[連載コラボ小説] 「旅の続き」 1
本作は、mallowskaさんの作品 [連載コラボ小説]「夢の終わり 旅の始まり」の続編です。mallowskaさんの許可をいただき、may_citrusが書いてみました。これから、週一で更新しますので、何卒宜しくお願いいたします。
扉写真は、きくさんの作品を使用させていただきました。この場を借りて、御礼申し上げます。
一月の風は冷たいが、晴天の朝は気分が上向く。私、彩子は、かじかんだ手をもみ合わせながら澄んだ空を見上げた。大きく深呼吸し、気持ちを引きしめてから、ドアに掛けられたプレートを「OPEN」に変える。
私はIT系のスタートアップ企業に勤めているが、日曜日は夫が勤務する喫茶店《フェルセン》を手伝う。休みを返上すると、身体がきつい。だが、ゆったりと寛いでいるお客様を見ると、私まで幸せになれる。
夫の 吉井透は、私より13歳年上の46歳。フェルセンで、ピアノと歌の生演奏を担当し、調理も手伝っている。店長の羽生さんは、高校の数学教諭を退職後にフェルセンを開いた。もう70近いが、数年前に調理師資格を取得し、元気に店を切り盛りしている。3歳で両親が離婚し、一緒に住んでいた母親も亡くした透にとって、幼いときから親交のある羽生さんは父親のような存在だ。
フェルセンの客層は、年齢層が高い羽生さんの友人、音楽好きの老若男女が主だ。だが、神経発達症(発達障害)を持つ透が、二次障害として患った強迫症を乗り越え、同じ障害で苦しむ人に向けたYou Tube配信をしているため、それを見て来店する人も増えている。
今日はよく晴れた土曜日。どんなお客様と出会えるだろうか。晴天の休日は、何かいいことが起こると予感させてくれる。
★
時計の針が10時を指し、黒ジャケットに身を包んだ透が、サティ「おまえがほしい」をグランドピアノで軽快に奏で始める。羽生さんと透が試行錯誤を重ねたブレンドコーヒーの芳香が店内を満たす。音楽と香りの相乗効果に、サラダを盛り付ける私の手元も軽快になる。
透の横顔に陽が射し、端正なマスクが際立つ。彼は190センチの長身痩躯と甘いマスクに恵まれた。だが、神経発達症に根差す不注意と不器用さ、二次障害として患った強迫性障害の加害恐怖に悩まされ、山あり谷ありの人生を送ってきた。そんな彼には、私にはない力強さとやわらかさがある。さばさばしていると言われる私は、他人を傷つけないかとびくびくしている透から学ぶことが多い。
「おはようございます」
今日最初のお客様が、入口のドアを勢いよく開けて入店した。
「香川先生!」
長身の中年男性が、ラルフローレンのセーターにチノパン姿で現われた。ハンガリー系アメリカ人と日本人のハーフの彼は、彫りの深い顔立ちと長身で強烈な存在感を放っている。
「譲治、久し振りだな!」
ピアノを弾いていた透が立ち上がる。
近隣の中学で音楽教師をしている香川先生は、開店時からの常連だ。透とは同い年。プロのピアニストを諦めたこと、母子家庭で育ったことなど共通点が多く、すぐに親友になった。因みに、香川先生は、私の中学時代の担任でもある。
カウンター席に掛けた先生に、私は水とお手拭きを提供する。
「おはようございます、香川先生。何になさいますか?」
羽生さんは、彼がメニューを見ずに注文することを見越したタイミングで声を掛ける。
「ブレンドお願いします」
「かしこまりました」
サイフォンからイッタラのカップにコーヒーを注ぐ羽生さんは、思わず見ほれてしまうほど優雅だ。
「午前中に来るなんてめずらしいな。吹奏楽部の練習は?」
透がカウンター席の横に立って尋ねる。
「部活は午後からだ。今日は透に相談したいことがあってきた」
先生は、透を振り返り、彫りの深いマスクに深い憂いを浮かべる。
「どうした? やけに難しい顔をしてるじゃないか」
透が隣のカウンター席に掛けた。2人が並ぶと、どちらも恵まれた容姿なので、スポットライトが当たったような空間ができあがる。
「困ったことになってしまった……」
先生はコーヒーに手をつけず、いつもより低い声で話し出す。
「3月19日に市民オケのC響の定演があるんだが、私がバッハのピアノ協奏曲5番を弾くことになっている」
「お、いいじゃないか。去年のラヴェルも良かった。今年は彩子と聴きにいきたいな」
「それがな……」
先生は眉根をよせ、歯切れの悪い口調で切り出す。
「私もそのつもりで練習していたんだが、うちの中学の吹奏楽部がアンサンブルコンテストの全国大会に行けることが、先日の西関東大会で決まった。正直、想定外だったので嬉しい驚きだが、大会と定演の日が重なってしまった。迂闊だった……」
羽生さんと私もカウンターの後ろで耳を傾ける。
「指揮者の倉橋さんに相談したら、今から曲の変更は難しいから、代役を探してほしいと言われたんだが……」
先生のカップから、弱々しい湯気が立ち昇る。
「透、強迫症は良くなったと言ってたよな? また、前みたいに、あのオケで弾いてくれないか?」
透の身体が緊張でさっと強張る。
透は、以前は市民オケで弾いたり歌ったりしていたという。だが、加害恐怖を患ってから、失敗したら迷惑をかけるという不安に脳内を支配されてしまい、フェルセン以外での演奏を控えている。
「いい機会じゃない。挑戦してみたら?」
私はカウンター席の背後にまわり、透の両肩に優しく手を添える。病気が寛解しているこのタイミングなら、ステージでの演奏はさらなる自信を与えてくれるはずだ。
「透、頼むよ。透にお願いできないなら、別の人を探さなくてはならないんだ。正直、あまり伝手がない……」
透は身体を強張らせ、眉間に深い皺を寄せる。
「私も透が舞台で弾く姿を見たいな」
私が透の強張った背中を撫でながら言い添えると、彼の肩がかすかに反応する。
「10分弱の曲だ。透の腕なら、すぐに仕上げられるだろう。燕尾服を着てステージにいる透は、一瞬で空気を支配してしまう魅力がある。あの姿を彩子さんに見せてやれよ」
透はふっと肩の力を緩め、ぼそりと言った。
「譲治ほど華はないし、上手くないけど、俺でいいなら……」
「ありがとう、透。本当に助かるよ」
先生は、ようやくコーヒーカップを手に取り、口に運んだ。
「譲治には借りがあるからな……」
私は透が一歩踏み出してくれたのが嬉しく、ちょうど入ってきた中年女性2人を弾んだ声で席に案内した。
2人のオーダーを取ってきた羽生さんは、話を詰めている2人を見て目を細める。
「もう、2か月もないんだ。3月19日の本番までに、オケ合わせ2回と……」
2人は、練習日程、オケと合わせるスケジュールについて、スマホのカレンダーを見ながら相談している。それを聞きながらランチセットを準備していた羽生さんは、ぴくりと手を止める。
「いま、3月19日と言いました? その日は確か……」
羽生さんは、バックルームからタブレットを持ってきて、スケジュールを確認し始める。
「その日は藤岡さんのお孫さんの結婚パーティーが入っている。透以外に生演奏を任せるわけにはいかない。透、そんな大切な予定をどうして忘れるんだ!」
透がしまったというように、片手で口元を抑える。
藤岡さんは、毎週来てくれる上品な老婦人で、透の歌とピアノを愛してくれる大切なお客様だ。
「まあまあ、羽生さん。以前の透なら、強迫性障害のせいで、失敗したらどうしようと緊張して、居ても立っても居られなかったと思いますよ。忘れてしまうほど、普通に過ごせるまでに快復したということですよ」
私はめずらしく声を荒らげた羽生さんをなだめる。
「本当に申し訳ございません。その日は、大切なお客様の貸し切りが入っていて、透をご指名なんです」
羽生さんが先生に深く頭を下げる。
「いえ、そういう事情でしたら、仕方ありません。こちらこそ、無理にお願いして申し訳ありませんでした」
先生は逆に恐縮して答える。
「伝手を頼って探してみますから、お気になさらないでください」
「透、きちんとスケジュールを確認してから返事をしないとダメじゃないか! 先生、私もバイトに来てくれる子の人脈から、弾けそうな人を探してみます。今来てくれてるバイトは、声楽専攻だからなあ……。ピアノ専攻の子は先月辞めてしまったし……」
羽生さんは腕組をして、人脈を探りはじめる。
そのとき、私の頭の中に閃光が走ったように、ある人物が浮かんだ。
「川嶋くんはどうでしょう?」
昨年の夏、あてもないドライブ旅行の途中でフェルセンに来店し、私たちと親交を深めた。クリスマスには、オンラインで透と連弾して鮮烈な印象を残したあの青年。
※2人の連弾シーンは上の作品をご覧ください。↑
「ああ、悪くないな!」
透が私を振り返り、目を輝かせる。
「連絡取ってる? 私はクリスマス以来、連絡してないけど」
「Lineで新年の挨拶をしたかな」
「弾けそうな人がいるのか?」
香川先生が好奇心を浮かべた瞳で尋ねる。
「一人、心当たりがある。正規の音楽教育は受けていないが、大学のとき、音楽系の学部に所属していない人を対象にしたピアノコンクールの成人部門で銀賞を取った。26歳くらいで、会社員だ。ピアコンの経験があるかはわからないが、彼にとっても悪い話じゃないと思う」
「コンチェルトの経験は問わないよ。その経歴なら十分だ」
「去年のクリスマスに、透が川嶋くんとアメリカン・ラプソディーを連弾した動画あるよ。先生に見てもらう?」
「頼む」
私はノートパソコンに取り込んである動画を立ち上げ、空いているテーブルで先生にイヤホンをつけて聴いてもらった。
食い入るように画面を見つめ、爪先でリズムを取り始めた先生の様子に、感触は悪くないのではと期待が高まる。
「技術は大丈夫だと思う。興味があるか、話をしてみてくれないか?」
先生は私たちを振り返り、イヤホンを外しながら、目元を緩める。
私と透は思わず顔を見合わせた。すぐにでも彼に連絡を取りたかった。
★
羽生さんは、これから忙しくなりそうなときに、透と私が抜けることにいい顔をしなかった。だが、事情が事情なので、30分だけならと許可してくれた。
フェルセンの2階で、川嶋くんに電話をかけ、Skypeに入ってもらう。
「透さん、彩子さんも、おはようございます……。ご無沙汰してます」
画面の向こうの川嶋くんは、スウェット姿で寝ぐせを撫でつけている。寝起きなのか、声がくぐもっている。この姿が、先生の印象を悪くしないか心配になる。とはいえ、せっかくの休みに叩き起こされた彼を気の毒に思い、この話が彼にとって朗報になることを願った。
「久しぶりだね。朝からごめんな。川嶋くんにお願いしたいことがあって連絡したんだ」
「え、僕が透さんのお役に立てることなんてありますか?」
川嶋くんは背筋を伸ばして座り直す。
「川嶋くん、この男は香川譲治。ハーフで顔が濃いけど、日本人だ。中学の音楽教師で、ピアノはかなりの腕だ。吹奏楽部の顧問ではこのあたりで有名で、コンクールで全国まで進んだことがある」
「はじめまして。香川と申します」
香川先生が透と顔を並べ、画面に映りこむ。
「はじめまして。川嶋稜央と申します……」
川嶋くんは、第三者が出てきたことで、眠気が吹っ飛んだように引き締まった面持ちになった。
「実は、3月19日に開催される市民オケC響の定演で、バッハのピアノ協奏曲第5番を弾ける方を探しているんです。川嶋さんと透のアメリカン・ラプソディーを聴かせていただき、あなたなら弾けるんじゃないかと思いました。突然の話で大変恐縮ですが、考えていただけませんか?」
「え、えっ? コンチェルト? 3月19日?」
川嶋くんが混乱しているのを見て、透がフォローする。
「急な話でごめんね。本当は、譲治が弾くはずだったけど、どうしても外せない仕事が入ってしまったんだ。僕も、その日は店で結婚パーティーがあるので無理だ。そこで君のことを思い出した。たしか、バッハが好きだと言っていたね」
「初対面の上に、急な話で申し訳ないですが、考えてくださいますか?」
香川先生も、懇願するように言い添える。
「僕にはもったいないお話です……。でも、僕、コンチェルトを弾いたことないし、音大も出てないし……」
香川先生が穏やかに語り掛ける。
「身構えることはないですよ。オケのメンバーには音大卒もいますが、ほとんどは学生時代にオケか吹奏楽の経験があるだけです。僕が吹奏楽部で指導したOBもいます。中には、社会人になってから楽器を始めたのもいます。普段は、会社員や学校教師、音楽教室の講師、楽器店の店員、看護師、医師など別の仕事をもっている人たちです。だから、気負わないで下さい。私だって、教育大で音楽教育を専攻しただけの教師ですが、何度かコンチェルトを弾かせてもらっています。300人ほどの小ホールで、お客様も身内や僕の教え子がほとんどです」
「ちなみに、俺も声楽専攻だけど、ピアコンを弾かせてもらったことがあるよ」
先生が畳みかけるように続ける。
「そんなメンバーなので、川嶋さんが満足できる音楽をつくれるかわかりません。でも、コンチェルトは、一人では作れない壮大な音楽を生み出せます。一人でピアノを弾くのと違って、自分ですべてをコントロールできないもどかしさはありますが、それを上回る感動が得られることもあります」
「譲治、いいこと言うな。譲治が私生活を犠牲にして吹奏楽部の顧問を続けているのも、その感動があるからか?」
透が茶化す。
「まあね……」
「あの……」
川嶋くんが遠慮がちに切り出す。
「コンチェルトは憧れでした。イヤホンでオケの音を聴きながら、一人で何度も弾いていました。でも、実は僕、子供の頃から協調性がなくて、一匹狼だったんです。音楽は好きでも、一人でピアノを弾くだけでした。個人レッスンは受けてきましたが……。吹奏楽部やオケに入ったこともないんです。クリスマスに透さんと連弾をしたのが、誰かと音楽をつくった初めての経験です。社会人になって、チームで仕事をすることになり、義務感でやっていますが、楽しんでいるとは……。こんな自分が、たくさんの人と音楽を作れるとはとても思えないんです……。ご迷惑をお掛けすることは目に見えていますから……」
彼は及び腰になっている。彼の父親が神経発達症を持っているかもしれなくて、彼にもその傾向があると聞いたことを不意に思い出し、無理にお願いしてしまったかもしれないという後悔が脳裡を過る。コミュニケーションに苦手意識のある彼は、ソロで弾いていたほうが魅力的なのだろうか……。
「あ、なんかすみません。一人で語ってしまって。せっかく、僕にはもったいないお話しをいただいたのに……」
「あなたの負担になるなら、無理にとは言えません。お住まいも遠いらしいし、もう一か月半くらいしか時間がありません。ご負担をお掛けすることばかりです。遠方からお越しいただくのに、たいした出演料をお支払いすることもできません。だから、どうか、お気になさらないでください」
香川先生が、川嶋くんの不安に寄り添うように語り掛ける。
この話が流れていくことに、身体の芯から強烈な寂しさが突き上げてきた。とはいえ、遠方に住み、仕事もしている彼の負担を考えると無理強いできないこともわかっている。彼を無理にステージに引っ張り出したら、ピアノへの思いまで台無しにしてしまうかもしれない。
「それなら尚更、きみはやるべきだよ」
透が、話の流れを変える力強さで割って入った。
私も先生も、画面の向こうの川嶋くんも、驚いたように透に視線を集中させる。
「俺はあれだけ楽しそうにピアノを弾く川嶋くんが、コンチェルトの話に胸が躍らないわけはないと思う。きみは、試練を恐れて、わくわくする気持ちを抑えつける理由を並べているだけじゃないか? 他人と合わせることが苦手だと言ったけど、去年のクリスマスに、俺といい音楽をつくれたじゃないか。あのとき、きみはソロで弾いていたときとは違う感動を味わっただろう? アメリカン・ラプソディーのような遊び心のある曲を連弾するのと、クラシックの王道のバッハを弦と弾くのは、比べ物にならないほど苦労が多い。けれど、きみが今まで知らなかった音楽がつくれる。そんな姿をドイツのお父さんに見てもらいたくないか?」
川嶋くんが小さく声をもらす。お父さんに聴かせられるという言葉が、彼を揺さぶりつつあることに、私の胸も高鳴る。
「透の言う通りよ。お父さんは、コミュニケ―ションに苦手意識のあるあなたが、オケと共演する姿を喜ばないはずはない! あなたの成長を見て、安心するんじゃない?」
私の言葉にも、自然と熱がこもる。
「先生、定演は、ライブ配信か、無理なら録画できますか? 彼のお父さんがドイツにいるんです」
「毎年録画はしているが、ライブ配信ができるか出入りの業者に相談してみるよ」
「勝手に盛り上がってるようだけど、まだ川嶋くんの返事を聞いてないだろう?」
透が私たちにブレーキをかける。
「すみません、川嶋さん、あなたの返事を伺っていませんでした」
画面ごしの川嶋くんは、姿勢を正し、香川先生を真っ直ぐに見つめ、張りのある声で言った。
「不慣れなので、ご迷惑をお掛けすると思いますが、全力で取り組みます。どうか、宜しくお願いします」
川嶋くんが深々と頭を下げるのをみて、身体の奥深くから熱いものが突き上げてきた。何か、途轍もなく素晴らしい瞬間に立ち合える予感がした。
透は急いで店に戻り、私は先生と川嶋くんが詳細を打ち合わせるのに立ち会った。
2週間後の土曜の夜、川嶋くんが泊りがけでこちらに来て、フェルセンで香川先生と練習することが決まった。その日は、私たちの家に泊ってもらうことになった。