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連載小説「クラリセージの調べ」3-10

 雲間から覗く午後のは、午前の疲労を吸収したように濁っている 。濃度を増した沈黙を破るように、ウエイトレスが三人のグラスに水を注ぎ足していく。

 瑠璃子が注がれた水を口に含んでから尋ねる。
「ご家族に受け入れてもらえなかったの?」

 彼は小さく頷き、意思を固めたように目元を強張らせると、私たちの目を順に見る。
「二人とも絶対口外しないって約束してくれるか? その……、この辺りでも噂が広まったら仕事がやりづらくなるから……」

 私も瑠璃子も、すずくんの視線を受け止めて頷く。
「私たち、同じだけ年齢を重ねて、酸いも甘いもかみ分けた同士じゃない。すずが嫌がることをいいふらしたりしない。私だって……、中学のときのままじゃないよ」

 瑠璃子の声は、重ねた年月と経験を乗せたように重みがある。それが本心から出たものか、すずくんの口を開かせるための演技かはわからないが、少なくても悪意は感じられない。

「すずくん、気が進まなければ無理しなくていいよ。もし、私たちに話して楽になるようなら、話してくれればいいし」

 張りつめていた彼の目元がほどける。
「二人とも、ありがとう。確かに、誰かに話したかった……」

 彼は手を上げてウエイトレスを呼び、エスプレッソのおかわりを頼むと、途切れ途切れに話し出す。

「家族、特に親父おやじには口が裂けても言えなかった……。うちの両親は頭が古くて、同性愛なんて想像つかないし、息子がゲイなんて絶対受け入れない。中学の頃、自分がゲイかもしれないと悩んでたとき、精神科を受診したいと思った。けど、親父はその類いの先生方を陰で『アタマ医者』と呼んで、一段低く見てたから、言い出せたもんじゃなかった」

 中学の頃、インフルエンザに罹ったとき診てくれた彼のお父さんを思い出す。彼に似て眉目秀麗で、笑顔を絶やさず、患者をリラックスさせてくれる先生だった。だが、彼にとっては、圧倒的な存在感で君臨する父親だったのだろう。

「ねえ、すずくん。もしかしたら、すずくんは、お父さんに認められたいから、ずっと自分を偽って無理してきたんじゃない? 違ったらごめんね」

「すーちゃん、ビンゴだよ。この年齢になって情けないけど、俺にはずっと親父に評価されたいという意識があった。親父は俺が物心ついたときから、医者として周囲に尊敬されていて、仰ぎ見るような存在でさ。それに、二人も知ってると思うけど、俺には5つ上の超出来のいい兄貴がいる。両親も兄貴に期待してたから、俺の中で、兄貴以上に評価されたいという思いがずっと燻ってた。これは俺のなかだけの問題で、両親は兄貴をえこひいきしたわけじゃない。けど、エリート街道を外れることなく進む兄貴がいると、俺も外れるわけにいかないと意地になってた」

 瑠璃子が大きく頷く。
紳一しんいちさんがお兄さんなら、そう思うのも無理ないよ。でも、すずだって負けてないじゃん。背はすずのほうが高いし、顔は互角」

 私は紳一さんを見たことはないが、文武両道でハンサムな先輩として伝説になっていた。彼を教えた教師からも、たまにその名前が出るほどで、どこかで一目見たいと切望していた。

「兄貴はT大で俺はO大だぜ。兄貴は外科医のなかでも最高峰の心臓血管外科で俺は泌尿器。名前だって、兄貴は紳一、俺は紳次。そこからして二番手だろ」

「ドクターになったら腕で勝負するんだし、こだわることないと思うけどね……。泌尿器を選んだのは、どうして?」

「本当は精神科で自分のような患者を診たいと思ったけど、親父が絶対に許さないのは最初からわかってた。兄貴も俺も、外科を拡大したいから、そっちの技術を習得して戻ってこいと親父に念を押されてたんだ。泌尿器は内科的治療も外科手術もできるだろ。外科に回さず、自分でメスを握れる。
 O大病院は、国内では性別適合手術ができる数少ない施設。ジェンダーセンターで精神科、泌尿器科、産婦人科、形成外科がチームで治療に取り組んでる。俺はLGBTの一人として、そこに加わりたかった。泌尿器は、それにも関われた」

「そういうことか、納得。でも、この年齢になると、親が結婚はまだかと煩く言ってくるでしょ? かわすのしんどくなかった?」

「うちは、兄貴が早いうちに同期の小児科医と結婚して、後継ぎが生まれたから、俺はそれほどしつこく催促されなかった。けど、俺がいつまでも一人でいるから、何度も見合いをもってこられて、断るのがストレスだった」

「で、何でばれたの?」

「俺の身から出たサビなんだよ……」
 すずくんは、エスプレッソを一口すする。
「こっちに戻る前に、パートナーと別れた。だから、新しいパートナーをネットとかそっち系の店で探してた。この辺りだと顔が割れて面倒だから宇都宮まで行ってな。それで、ある建築士と出会って付き合い始めた。でも、付き合っていくうちに、奴がとんでもない粘着質だと気づいて、これ以上は無理だと思って別れ話をした。誠意を尽くして話しても、受け入れてもらえなくて、堂々巡りが続いた。嫌気がさした俺は無視を決め込むことにした。電話もLINEも無視して、家に来られても居留守。そしたら、そいつは無言電話をかけてきたり、復縁を求める手紙をマンションのポストに毎日入れるようになった」

「こわ……。警察に言わなかったの?」

「いま思えば、その時点で警察に介入してもらうべきだった。けど、穏便に済ませたかったから、嵐が去るのを待つことにした。一度付き合った相手だし、多少の情もあったから……。まあ、俺に見る目がなくて、脇が甘かったに尽きる」

「それで、どうなったの?」

「相手にしなかったら、俺と奴が写ってる恥ずかしい写真数枚と俺がひどいことをしたという手紙が、親父と病院の事務長、副院長、看護部長、医者全員に送りつけられた……。ネットにも俺がゲイだと一目瞭然の写真を載せられて、病院の口コミに俺の悪口を書かれた。ネットの口コミは、そいつがやった証拠はないけど、奴以外は考えられない。親父がすぐに病院の顧問弁護士に連絡して対処した。ネットは削除申請をしたけど、病院スタッフに広まった噂は消せない。
 ちょうどその時期に、年上の麻酔科医と俺の見合い話が持ち上がっていた。今まで、麻酔は外部の先生に頼んでたけど、彼女が来てくれれば常勤が確保できる。だから、かんかんになった親父に勘当されたってわけ」

「すずくん、災難だったね……」

「ゲイなんて今時めずらしくないし、聞く限りでは、すずは何も悪いことしてないじゃない。だから田舎ってやなんだよ! 東京では、医者とか弁護士とかコンサルとか社会的地位の高い職業に就いてても、カミングアウトして、堂々としてる人もいたけどね。こういうとこが嫌で、踏ん切りつかないんだよ」

 憤慨する瑠璃子に、すずくんが怪訝そうに問いかける。
「何の踏ん切りがつかないって?」

「私、勤務先の産婦人科クリニックの若先生にプロポーズされてるの。子供も一緒に育ててくれて、私が医学部に編入したいなら応援するという好条件で」

「すげー、いい条件じゃん!」
「そう思うよね。瑠璃子、こっちで一生暮らすのが嫌だから、返事ができないんだよ」

「だって、嫌じゃん。すずのことがいい例だけど、狭い世界で人間関係が濃厚で、噂がすぐ広まるでしょう。それに、この地域しか知らない視野の狭い人が多い。多様性に理解がなくて、自分の価値観しか受け入れない人ばっかり。
 すーちゃんの嫁ぎ先だって、井の中の蛙大海を知らずだよ。三代続く教師の家だとお高くとまってるけどさ。都内に出れば、旧華族とか、三代続けて東大出身でみんな裁判官か外交官の家とか、家族全員が幼稚舎から慶應でキャリア官僚か弁護士の家とかあるし。私の元旦那は旧華族で、開成から東大、ハーバードビジネススクールだよ。東大在学中にオックスフォードに短期留学もしてる。それに比べたら、家族がみんな地元国立で教師だから威張ってるなんて、笑っちゃうよ」

「あはは、うちの家族も同じ。地元にいるときは、自分の家がすごいと思ってたけど、もっとすごい人にたくさん会うと、なんだって思うよね」
 
「岩崎、冴えてるじゃん。そんなに嫌なら、さっさと断ればよくね?」

「わかってるよ! でも、娘と彼の相性がすごくいいの。それに、私自身も彼を人間としてもドクターとしても尊敬してる。医学部に編入させてもらって、一緒にクリニックを経営するのも魅力的。これ以上の条件はないと思うから本気で悩んでるんだよ」

 瑠璃子の舌鋒はさらに鋭くなる。
「すずだって、いつまでも実家に縛られてないでO大に戻ればいいのに。精神科の医局に入り直したっていいじゃない。やりたいことができるんだよ。ドクターの免許があれば、家を出ても、勤務医でも開業医でもできるし、食うに困らない。すずは自由なんだよ」

「瑠璃子、そんな言い方しなくても……」

 父親に認めてほしい思いを断ち切れない彼の思いは理解できる。私も両親が言う「ちゃんとする」、つまり結婚して子供をつくることに囚われているのだ。

「すーちゃんだって、あの家で後継ぎを産むことに縛られなくてもいいんだよ。すーちゃんは器用で、人柄が良くて信頼されるタイプだし、東京で十年働いて主任になった実績があるんだから、いざとなったらあの家を出てもやっていける。あの家がすべてでないことだけは、心に留めておいて」

「ありがと、瑠璃子。私たち、三人とも囚われているものから解き放たれたら、今より楽になるよね」

 結翔くんも、市川家を出て裕美とアパートで暮らすことを選んでいたら、もっと自由に生きられたかもしれないとふと思い、背筋がすっと寒くなる。彼には、私と生きる道を選んだことを後悔してほしくないと思った。

「こういうこと言ってはいけないのは、わかってるけどさ……。俺、市川さんのところは一年くらい行ってるけど、あのお母さん苦手なんだ。清司さんも息子さんも、教師の家に誇りを持っているのがひしひし伝わってくるし、なんか重苦しい。すーちゃん、困ったことがあったら、俺で良ければ相談に乗るよ」

「ありがとう。すごく心強い」

「何さ、すーちゃんばっかり。すず、生徒会室ですーちゃんのこと可愛いのにしっかりしてて、頭も良くて、いいよなって言ってたんだよ」

「やめろよ、岩崎! もちろん、岩崎の相談にも乗るよ」

 すずくんがノンケを装うために言ったとわかっていても、心にぽっとあかりが灯る。憧れていた人と、男女の感情抜きで、頼れる友人になれると思うと心が弾む。

「そういえば、すずは、どうして今のクリニックで働いてるの? 泌尿器なら、どこかの病院に勤めたほうが手術の腕を維持できるんじゃない?」

「長い間うちの病院で働いてて、開業した先生が声を掛けてくれたんだ。ほとぼりが冷めれば、親父も気が変わるだろうから、しばらくうちを手伝わないかって。本当に尊敬できて、父親のように慕っていた内科の先生でさ。訪問診療に力を入れていて、その人らしく最後まで過ごせるように心を砕いている。最初は気が進まなかったけど、案外学ばされることが多いよ」

「実家への未練たらたら。やだね、ファザコンは」

「それだけじゃない! 結石破砕の最新機器とか、いい膀胱鏡入れてもらったのに、もったいないだろ。あの病院で裁量を与えられてたのは、それなりに魅力的だったんだよ」

「もったいない。精神科にシフトすることもできる年齢なのに」

 二人の応酬に目元を緩めながら、瑠璃子の言葉が思った以上に心を軽くしてくれたことに気付く。30代半ばに近づいた私たちは、まだ方向転換できる年齢だと気づいたことも、張りつめていた神経を緩めてくれる。