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「巡礼」34

 ミツアキ・ハラダは、ラホヤの高層マンションの1室で3人を迎えた。半世紀ぶりの再会を果たした2人は玄関先で固く抱き合い、互いに年をとったなあと肩を叩きあった。
 86歳を迎えるミツは写真の面影が残る長身の老紳士で、小柄で恰幅のいいベンと並ぶと大人と子供のようだった。彰と同じ瓜実顔だが、彰の視線が自信無げに泳いでいたのに対し、ミツの目には相手を説き伏せるような力があった。都は、この違いが、2人の対照的な人生を象徴しているように思えた。

 3人を書斎に案内した彼は、自ら香りの良いアイスティーを運んできた。今日はメキシコ人のハウスキーパーに休みを出したという。彼の歩調はゆっくりだが、背筋はぴんと伸び、ジムで鍛えているせいか無駄な肉はついていなかった。彼は椅子にゆったりと腰を落ち着け、広い執務机の上で手を組んだ。3人は向かいに置かれたふかふかのソファにかけて彼と向き合った。彼の背後にある本棚には、貿易や法律関連の書籍がぎっしり詰まっていた。本棚の横に置かれたガラスケースの中には、日系の上院議員をはじめ著名人と並んだ写真が並び、成功したビジネスマンとしてのキャリアを誇示していた。都は彰の侘しいアパートと、隠れるように生きてきた人生を思うと、複雑な思いがした。

 彼は固くなっている都に優しい目を向け、日本語で言った。
「都さん、いい名前ですね。昔、同じ名前の日本人女性を好きになりました。私のことはミツと呼んでください。日本語を話すのは下手ですが、聞くのは大丈夫」

 初端から宮子を思わせる発言が出て、都は息が止まりそうになった。だが、彼の優しい眼差しと口調に、自分の拙い英語が彼を苛立たせないかという懸念は払拭された。

 都がインタビューを録音していいか尋ねると、彼は快く承諾してくれた。
「MISのことは、もう60年近くも前だから、記憶違いがあるかもしれない。勘弁してくださいね」

「心配ないよ、僕のほうがよく覚えている。変なことをいったら、訂正してやる」
 ベンが茶化すと、ミツは何を暴露されるか怖いねと軽く肩をすくめて見せた。

都は英語に切り替えて尋ねた。
「細かい部分は、できる限り公文書と照らし合わせるので大丈夫です。まず、御両親の出身地や職業を教えていただけますか」
 
「父の橋之助と母のシノは広島出身です。両親はサンディエゴ郡チュラビスタで農業をしていました」

「御両親がアメリカに渡った時期はご存知ですか?」

「1914から5年頃だと思います」

「あなたが生まれたのはいつですか?」

「1915年にチュラビスタで生まれました。母は陣痛が始まるまで、畑仕事をしていたらしいです。私を畑に落っことすのではないかと、父が心配していたそうです」

「お袋さんに同情するよ。君は生まれたときから、でかかったんじゃないか? 彼は見ての通りの長身だったので、ノッポのミツと言えばみんな知っていたんだ。おまけに顔もいいだろ。ダンスに行くと女の子が集まってくるから、我々もそのおこぼれに与れた」

 軍服に身を包んだ若き日のミツの姿を思うと、彼が日本人女性にどんなに魅力的に映ったかが想像できた。だが、戦死者扱いされて戸籍を抹消された彰のことを思うと、その対比に胸を締め付けられた。

 ベンはうまく話を誘導してくれた。
「ミツ、君は何人兄弟だった? あの頃、日系人の家は子沢山だったからね」

「私は4人兄弟の1番上。弟が2人に妹が1人いました。すぐ下の弟、彰は父の従兄弟の息子だったけれど、彼が3歳のとき、従兄弟夫婦が亡くなったので両親が引き取ったそうです。彼とは年が近いから、一番の仲良しでした」

「今、ご兄弟はみなアメリカに?」
 アイリスが尋ねた。

「生きているのは、グレンデールにいる妹だけです。あとは皆死んでしまいました。妹は、最近物忘れがひどくなってね。昔を語れる身内はいなくなりました」

 都は彼の端正な顔に影が走ったのを見逃さなかった。彼も肉親が欠けていく孤独を感じていることが伺え、彰が生きていると知ったら、喜んでくれるのではないかと密かに期待した。

「MISにいたと伺いましたが、日本語はどうやって身につけましたか」

「私は日系コミュニティで育ったので、日常会話には不自由しませんでした。両親がチュラビスタの日本語学校に通わせてくれたので、読み書きはそこで習いました。15歳のとき、日本の教育を受けるために広島に行き、母方の叔父の家で世話になりました。子供を日本に留学させるのは、両親の夢でした。私は山陽中学の2年に編入し、4年生を終えて明治大の予科に入りました。予科と本科を終え、少ししてから帰国したので、9年弱日本にいました。日本の中学で散々いじめられ、日本語に苦労したおかげで、MISで役に立つ日本語力がつきました」

「MISLSに入った時期ときっかけを教えてください」

「1942年初夏、ポストン収容所にいるときMISが接触してきました。口には出しませんでしたが、気が進みませんでした。日本には、私と入れ替わりに弟の彰が留学していました。彼の年齢なら徴兵されていると思いました。親戚や友人も日本にいるし、ためらう気持ちはありました。それでも、自分はアメリカ市民です。その場で行くと決めました」

「御両親は何といいましたか?」

「大反対でした。日本語を使ってアメリカのスパイのようなことをするなんてと、かんかんでした。そんなことのために、日本に留学させたのではないと、最後まで理解してもらえずに、勘当同然のまま行きました……。一年後、弟のケンが戦闘部隊に志願しました。有名な442です。そのときも両親は反対したそうです。結局ケンは戦死。親不孝な兄弟です」

 都は深い苦悩を抱えて入隊した彼の決意に、胸を締め付けられた。そして、彼も彰を大切に思っていたことが伺え、真実を伝えたときの反応が心配になった。

「MISLSでのことを教えてください」
「ミネソタには2ヶ月くらいしかいませんでした。私は特別速習クラスを2ヶ月半で終えました。一緒に学んでいた14名のうち12名が帰米で、卒業は9月初めでした」

「最初の任地はどこですか?」

「1942年11月、14名の二世とともにオーストラリアのブリズベンに着き、諜報部隊の司令部付きになりました。翌年1月末、ニューギニアのポートモレズビーに行き、日本軍から捕獲した文書の翻訳と捕虜の尋問をしました。
味方から、何で日本人がいるのかと不審の目で見られて、仕事がやりにくかったです。日本兵と間違えられて、捕虜にされかかったこともありました。私たち語学兵は日本軍だけではなく、味方の偏見とも戦っていたのです。私たちは味方に、情報を引き出すために捕虜を生かしたまま捕らえること、捕獲した文書を提出することを根気強く説きました。
 その後、ブリズベンのATISこと連合軍通訳翻訳部に移り、ニューギニアの戦場から運ばれてくる膨大な捕獲文書をざっと見て、どれを翻訳すべきかを見極めるセクションで仕事をしました」

「それから終戦までATISに?」

「そうです。1944年の夏からは、日本軍の捕虜虐待など戦争犯罪に関する資料を集めて、調査する仕事をしました。集めた資料の一部は、東京裁判の証拠として使われました」

 理路整然とした彼の語りには、重要な仕事に関わった誇りがにじみ出ていた。こうして積み重ねられた自信が、彰を打ちのめした近づきがたい雰囲気を作り出したのかもしれない。だが、彼が2つの国の狭間で呻吟したことを思うと、それを責める気にならなかった。

「原爆投下や終戦の報は、オーストラリアで聞いたのですか?」

 快活に話していたミツの顔に影がさした。
「ええ。なんで広島なのかと思いました。広島には世話になった親戚や友人がいるので、言葉にできないほどショックでした。何かの間違いであってほしいと祈りましたが、新聞に載ったきのこ雲の写真を見たとき、手足ががくがく震えました。日本に思い入れがあった私は、語学兵として仕事をすることに、ずっと後ろめたさがありました。自分がこんなことをしているから、広島があんなことになったような気がしてなりませんでした」

 都は広島で学んだ彼の苦悩が、どれだけ深かったかに思いを馳せた。

「実は、私は広島のことを聞く前は、そろそろ除隊してアメリカに帰るつもりでいました。両親もそれを望んでいました。でも、原爆のことを聞いて、日本に行かなくてはと思いました。日本にいた恋人、彰、広島の親戚や友人の安否を確かめたかったし、日本のために何かしなくてはという思いがありました」

「日本に着いたのはいつですか?」

「1945年の末です。少尉になっていました。戦前の東京を知っている私は、焼け野原になった日本で、飢えた人々を見て胸が痛みました。誇り高い日本人が、飢えをしのぐためにプライドを捨てて進駐軍に媚びるのを見るのは辛かったです。空腹の子供を見過ごせず、ねだられるとチョコレートやキャンディーをやりましたが、彼らがそれを貪るのは見るに耐えなかったです……」

 都は、ミツが日本人を蔑む気持ちを持っていなかったことに、救われた思いがした。
「所属はNYKビルのATISですか?」

「ええ。東京裁判関連の文書を翻訳したり、資料を収集したりする仕事をしていました。5月に開廷が控えていたので忙しかったです」

「そこで、僕らはルームメイトだった」
 ベンが待っていましたとばかりに口をはさんだ。

「軍用のパイプベッドがあるだけの味気ない部屋だったな。男2人で顔を付き合わせているのもつまらないから、仕事が終わったあとバーで飲んだりしました。ベンのほうが少し先に来ていたから、いろいろ教えてもらったんです」