピザ生地を作って、好きなものを乗せてオーブンで焼くこともありました」

「まあ、聞くだけでよだれがでそう。あぁっ、ひゃあ、大変!」
 マグを取ろうとした皇太郎くんの手がグラスにぶつかり、お義母さんの麦茶がこぼれてしまった。皇太郎くんの半ズボンにもかかってしまう。

 私は咄嗟に、布巾でテーブル上にこぼれた麦茶を拭き、床に垂れた水滴をボックスティッシュで拭きとる。皇太郎くんは、廊下を走っていってしまう。

「ああ、もうー。皇太郎、ズボンをお着替えしないと」
 お義母さんは、布巾を置いて皇太郎くんを追いかけながら、私に叫ぶ。

「澪さん、悪いけど、残りのパンをおじいちゃんとお父さんに持っていってくれる? 温かいうちに食べてもらって」

「わかりました」
 私は台所で麦茶をグラスに注ぎ、パンと一緒にトレイに乗せる。おじいちゃんのいる奥の部屋に入ることはめったにない。テレビの音が聞こえる部屋をノックすると、少しの間があってから、扉が小さく開く。

「澪さん、来てたのかい?」
 部屋着で出てきたお義父さんは、私が持っているトレイよりも、胸元に鋭く視線を走らせる。

「お邪魔しています。パンを持ってきたので、温かいうちに召し上がってください」

「ああ、ありがとう。じいちゃん、澪さんがパンを持ってきてくれたよ」

 お義父さんがドアを大きく開くと、背もたれを起こした介護用ベッドに横になっているおじいちゃんが見える。部屋の空気は澱んでいて、亡き曾祖母が臥せっていたときを思い出させる。

「おじゃましてます」
 私が声をかけると、おじいちゃんは枯れ木のように細くなった手を小さく上げて振る。萎んだ目が、ほほ笑むように、かすかに下がる。
「澪さん、いらっしゃい」
 嗄れているが力強い声に安堵する。
「入っておいで。こっちにちょうだい」
 導かれるまま部屋に入ると、おじいちゃんがトレイに手を伸ばす。
「あんぱんです」
 食べやすいように千切って渡すと、麦茶を飲みながらゆっくりと咀嚼してくれる。
「甘くて懐かしい味だね。ありがと」

 部屋を出るとき、「結翔をよろしくね、また来てね」としわがれた声で言われる。眼差しは慈愛に満ちていて、家族として受け入れられた歓びを実感する。

 廊下を歩いているとき、背後から強い視線を感じた。振り返ると、お義父さんがさっと身を翻して部屋に入った。

「ああ、ありがとうね。ようやく着替えさせたわっ!」
 お義母さんが、おもちゃの刀で皇太郎くんとちゃんばらごっこをしながら答える。お義母さんは、子供に負けない体力がありそうで、預ける絹さんは頼もしいだろう。私も祖父母や両親が元気なうちに孫を見せたいと改めて思う。

「バタバタしていてごめんね~。子供がいると落ち着いてものも食べられないのよっ」

「大変ですね。でも、にぎやかで幸せですね」
 子供を持った友人も、ゆっくりご飯を食べられないとぼやいていたことを思い出す。私も早くそんな悩みを口にしたい。

「そうね。まあ、毎日続くとねえ」
 お義母さんは刀で打ち合いながら、思い出したように続ける。
「そうだわ、澪さん。悪いんだけど、もう少し皇太郎を見ててくれないかしら? ささっと、夕飯の準備をしちゃいたいのよ」

「いいですよ。どうすればいいですか」
 もう少しこの場に身を置いていたかったので、迷わず言葉が出た。

「悪いわね。ケガしないように見ててくれればいいのよ」
 お義母さんは、刀の打ち合いを止め、皇太郎くんの頭をなでながら伝える。
「ばあばは、お料理するから、澪おばちゃんと遊んでてね」

「皇太郎くん、おばちゃんと遊ぼうか?」

 皇太郎くんは不満げに身をよじらせ、人見知りをするように祖母の脚にまとわりつく。

「嫌われてしまったようですね……」

 皇太郎くんは、刀を持ったまま廊下に出ていってしまう。

「きれいなお姉ちゃんだから、緊張してるのね。ここにいてくれればいいわよ。廊下で刀を振り回してるだろうから、たまに見てあげて」

 廊下を覗くと、皇太郎くんがおもちゃの刀を持って、所在なさそうに佇んでいる。

「皇太郎くん、おいで。おばちゃんと遊ぼ」

 皇太郎くんは、警戒するような目つきで私を見ながら、渋々戻ってきてくれる。

「こうくんが、にんじゃ1ごう。にんじゃ2ごうね」
 皇太郎くんがぶっきらぼうに告げ、私を指さす。

「はっ。拙者、忍者2号でござる」
 私は『忍者ハットリくん』のように片膝を立てて座わる。

「2ごう、ついてこいっ!」

「はっ。兄者についていきます!」

 皇太郎くんは、滑り台の階段を駆け上がり、片手を額にかざして周囲を見回してから、すっと滑り降りる。

 小さな滑り台が私の重さに耐えてくれるか不安なのでやめておく。
「兄者、拙者は体が大きいので、滑り台は無理でござる」

「では、ついてこい!」
 皇太郎くんは、テーブルの周囲を走り回り、私はそれを追いかける。廊下を往復し、居間に戻るのを繰り返しながら、たまに偵察のために物影に身をかがめる小さな背中を追う。

 皇太郎くんがめいっぱい走り回り、忍者ごっこに飽きた頃には、私は汗だくになっていたが心地良い疲れに包まれていた。

「しゅりけん、みせてあげる!」
 皇太郎くんは、おもちゃ箱のなかからビニール袋を取り出し、折り紙でつくった手裏剣をばらばら出す。

「ゆうとおじちゃんが、かたなをかってくれたとき、ばあばがつくってくれた」

「わあ、きれいだねえ」
 色とりどりの手裏剣を床に並べる皇太郎くんの上気した頬を眺めながら、子供がいる生活を心からうらやましく思った。

「結翔おじちゃんと遊ぶの楽しい?」

 こくりと頷く皇太郎くんに尋ねる。
「何して遊ぶの?」

「ボールなげ。おおきくなったらグローブくれるって。やきゅうおしえてもらうの」

 それを聞くと、はやく結翔くんをお父さんにしてあげたいという思いが新たになる。

 お義母さんは、帰り際に私の腕をがっしりつかみ、またおやつを持って遊びにきてと念押しした。皇太郎くんが美味しいと言ってくれたことを思うと胸が温まり、次は何を作ろうと楽しみになる。


                
 離れに戻ると、誰もいない静けさに母屋との違いを感じ、寒々とした気分に襲われる。味噌汁の具材を刻む包丁の音が、がらんとした空間に響く。早くこの家を子供の声で満たしたい。そう思ったとき、腰が張っていることに気づく。そういえば、けさ高温期が終わったのだ。下腹に差し込むような鈍痛を覚え、トイレに走る。赤く染まったペーパーが流れていくのを見送りながら、いつも以上に深い絶望が胸を切り裂く。

 月のものの初めは、子宮の収縮で腹や腰が痛む。私はアロマディフューザーにクラリセージの精油を垂らす。実家の両親も結翔くんも、緑の匂いが強すぎると嫌うが、私には心安らぐ香りだ。通経作用があるため妊娠初期には禁忌だが、月のものが来てしまった私は、痛みを和らげるために、この香りのお世話になる。来月はお世話になりたくない、なってはいけないと気持ちを新たにする。

   

              ★
「やっぱり、コロナで部活が休みになった影響は後を引いている。せっかく積み上げてきたものが失われた生徒は、鍛えなおしで大変だよ」

 風呂上りの結翔くんは、タオルで髪を拭きながら食卓につく。

「毎日やっているから維持できる技術ってあるよね」

 私は結翔くんに答えながら、茶碗に玄米をよそって渡す。
「あ、今日、母屋に米粉あんぱんを持っていったの。皇太郎くんとお義母さんが美味しいって食べてくれて、お義父さんとおじいちゃんにも持っていった。おじいちゃんも食べてくれた」

「そうか。よかったな」
 
 結翔くんは、安堵したように、牡蠣かきフライにソースをかけ、玄米の上に乗せる。妊活中の我が家では繊維質の多い玄米が主流だ。亜鉛の多い牡蠣は、精巣の働きに作用するので定期的に食卓にのぼる。

「お義母さんが、またおやつを持って、皇太郎くんと遊びに来てと言ってくれたの。何だか嬉しかった。どのくらいの頻度で行くのがいいかな」
「澪に無理のないようにすればいいよ。皇太郎、パワフルだから疲れるだろ?」
「確かに。でも、子供がいる家って本当にいいね。結翔くん、皇太郎くんに刀を買ってあげたんだってね。大きくなったら、グローブ買ってもらって、野球を教えてもらえるって喜んでたよ」
「ああ」
 結翔くんは、鼻の上にしわをよせて少年のような笑みを見せる。甥っ子が、彼にこんな優しい顔をさせることに胸を打たれる。
「早く結翔くんをお父さんにしてあげたい」
 胸の奥から湧き出すように言葉が出る。

「焦らなくていいよ」
「ううん。私も一日も早く母親になりたい。今日、皇太郎くんと遊んで、改めてそう思った。頑張らないと……」

 私は箸を置き、悲観的に響かないように切り出す。
「今月もまたダメだったみたい……。そろそろ真剣にならないと」

「そうか。でも、その……、去年のクリスマスから初めて、まだ半年と少しだろ。気楽にいけばいいんじゃね?」
 結翔くんは強張った空気を和ませるように言葉を紡ぐ。

 彼のポジティブな言葉は、私を気遣ってのこととわかっている。それでも、猫が毛を逆立てるように、神経がささくれ立つ。女性のリミットは男性より深刻だ。焦燥感と落胆を彼にも同じ温度で感じてほしい。そのことを訴えたいが、食卓で生々しい話をしたくないので口を噤む。



 私は週に一度、米粉パンを持って母屋を尋ねるようになった。皇太郎くんが、次第に私に懐いてくれるのは素直に嬉しい。糸子さんは、遊びのお相手、絵本の読み聞かせ、着替え、おやつなど、いつもしていることを一つ一つ私に任せてくれる。私は、将来の練習だと信じ、できることを増やしていく。授かるためにできることが限られているなか、少しでも生産的なことをしたい一心だった。