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澪標

※ 連載小説として投稿した「澪標みおつくし」を創作大賞2022に応募するために再投稿しました。

プロローグ

 スクリーン越しに、同期の彩子さいことおるさんの笑顔がはじける。彩子は白無垢から純白のウエディングドレス、透さんは紋付羽織袴からタキシードにお色直しして画面に現れた。長身の2人には、和装も洋装も映える。

 透さんの右腕と左腕には、白豆柴犬の胡桃くるみと、茶白猫の柚子ゆずが、安心しきった眼差しでそれぞれ収まっている。彩子が2匹の頭を撫でながら、注意を画面に向けようとする。子供を持たないと決めた2人が、保護団体から迎えたペットに深い愛情を注いでいることは、2匹の表情からうかがえる。

 2人と2匹の醸し出す桜色の空気は、画面越しでも十分すぎるほどに伝わってくる。情報処理技術者の資格を持つ彩子は、透さんとの生活を支えるために、10年勤めた会社を辞め、在宅勤務ができ、給料のいい医療系のベンチャー企業に転職した。オンライン診療システムを構築する会社で、折からのニーズを反映し、業績はうなぎ上りだという。そんな充実感も、幸せに拍車をかけている。私は、あなたと離れるために転職を決意したが、不況で断念した。いまは、彩子のいた北関東事業所に異動し、彼女の仕事を引き継いでいる。

 彩子と透さんは出会いの場所であるカフェ フェルセンで、式を挙げることを望んでいた。その夢は叶ったが、その場にゲストを招くことは叶わなかった。

 2人の背後に映る大きな窓から、絵具で塗ったような夏空がかすかにのぞく。エアコンの効いた店を一歩出れば、瞬時に息苦しいほどの熱気に包まれ、全身から汗が噴き出すことは容易に想像できる。

 日本人なら誰もが知る猛暑日だ。だが、こんな式を目にすると、3密を避け、飲食するとき以外はマスクをつけ、店や施設に入るときに検温と手指のアルコール消毒を求められる2度目の夏だと意識させられる。

 高度に発達した陸海空の交通網は、未知のウイルスを瞬く間に世界中に拡散させた。私達の生活様式は一変した。短期間でウイルスを一掃することは困難だとわかると、「ウィズコロナ」が唱えられ、ウイルスと共存する日々が続いている。

 2人は、感染を心配せずに式を挙げられる日を待ち続けたが、断念してリモート結婚式にすると決めた。何でも楽しむ気質の彩子は、「リモートの結婚式なんて、そう経験できることじゃないよ」と、嬉々として準備を進めた。

 リモート結婚式では、2人の結婚を許さない彩子の両親が参列していないことも、透さんに両親がいないことも目立たない。

 マスク生活が手抜きメイクを覆い隠すように、ウィズコロナは、問題を隠すのを容易にする。パンデミックを乗り越えるために、世界中で、元から存在した問題が覆い隠されたり、先送りされたりしている。他方で、新たな生活は、以前から存在した問題に光を当て、向き合うことを余儀なくさせることもある。

 
 画面の端に並ぶアイコンから、会社の同僚の竹内たけうちくんも参列しているとわかる。彩子と竹内くんと私は、入社以来、苦楽をともにしてきた同期だ。

 コロナ禍で新たな出会いが難しくなった竹内くんは、巣ごもり生活で、別れを考えていた同棲中の恋人の魅力を新たに発見し、婚約にいたった。

 コロナ禍で元彼に振られた彩子は、人との接触を避けることをこれほどまでに求められなければ、透さん以外の可能性を考えたかもしれない。それでも、新しい出会いが難しかったからこそ、透さんとの出会いを大切にして、真摯に向き合え、彼の魅力がわかったのだろう。

 竹内くんと彩子に幸福を運んできたコロナ禍は、あなたの目を覚ました。私と荒海に航海に乗り出したあなたは、正しい航路に帰っていった。

 悲しくないわけではない。苦しくないわけではない。傷ついていないわけではない。

 それでも私は、あなたを正しい航路に戻せたことを誇りに思っている。

 進んできた航路を外れたあなたは、私の好きなあなたではなくなってしまうことに気づいていたから……。

 画面の向こうで、透さんが、彩子にプロポーズしたときに奏でたピアノ曲を生演奏している。

 きらきらした高音が、波のしぶきのように寄せてきて、私の胸を息ができないほどに締め付けていく。

 引き出しの奥に封印した「サムライ アクアクルーズ オードトワレ」の小瓶を手に取る。そっと蓋を取ると、清らかさの中に甘さを含み、陽光を浴びた海を彷彿させる香りが立ちあがる。引っ越す前の私の部屋は、あなたと同じこの香りに満ちていた。

 私は、もともとグリーン系の香りが好きだ。ロクシタンのエルバヴェールを愛用し、オードパルファム、シャワージェル、ボディミルク、ハンドクリームまで、この香りで揃えていた。

 そんな私は、あなたに私の香りを移さないように、あなたと同じ香りをまとうようになった。その香りとは相性が良く、それなしでは落ち着かないほど私の一部になっていた。

 あなたがいなくなってから引っ越した私の部屋には、本来の香りが戻ってきた。

 それでも、あなた色に染まった時間は、ふとした瞬間に立ち上がり、荒波のように私をさらっていく。

1

 3年前のその日は、休日出勤だった。

 私は試験運営を請け負う会社で営業部に所属していた。試験が目白押しの2-3月は、他の部が試験運営部のサポートに動員され、休日出勤するのはめずらしくなかった。

 18時を回り、各試験会場のリーダーから、終了報告のメールや電話が相次いでいた。本社のフロアは、安堵の空気と、トラブルが生じた会場への対応に追われる緊迫感が入り混じっていた。運営部の竹内くんは受話器を片手に、受験者から試験官へのクレームが入った会場のリーダーに、頭をかきむしりながら対応策を指示していた。

 運営部の課長から、労いの言葉と共に、退勤許可が下りた頃だった。ジャケットのポケットの中で、Lineの通知音が鳴った。直属上司の営業部 志津しづ課長から、紹介したい人がいるので飲みに合流してほしいとのことだった。

 体育会系で熊さん体型、些細なことに固執しない志津課長とは馬が合った。家族思いの彼がおかしな気を起こす心配は微塵もなく、同期の竹内くんと3人でよく大衆居酒屋にくりだしていた。親友の彩子が地元の事業所に移ってしまってから、アフターファイブを持て余していた私は、彼らとの時間でそれを埋めることができた。

 いつもなら、嬉々として誘いを受けた。だが、貴重な休日を奪われたその日は、正直面倒だと思った。私の心は、一刻も早く帰宅して、ウィンターグリーンのアロマオイルをたき、温かい夕食と黒豆茶を手に、Netflixで映画を見ることに飛んでいた。休日出勤を知っていて呼び出す彼のデリカシーのなさを呪う思いさえあった。

 彼から指定された店は、何駅か先にある3つ星ホテルの最上階にあるバーだった。いつもの大衆居酒屋ではないこともハードルを上げた。そんな私の気持ちを察してか、どうしても紹介したい仕事関係の人物が待っているので、遅くなっても来てほしいと追加のLineが入り、溜息をついて覚悟を決めた。

 ホテルに着き、パウダールームで軽く化粧を直してから、エルバヴェールのハンドクリームを手に馴染ませた。馴染んだ香りをまとうと、少しずつ気持ちが上がっていった。ビル風で乱された髪を直し、エレベーターで最上階に向かった。

 会話を邪魔しない音量で流れていたケルティック・ウーマンのバラードが、気持ちをほぐしてくれた。入口に立ち、店内を見回すと、窓際のカウンター席に掛けていた志津課長がさっと手をあげた。私は軽く会釈した。

 志津課長の隣に座っていたあなたが立ち上がり、こちらを向いたとき、私は時が止まったように歩みを止めた。体中の血が騒ぎ出し、全身がかっと熱を帯びた。私の瞳は、都心の夜景のパノラマを背に立つあなたに釘付けになった。私を案内しようと声を掛けた店員は、困惑して去っていった。

 30年生きてきて、一目惚れなどしたことはなく、そんなものが存在することを信じていなかった。だが、あなたは一瞬で私の心を鷲掴みにした。

 長身で恰幅のいい志津課長と並ぶと、あなたは小柄だった。それでも、ものさしを入れたように伸びた背筋、整いすぎた目鼻立ち、凛とした立ち姿は、強烈な存在感を放っていた。上質のジャケットとスラックスは、オーダーメイドであることが一目瞭然なほどあなたの身体に合っていた。脇に置かれたバーバリーの鞄も、手首にのぞいた腕時計も、あなたに似つかわしくないものなど何一つなかった。

 あなたを形成する全要素が、確固とした意志をもって生きてきたことを主張していた。筋が通らないことは受け入れないような頑なさをまとっていたあなたは、芯が通った男性を好む私を一瞬で虜にした。

 あなたも熱を帯びた瞳で私を見ていた。視線が絡むと、私の頬は点火されたように熱くなった。その瞬間を境に、モノクロ写真のように流れていた私の世界は、豊かな色彩を帯びて動き出した。

「どうした、早くこっちに来て座われよ」

 立ち尽くす私を訝しむ志津課長の声で、我に返った。私は、紅潮した頬を隠すように俯き、窓際のカウンター席に向かった。硬直していた脚が絡み、転びそうになるのを気力で立て直した。

 志津課長は、「悪かったな。休日出勤の後に」と私を労うと、お洒落なバーには似つかわしくない野太い声で切り出した。

「彼女が営業部主任の鈴木みお。春から君の片腕になってくれる。鈴木、彼は来週から営業部で大学入試担当の課長代理に就任する海宝航かいほうこう。俺の大学の同級生で弓道部仲間」

 志津課長と同期なら、41歳だが、あの日のあなたはもっと若く見えた。あなたは、心なしか上ずった声で「はじめまして、海宝です。今日は、ご足労いただきましてありがとうございました。今後よろしくお願いいたします」と言ってから、深々と頭を下げた。明らかに年下だった私には、丁寧すぎるほどのお辞儀だった。

「こちらこそ、宜しくお願いいたします」と恐縮する私に、「しばらくは、鈴木さんに頼りっぱなしだと思いますが、どうか宜しくお願いします」と軽く頭を下げた。盗み見たあなたの左手の薬指に、指輪がないことを確認し、私の心は浮きたった。

 挨拶が済んで席につくと、あなたがウェイターを呼んで、メニューを用意してくれた。志津課長を間に挟んで座ったあなたと私は、ほぼ同時に「モスコミュール」とオーダーし、思わず顔を見合わせた。志津課長は「初っ端から気が合って結構」と豪快に笑い、何杯目かわからないウイスキーの水割りを頼んだ。

 乾杯を終えると、志津課長は、大学院の修士課程を出たあなたが広告代理店で勤務した後、大阪の私立大学に転職し、広報や入試担当職員を長く務めていたことを呂律の怪しい口調で語った。今回、私達の会社が、大学入試の試験監督代行に参入を決めたのを受け、事情通のあなたを推薦したという。

 豪放磊落ごうほうらいらくな志津課長と、頑なで神経質にも見えるあなたが、なぜうまくいくのかと思った。だが、話が進むうち、あなたの誠実さが、彼の心を深く捉えていることが話の端々から伝わってきた。

 私は志津課長の話に耳を傾けながらも、彼を挟んだ位置に座っているあなたに全身全霊を傾けていた。あなたの言葉、身体の動き、息遣いから鼓動、香りまで、すべてを感じたくて五感を研ぎ澄ましていた。

 1時間ほど経った頃、志津課長のiPhoneが鳴った。彼が電話に出るために席を外すと、私たちは2人だけになった。

 志津課長が抜けると、途端に初対面の気まずい空気が流れ、互いに沈黙を埋めようと模索した。あなたは、営業部のことをいくつか質問した。私はスマートに答えようとしたが、緊張のために舌がうまく回らなかった。あなたが質問をしては、私が言葉少なに答え、再び落ちてくる沈黙を埋めようと、あなたが質問する流れを繰り返した。志津課長は、私を仕事が丁寧なのに早くて、ノリもいい奴と持ち上げてくれたのに、それを証明できない自分が悔しかった。

 志津課長の電話は思った以上に長くかかった。会話のネタが切れ、2人とも気まずい沈黙を持て余し始めた。私は課長が戻ってこないかと、助けを求めるように店の入り口に目を遣った。

 化粧室に行こうかとポーチに手を伸ばしかけたとき、あなたが店内に流れる音楽に耳を傾けながら言った。 

「この歌手、好きなんです。マイケル・ブーブレといって、正統派の甘い声が魅力です。彼の声と表現は、僕の胸に直球で訴えてくるんです」

 私は目を見開いた。「私も大ファンです! 彼のアルバムは、すべて持っています。3年前の来日公演も行きました」

 あなたは驚いて、私のほうに少し身を乗り出した。「本当ですか? 一番好きな曲は何ですか?」

「そうですね……。1曲を選ぶのは難しいですが、敢えて選ぶならSave the last dance for meです。I will never, never let you goの辺りは、蕩けそうになります」

「わかります! 彼のセクシーな声は、男の僕でも惹かれるものがあります。あの曲は、彼の魅力が生かされた曲の1つだと思います」

 私は、身を乗り出したあなたから、さわやかな香りがほんのりと漂ったのを見逃さず、会話が途切れたタイミングで尋ねた。

「あの、香水をつけていますか?」

「すみません、不愉快でしたか? 自分だけに香る程度につけているのですが、気づかれたのは初めてです。さっき、トイレでつけ直したせいかな……」

「いえ、とてもいい香りでした。私、昔から嗅覚が敏感で、香りを楽しむのが好きなんです。私も自分だけがわかる程度につけます。香水の匂いは、嫌いな人には拷問だと知っていますから、職場ではつけません。つけるのは、もっぱら自分の部屋です」

「同感です。僕は苦手な香りを漂わせる人が長時間近くにいると、頭が痛くなるんです。だから、僕が会社につけていくのは匂いの弱いフレグランスミストか練香水で、それも自分だけにわかる程度です。香水をつけるのはプライベートの外出だけです」

「ところで、何という香水をつけているんですか?」

「アラン・ドロン サムライのアクアクルーズです。以前は、アクアマリンを愛用していたのですが、これが出たとき即座に乗り換えました。気分が落ちているときも、これをつけると浮上できます」

「すごく、わかります! 私も職場で、好きな香りのハンドクリームを塗って、気持ちを上げることがあります」

 共通点が次々と見つかったことで、2人の舌はすっかり滑らかになっていた。

 しばらくして戻ってきた志津課長は、話に花を咲かせる私たちを見て、いいチームができそうだと頻りに頷いていた。

2

 私の人生で、「恋に落ちる」という言葉が、あれ以上ふさわしい瞬間は、これまでも、そしてこれからも訪れない。私はあなたと出会った瞬間、理由など考える余地もなく恋に落ちた。

 何年か前、彩子と帝国劇場でミュージカル「レ・ミゼラブル」を見た。理想に燃える青年マリウスが、コゼットに一目ぼれし、その気持ちを歌う「プリュメ街」という歌があった。あのときは、彼の高揚感に、暗い客席で苦笑いを嚙み殺した。だが、あの瞬間の私は、まさに「燃える太陽の矢が胸に飛び込んできて、人生に天使たちの音楽が鳴り、虹の空へ翔んで」いくマリウスだった。

 私は、あなたに出会う前にも、本気で恋をしたと言える経験が何度かあった。そのときはすべて、相手と関わる過程で、優しさ、男らしさ、ふと見せた弱さなどを発見し、徐々に気持ちが高まっていった。それを思い返すと、あの夜の衝撃は、夜景の美しいお洒落なバーという非日常がもたらした幻想に終わるのではという思いも湧いた。

 だが、現実のあなたがオフィスに現れ、共に仕事をするようになると、あのとき芽生えた気持ちは、水をたっぷりと注がれた植物のように逞しく育っていった。志津課長から、あなたが既婚者で、息子さんがいると小耳にはさんだときは、鋭利な刃物で胸を抉られたような痛みを覚えた。だが、あなたの年齢と、まとっている雰囲気を考えると、守るものがないほうが不自然だった。私は育っていく思いを隠すと決めたが、それをへし折ることはできなかった。

 あなたを好きな理由は、降りやまない雪のように積もっていった。能力に支えられた頑ななまでの意志の強さ、周囲に気遣いを忘れない誠実さ、気を許した人に見せる親密さ、自分に似合うものだけを身に付けるぶれない姿。そのすべてが私の胸を焦がした。あの頃の私は、行きつく先に何があるかなど考えられず、ただあなたと親しくなりたい一心だった。

 私たちは仕事を通じて良好な関係を築いたが、あなたは私と親しくなり過ぎないよう、頑なに線を引いていた。それでも、仕事中に、かなり高い頻度で視線が重なった。あなたはいつもさっと目を反らしたが、私は何かを期待せずにいられなかった。

 

 あなたとの距離が縮まったのは、2か月ほど経った頃だった。

 あなたと志津課長が率いるチームは、大学入試、単位取得試験の監督代行の資料を作成し、全国の大学・短大に発送した。資料が届いたころ、営業部総動員で入試担当者に電話で打診し、手ごたえがありそうなときは、営業部か地方事業所のスタッフが出向いて交渉した。

 あなたは、営業部と地方事業所員の教育を入念に行うとともに、自ら寝食を惜しんで現地に足を運び、契約を取り付けた。入試専門職員として経験豊富なあなたは、大学事情に明るく、担当者の心を掴むのに長けていた。

 私たちは契約数を順調に伸ばしていた。契約が増えるに従い、確保しなくてはならない登録スタッフの数も増えていった。それに伴い、試験運営部は、全国の事業所に新規スタッフの登録会の増加を要請した。ある程度契約が増えたころ、試験運営部の土屋つちや課長が、険しい顔をしてあなたのデスクを訪ねてきた。

「大学入試に派遣するスタッフは、『国家試験の試験監督の2回以上の経験者』ですよね。これ以上、契約が増えると、条件を満たすスタッフが不足し、増員が間に合わないかもしれません。このあたりで、一旦契約をストップしていただけませんか?」

 真摯な眼差しで耳を傾けていたあなたは、口調は穏やかでも、確固とした意志を込めて主張した。

「入試シーズンまでは、十分に時間があります。現時点で条件を満たしていなくても、能力のあるスタッフに、国家試験の監督員、監督補助員を経験させて、増員を加速していただけませんか」

 傍らで聞いていた志津課長が口を挟んだ。志津課長は、土屋課長と同期で、気心が知れていた。

「今年が初めてだし、無理をするより、確実に成果を出すほうがいいよ。現時点で、土屋さんたちと事業所に負担をかけているからな」

 入社から日が浅く、遠慮のあるあなたは、身内からも諫められ、口を噤むしかなかった。これまで、順調に契約を増やしてきただけに、あなたが納得していないことがひしひしと伝わってきた。

 あなたと同じ考えだった私は、衝動的に切り出してしまった。

「私は運営部に4年いました。私の経験から、ある程度経験を重ねたスタッフに監督員を任せると、たいてい上手くデビューしました。そのときは、監督補助員にベテランスタッフを配置したので、危ういときはサポートできました。これから秋まで、国家試験が多いことを考慮すれば、人材の増員は可能だと思います」

 主任の私が課長に意見することは、保守色の強い職場ではよく思われないのはわかっていたが、明らかに正しいことは主張したいと思った。

 土屋課長は眉間に微かに苛立ちを浮かべていた。「鈴木さんも覚えているよね? 新しく監督員クラスのスタッフを育てるために、ベテランを外したり、補助や誘導に回したら、むくれる人が多かったこと。へそを曲げて応募してこなくなったベテランもかなりいたよね。他社に流れたベテランも少なくない。私はあれで懲りたな」

 土屋課長の言うことには覚えがあり、私は反論の言葉を失った。

「それなら、ベテランで見込みのありそうなスタッフに、リーダー研修を受けさせて、リーダーに昇格させたらどうかな? どちらにしろ、試験が増えたら、会場リーダーと副リーダーも足りなくなるだろ? 昇進の機会が少ないと、スタッフのモチベーションが落ちるし、いつまでも人材が育たないと思わないか?」

 志津課長の援護射撃に、あなたが間髪入れずに言い添えた。

「事情に暗い私が、運営部の皆様に多大なご負担をおかけしてしまい申し訳ございません。ですが、増員の加速はどうかお願いします。もし、私でもお手伝いできることがあれば、何なりとお申し付けください。今後とも、ご指導の程、宜しくお願いいたします」

「あ、いえ、ご丁寧に……。こちらこそ、守りに入ってしまってすみません……。大学入試参入は、社運をかけた大型プロジェクトですからね。こちらも気合入れますよ」

 私は、あなたが低姿勢に出たことで、土屋課長のプライドを傷つけずに済んだことに胸を撫でおろした。

「今まで、限られたパイの奪い合いというか、分け合いが続いてきたからな。思い切って新しいパイを作らないと、会社も成長できないもんな。新しいパイのために、協力しようや!」

 志津課長が肉厚の手で、土屋課長の肩を豪快に叩き、握手を求めた。

 

 その日の帰り道、交差点で信号待ちをしているあなたの背中を見つけた。

 人混みをかき分けた私が「お疲れ様です」と横に並ぶと、あなたは端正な目元をほころばせ、「今日は本当にありがとうございました」とオフィスで何度も聞いた言葉を繰り返した。

「鈴木さんが突破口を開いてくれなければ、引き下がるしかありませんでした。本当にお世話になってばかりです」

「いえ、お2人が助けてくれなかったら、どうなっていたことか……」

 信号が変わり、あなたと私は、滞留していた人の流れに押し出されるように交差点をわたった。会社の外で、あなたと一緒に歩くのは初めてで、雲の上を歩いているようなふわふわした気分だった。駅に続く道には、街路樹に茂る若葉の香りがほのかに漂い、上向いた気持ちに拍車をかけた。おり始めた夜の帳と街のネオンが、上気した頬を隠してくれた。

「鈴木さんには借りを作ってばかりですね。いつかお返しできればいいのですが……。有給休暇など、ご希望がありましたら遠慮せずに申請してください。僕のできる範囲で配慮します」

「それも魅力的ですが……」

 私は一生分の勇気を振り絞って切り出した。「これから、一杯だけご馳走していただくというのは、いかがでしょうか?」

 あなたの眉間にさっと戸惑いが走った。それを見るのが耐えられなかった私は、目を伏せ、息を詰めて歩きながら答えを待った。大型電気店から大音量で流れるCMソングが、追いかけてくるように耳にまとわりついてきた。

 あなたは腕時計に目を遣った後、「では、一杯だけ行きましょうか」と右折し、にわかに歩調を速めて歩きだした。私は慌ててあなたの背中を追った。

「すみません、今日はあまり時間を取れないので、ここでいいですか?」

 あなたは、店員が割引券を配りながら、大声で客引きをしていた串カツ専門の居酒屋を指した。店内はできあがったサラリーマンやOLでいっぱいで、髪や服に油の匂いがつきそうな濃厚な空気が漂っていた。少しだけがっかりしたが、席に通されて考えが変わった。狭い店内に小さなテーブルが所狭しと押し込めてあり、テーブルに向かい合わせに座ると、あなたと膝がぶつかりそうだった。店内が騒がしいので、少し身体を乗り出さないと互いの声が聞き取りにくく、思った以上にあなたを近くに感じられた。心臓は早鐘を打つのをやめてくれなかった。

 2人でメニューを開くと、思った以上に互いの顔が近づき、頬の熱は収まらなかった。店員を呼んだあなたに、先に注文するよう促され、私は梅干しサワーをオーダーした。学生の頃から好きで、メニューにあると必ず頼むと決めていた。

「僕もそれで」あなたは、少し上ずった声で言った。時間を惜しむあなたが、考えもなく同じものをオーダーしたのかと思った。

 店員が席を離れた後、あなたは、心なしかトーンの高い声で言った。「2度も注文するものが同じになるとは驚きました。あなたとは共通点が多いし、様々な面で共鳴できる気がします」

 あなたの言葉に、骨の髄まで響くような衝撃が走った。あなたも、あのときから、私に特別なものを感じてくれているという期待を抑えられなかった。

「本当に。何だか不思議ですね」私は熱のこもった視線であなたを正面から見つめた。だが、あなたは雰囲気に飲まれるのを拒むように続けた。

「すみません、こんな騒がしい店で」

「いえ、私、こういうお店、活気があって好きです。志津課長や同期と飲むときは、いつもこういうお店です」

「次は、もっと静かで、落ち着いて話せる店に行きましょう」

「次もあるんですか、楽しみです」

 そのタイミングで、梅干しサワーが運ばれてきた。私は次の話がうやむやになってしまったのを惜しみながら、あなたとグラスを合わせた。

「無理にお願いしてしまってすみません。これが空になるまでで、十分です」私はグラスを指さして言った。

「すみません。今日は息子の誕生日で……」あなたが、父親の顔になったのを見て、私はじわじわと全身に広がっていくような痛みを感じた。

「そんな大切な日だったんですか!? すみません、急いで空けます」私は、グラスの底の梅をマドラーでやや乱暴に砕いた。

「いえ、もう15で、父親を心待ちにする年齢じゃありませんから」

「でも、ご家庭でパーティーをするんじゃないですか? プレゼントは選びましたか?」

「8時からパーティーの予定ですから、7時に乗れば間に合います。息子は、ここ数年は、プレゼントより、現金がいいと言います」

 腕時計を見ると18時26分を指していた。15歳になる息子の誕生会のために、遅れずに帰る意志を崩さないあなたは、根を張った大木のように映った。

 あなたが今ここに座っているのは、仕事で世話になった負い目で、今後の仕事が円滑に進むための配慮だとわかっていた。悲しかったが、あなたを引き留めようという気持ちは萎えていった。意志に反した道を行くあなたは、私の好きなあなたではなくなってしまう気がした。やりきれない思いを抱えてグラスを傾けると、喉の奥でほぐれた梅干しの酸味が、あなたを引き留めたい衝動とともに、食道を滑り落ちていった。

 あなたは、お通しの枝豆を忙しなくつまみながら言った。「ところで、僕は、運営部に配慮が足りませんでしたね。もっと周囲のことを考えないといけませんね」

「いえ、課長は十分すぎるくらい周囲に配慮してくださっています。事業所の担当者を集めた説明会でも、北関東の担当者が、課長が一人一人に話しかけて、労っていたことに感動していました。その後も、契約が取れるたびにお礼の電話を入れてくれて、困ったときは親身になって相談に乗ってくれると喜んでいました」

「北関東……。水沢みずさわさんですか? ショートカットで、背の高い方ですよね。先日も大きな契約をとってくれたので、お礼の電話を入れました。仕事が確実で、信頼できる方ですね。宜しくお伝えください」

「ええ、伝えておきます。水沢彩子さいこは私の同期で親友です。そうそう、このあいだ、うちの部で新規のクライアントと行き違いが生じて、𠮟責の電話を受けて、フォローに四苦八苦していたとき、課長は全員に温かい珈琲とマフィンを買ってきてくださいましたよね。当事者の笠原かさはらさんだけではなく、私も心が折れそうになっていたので、どれだけ救われたかわかりません。それ以外にも、課長のお心遣いには、何度助けられたか」

「いつも以上の負担をお願いしているのですから、当然です。僕がもっと詳しいマニュアルを作っていれば、皆さんに嫌な思いをさせることもなく、先方の機嫌を損ねることもなかったんです」

「お気づきと思いますが、笠原さんに限らず、うちの営業部は、決まったクライアントを相手にしていればよかったので、新たなクライアントを開拓する仕事に慣れていないんです……。志津課長も言っていましたが、業界自体が、限られた数のパイを分け合う状態でしたから。大口の契約を獲得しても、何年も独占できないので、業界内で仕事をローテーションしているようなところもあります」

「今回、パイを増やすために、僕が採用されたわけですね」

「ええ。うちの会社は、安定している分、社員も保守的になっているので、課長はやりにくいことが多いでしょう。ルーティン作業に安住していた社員を動かすのは、いろいろご苦労がおありだとお察しいたします」

「あなたにも負担になっていますか?」

「とんでもないです。新しい仕事に、毎日わくわくしています。こんなにやりがいを感じているのは、入社して初めてです」

 あなたの瞳に安堵の光が瞬時に広がった。「そう言っていただいて、本当に嬉しいです。実は、僕も、新しいことを始めるのは、航海に出るようで胸が高鳴るんです」

「航海……。海がお好きなんですね。そういえば、香水もサムライ アクアクルーズでしたね」

「ええ。父が商船に乗っていたので、子供の頃から海は身近でした。アクアクルーズは、日常は巡洋航海のようだと思っている僕に似つかわしい気がします」

 あなたがちらりと腕時計を見たタイミングで、私はグラスの残りを飲み干し、帰り支度を促した。

「慌ただしくて、本当にすみません。部下にあなたがいてくださることで、毎日救われています」

 私に「こちらこそ、課長の下で働けてこの上なく幸せです」という余地を与えず、あなたは大股でレジに向かい、慌ただしく会計を済ませた。

 18時56分に、駅に向かって全力疾走するあなたの背中を見送りながら、航路を外れたあなたは、輪郭がぼやけたように精彩を欠いてしまう気がした。そんな姿が浮かんでしまうことが、無性に悲しかった。

3

「聞いて下さいよ。俺、やっと彼女できたんです」

 竹内くんは丁寧にほぐしたホッケの塩焼きに醤油を垂らしながら、声を弾ませた。流行の髪型を好み、一見すると軽薄そうに見える彼は、食べ方がとてもきれいで、子供のころ厳しく躾けられたことが垣間見えた。

「おー、良かったじゃないか。どんな子だ?」手もとがあやしくなり始めていた志津課長は、飲み干した生ビールのグラスを置くとき、小皿にかちんとぶつけてしまい、私が慌ててそれをずらした。

「信用金庫に勤めている3歳下の子です。明るくて、めっちゃいい子なんですよ」

「写真あるのか?」

「ジャーン、すずちゃんです」竹内くんは、私たちの前にiPhoneを得意そうに突き出した。

「やるな、可愛いじゃないか。大事にしてやれよ」志津課長は、店内に流れる懐メロに張り合うように野太い声で言った。

 見せられた写真は、これといって特徴のない女性だった。それでも、去年ひどいふられ方をして以来、よい出会いのなかった彼が幸せそうなのを見ると嬉しくなった。

「感じの良さそうな子だね。どうやって、出会ったの?」

「アプリ。プロフィールと写真見て、俺からイイネを送ったんだ。スポーツ全般とキャンプが好きなことで意気投合」

「アウトドア派の女性に出会えてよかったね。前の子はインドア派だったから、うまくいかなかったんだもんね。すずちゃんとの初デートは?」

「ディズニーランド。初対面だったけど、お持ち帰りしちゃった」彼は得意そうにグフフと笑った。

「なんだ、おまえ、やるじゃないか。どうに口説いたんだよ?」志津課長は、ストライプのネクタイを緩めながら竹内くんの肘をつついた。首回りが逞しい彼は、ネクタイが普通の人より短めになってしまう。

 小突かれる彼を横目に、初めて会った日に抱かれてしまう女性はどうなのだろうと思ったが、水を差すのは大人気ないので黙っていた。

 幸せそうな竹内くんを前に、私はあなたとのデートを想像した。夢見心地の私の隣にいるあなたは、ひどく居心地悪そうにしていた。

「そういえば、運営部で海宝の評価はどうだ?」運ばれてきた味噌焼きおにぎりを片手に、志津課長が竹内くんに尋ねた。

 不意に飛び出したあなたの名前に、心臓がどくんと跳ね上がった。動揺を悟られまいと、サワーに入れるグレープフルーツを絞り器で絞ることに集中した。

「できる人ですよね。何ていうか、正しいと思ったら、引かないとこあるじゃないですか。中途入社したばかりで遠慮があると思うのに、あんなふうにできるところ、格好いいです」

 志津課長は「やっぱりな」と、大きな体を揺すって笑った。

「あいつ、大学の頃から変わってないんだな。俺、弓道部で一緒だったんだ。いい奴だけど、真っ直ぐというか向こう見ずで、おかしいと思うことはとことん主張するんだ。俺たちは多少理不尽と思っても、部のしきたりに従ってたけど、あいつは部長に嚙みついて、俺が必死に諫めたことがあったよ。質問して納得したときは、素直に謝って従うところがまた気持ちいいんだけどな」

「たまにいますよね、何でも食って掛かる奴。でも、彼は、そういう痛い奴とは違う気がするんですよ。彼がこだわることは、明らかに理に適っていて、自分の言った通りにすれば良くなる自信があることだと思うんです。実際、うまくいきましたし。経験と能力に裏打ちされた自信というんですかね。そういうの男として憧れます。それと、あの方、背はあまり高くないけど、品のあるハンサムで、着ているスーツも持ち物も洗練されてますよね。うちの部で、彼が既婚者だと知って、ショックを受けた女性多いですよ」

 竹内くんの観察は身近で見ていた私と重なり、あなたの魅力を改めて実感させられた。

「うちの会社は、叩き上げの奴が多いし、一緒に積み上げてきたものがあるから、言いにくいことが多いだろ。だけど、あいつは、それがない分、おかしいと思うことは主張できるんだよな。あいつが来てから、風通しがよくなったよ。やっぱり、やつを推薦した俺は間違っていなかった」志津課長は大きく頷き、どうだと言いたげに胸を張った。

「俺、海宝課長と飲んでみたいです。今度、連れてきてくださいよ」

「どうかな、あいつ、家庭を優先してて、誘っても断られることが多いんだよな。まあ、そのうちな」

「楽しみにしてます。ところで、俺は傍から見てるだけだけど、鈴木さん、下で働くのは大変じゃない? 要求する水準高そうだし」

 私が答えをためらっていると、志津課長が口を出した。

「ああ、鈴木は大丈夫だよ。海宝と鈴木は、考え方が似てるんだ。ケミストリーっていうのかな。ナビゲーターの海宝が方向を示して、鈴木がその道を開くって感じだ。壊したくないチームだよ」

 志津課長は「これからも、よろしく頼むぞ」とジョッキを上げたので、私は「頑張ります」とグラスを合わせた。

「そうそう、このあいだ……」志津課長は、ジョッキの中身を飲み干してから続けた。「運営部に、登録スタッフから抗議の手紙が届いて、騒然としてただろ?」

「ああ、あれですね。試験前日になっても試験官マニュアルが届かなかった登録スタッフが、当日いきなりは無理だから、勤務できないって電話してきて……。担当の柴田しばたさんが、マニュアルが届かなくても、当日会場で受け取って、ぶっつけ本番で勤務するスタッフはいると言った。その登録スタッフは、類似する試験で何度も主任監督員を務めてるから、大丈夫だと思ったんでしょうね」

「そう、その件だ。1度も入ったことのない試験に、マニュアル予習なしでぶっつけ本番。しかも主任監督員。無理なのでキャンセルしたいと言ったら、柴田さんが、マニュアルのことは本当に申し訳ないけれど、スタッフさん都合のキャンセルがあると、次回から仕事が入りにくくなるが、それでいいかと尋ねたんだよな?」

「ええ。結局、その登録スタッフは、仕事が入りにくくなるのは困るので、当日できる限りのことはやると言って勤務したんですよ。でも、その後、何年も誠心誠意働いてきたのに、あんな言い方をされてショックだった。マニュアルが届かなかったのは、会社の責任なのにという趣旨の手紙を送ってきたんです」

「運営部のことだから口出ししなかったけど、昼休みに、自販機の前でちょっとした議論になったんだよ。俺とあと2人くらいは、ベテランスタッフなら、当日ぶっつけでもできるだろとういう考えだった。実際、そういうスタッフはいるし、同じ系列の試験を経験しているならできて当然だと。スタッフ都合のキャンセルがあると、次から仕事が入りにくくなるのはうちの方針だし、柴田さんの対応に問題はないんじゃないかと話がまとまりかけたときだ。缶珈琲を飲んでいた海宝が、マニュアルが届かなかったのは明らかに会社の責任なのに、突き放すような対応はひどい、そのスタッフがショックだったのは当然でしょうと言ったんだ。そしたらな……」

 志津課長が、もったいぶったように言葉を切り、私のほうを向いた。

「鈴木が、私もそう思うって。私が柴田さんなら、その登録スタッフに主任監督員の給料で監督補助員が本部要員を務めてもらい、主任監督員の経験がある登録スタッフを急遽手配する。もし、手配できなければ、自分が主任監督員として入るって」

「だって、マニュアルが届かなかったのは会社の責任だし、それが当然じゃないですか? 無理に主任監督員をお願いしてミスが出たら、受験者にもクライアントにも迷惑をかけるじゃないですか」私は思わずテーブルに体を乗り出していた。

「ほらな。こんなふうに、2人は考えが似てるんだよ」

「なるほど」竹内くんが納得したように頷いた。「そういうのって、仕事がやりやすくていいですよね。残念ながら、俺はそういう上司に出会ったことないから羨ましいです」

 竹内くんは、思いついたように言い継いだ。「考えることが似すぎているのは、仕事仲間ならいいですけど、恋人同士だときついと思いませんか?」

「そうか? 俺はうまくいくと思うけどな。喧嘩が少なくて済むんじゃないか?」

「最初は運命の相手だと思うかもしれませんよ。でも、互いに相手が考えていることがわかり過ぎるから、言いたいことが言えなくて、苦しくなると思うんです。こう言ったら、相手はこう思うと想像できちゃうのは、しんどいと思いませんか?」

「う~ん、俺はそういう相手に巡り合ったことがないから、何とも言えない。でも、もしそんなにわかりあえる相手に出会えたら、ずっと付き合っていきたいと思うだろうな」

「そうですよね。付き合って別れたら、永遠に失ってしまう可能性が高いですからね。だとすると友達でいるほうがいいんですかね。何かあったとき、自分と同じように考えてくれる人に話を聞いてもらえると、救われると思いません?」

「おまえ、やけに熱く語るな。そういう人がいるのか?」

「いないからこそ、出会いたいって思うんじゃないですか」

「今の彼女とは、しっくりこないところがあるのか?」

「やなこと言いますね。まあ、考えが違うから、面白いって思えるんですけどね」

「それはいいとして、運営部はあの手紙に、どう対応したんだ?」

 私は、あなたと私が志津課長にそんなふうに見られている喜びに浸っていて、2人が語る内容を深く考えることはなかった。

4

 コンビニを一歩出た瞬間、湿度の高い熱気に襲われ、息苦しさを覚えた。私は店内に引き返したい衝動に抗い、昼食に買ったおにぎりとサラダの袋を持ち直すと、会社に戻るために炎天下を歩き出した。

 交差点まで数メートル歩いただけで、汗でブラウスが背中に張り付きそうだった。今朝吹き付けた石鹸の香りの制汗スプレーなど、何の役割も果たしていなそうだった。交差点の対岸に陽炎が立つのが見え、ますます気が滅入った。

 背中の汗の気持ち悪さと暑さに耐えかねたとき、「鈴木さん」と呼びかけられ、跳び上がりそうになった。

「課長、お疲れ様です」

 あなたは、うだるほどの暑さの中、一糸乱れぬスーツ姿で立っていた。

「暑いですね」あなたは、ラルフローレンのタオルハンカチを取り出し、首筋と額の汗を軽く拭った。そんな仕草さえも優雅で、目を奪われてしまう。

「本当に嫌になりますね。課長はS大でしたよね。暑い中、お疲れ様でした」

「おかげ様で、S大は文系学部の単位取得試験だけではなくて、新入生のプレースメントテストも委託してくれました。これで信頼を得られたら、入試も請け負えそうです」あなたの声はめずらしく弾んでいた。

「やはり、課長自ら足を運んでくださると違いますね。本当にお疲れ様でした」S大のような規模の大きい大学に食い込めたことに、体の奥底から高揚感がせりあがってきた。

「ところで、鈴木さん」あなたは改まった口調で切り出した。

 あなたがこうした口調になるときは、何か注意をするときなので、私の胃はきゅっと縮んだ。

「以前、飲みに行ったときは、慌ただしくて申し訳ございませんでした」

「いえ、こちらこそお急ぎのときに無理にお誘いしてしまって……」想定外の流れに、身構えていた体から、すっと力が抜けていった。

「あのときの埋め合わせをしなくてはと、ずっと思っていました。もし宜しければ、中華料理店の割引券があるのですが、お時間のあるときにいかがですか?」あなたは、予約を取るのが難しいと噂のモダンチャイニーズの店の名を出した。

「ぜひ、お願いします」

「では、来週の木曜日の夕食でいかがでしょうか?」

「勿論大丈夫です」

「よかったです。後で店の場所と時間をメールでお送りします」

 私は会社まであなたと何を話しながら帰ったかも覚えていないほど、気もそぞろだった。律儀なあなたが義務感で誘ってくれたとしても、お洒落なレストランで一緒に食事ができるのが嬉しくてたまらなかった。

 店員に先導され、今日のために買ったジミーチュウのパンプスで杏色の絨毯の上を歩き、エアコンのよく効いた個室に入った。約束の20分前なのに、あなたは既に来ていて、いつもと変わらず背筋を伸ばして座っていた。高級レストランでも、気後れした様子を見せないのがあなたらしかった。

「こんな素敵なレストランに誘っていただいて、ありがとうございます」

「とんでもないです。券をもらったまま、使用期限が近づいてしまったので、来ていただけて助かりました」

「ご家族とは、いらっしゃらないのですか? 私が来てしまって何だか申し訳ない気分です」

 あなたの眉間にかすかに影が差したように見えた。「妻はあまり出たがらないので。それより、コースでいいですか? 食べられないものはありますか?」

「あ、はい、もちろんです。食べられないものはありません」あなたが、質問を受け付けない雰囲気をまとったのを察し、気圧されたように応じた。

 注文が済むと、私は2人分のジャスミン茶を大きな急須から注いだ。芳香の立ち昇るジャスミン茶は、冷たいドリンクで疲れた内臓に優しかった。

「課長のようにできる方が、うちみたいな保守色の強い会社にきて、窮屈ではないですか?」

「いえ、楽しんでいますよ。志津から大学入試に参入する話を聞いたとき、需要のある分野だと思ったので、すぐに決めました。長く大学に勤めていて、試験監督が大学教員の負担になっていることはよくわかっていましたから」

「大学の先生って、講義がそれほど多いとは思えないし、あまり忙しそうに見えませんが」

 前菜盛り合わせが運ばれてくると、私は繊細な美しさに見とれ、どこから箸をつけたらいいか迷ってしまった。あなたは、中華風冷ややっこを箸できれいに切り分け、咀嚼してから話し出した。

「大学教員は、講義やゼミの他にも、入試、オープンキャンパス、保護者対応、市民大学などのアウトリーチ、企業訪問、紀要編集、カリキュラム作成などなど、目立たないところで学務が山積みです。そのせいで、本来の仕事である研究や学会活動の時間が削られています。入試や単位取得試験の監督の負担がなくなれば、教員は助かると思いますが、予算が限られていて、外部委託できる体力のある大学ばかりではないのです。それでも、実績を重ねていけば、どんどん契約を増やせると思います」

「課長が、赤字を出してでも、額を低く設定することを譲らなかったのも、大学事情を考えてのことだったんですね」私はあなたが入社早々、価格設定で、営業部長とやり合っていた姿を思い出した。

「ええ。他社も既に手を広げていますし、大学事情を考えると、少しでも安くしないと食い込めないと思いました。最初から、扱いづらい奴だと思われてしまいましたね……」あなたは当時を思い出したのか、ほのかに顔を赤くして、ジャスミン茶を口に運んだ。

 あなたに促され、私たちは運ばれたままになっていた蟹肉入りコーンスープにスプーンを入れた。緊張していて、ゆっくりと味わう余裕はなかったが、驚くほどまろやかだった。

「関西の大学では、ずっと入試の仕事をしていたのですか?」

「最初は広報担当でした。広告代理店に勤めていたので、広報担当を募集していた大学に採用されたんです。入試担当は10年ほどです。入試にも、広報的な仕事は含まれるので、経験は無駄になりませんでした」

 華やかなイメージのある広告代理店にあなたが勤務している姿を想像できなかった。数年で転職したのは、肌に合わなかったからか、何か別の事情があったのかと思いをめぐらせた。 

 それぞれ選んだエビチリと回鍋肉が運ばれた頃、不意にあなたが言った。「たまには、仕事以外の話をしましょう。休日は何をしているのですか?」あなたは、私を正面から見据えた。

 あなたの関心が私に向いたことが嬉しくて、舌が滑らかになった。「家で好きな香りのアロマオイルをたいて、リラックスすることが多いです。あとは、大きな公園を散歩して森林浴をするのが好きです。課長は何をしているんですか? 御家族と過ごすことが多いんですか?」

「家族と過ごす時間も大切ですが、1人になりたいときもあります。僕も学生時代から公園を散歩するのが好きでした。学生の頃、駒込に住んでいたので、六義園と旧古川庭園はよく行きました。今でもたまに行きます」

「2つとも行ったことがあります! 旧古川庭園には、バラの季節によく行きます。年間パスポートを買ったこともあります」

「また共通点が見つかりましたね。僕は都立9庭園共通年間パスポートを持っていますよ」

「本当ですか? 無理に、私に合わせてくれなくても大丈夫ですよ」

「違いますよ。僕だって驚いているんです」あなたはカバンから都立9庭園の年間パスポートを出して見せた。

 あなたは、驚愕する私の茶碗にジャスミン茶を注いでから尋ねた。「旧古川庭園の紅葉は見たことがありますか?」

「勿論です。ライトアップが幻想的で素敵ですよね。そういえば、あの庭園、洋館と洋風庭園が、日本庭園を見下ろす構図じゃないですか。建てられた時代の国際関係を反映しているようで、何だか悲しくなります」

「僕も初めて行ったときから、そう思っていました!」

 あなたは顔をほころばせ、たまり醤油の炒飯に手をつけるのも忘れて尋ねた。

「他にどんな公園が好きですか?」

「浜離宮恩賜庭園です。コスモス畑が広がる秋が特に好きです。あと、井の頭公園をウォーキングするのが好きです。学生の頃、吉祥寺に住んでいたので、その頃からのお気に入りです」

「井の頭公園と言えば、不思議な自動販売機があるのをご存じですか? 蝗とか蜂の子の佃煮の缶詰を売っている」

「あー、知ってます。すごく高いんですよね」

 私とあなたは、炒飯を口に運びながら、時間を忘れて話した。杏仁豆腐と芒果プリンが運ばれた頃には、流れる空気が今までにないほど親密になっていた。

「ところで、課長は海がお好きなんですよね。海辺の公園で、好きなところはありますか?」

「横須賀に住んでいたことがあるので、ペリー公園、三笠公園はよく行きました。でも、僕は太平洋より、日本海の冬の荒海に魅かれます。祖父が新潟にいたので、よく連れていってもらいました」

「そうなんですね。私は北関東の海なし県出身なので、海への憧れが強いんです。だから、東京に出てきてから、横浜の港の見える丘公園、山下公園、臨港パークによく行きました」

「横浜ですか。僕は、そういうお洒落な場所には疎いんです。でも、気持ちよさそうですね。久しぶりに潮風を感じてみたくなりました」あなたの視線が、海に思いを馳せるように遠くに泳いだ。

「もし、宜しければ、ご案内しましょうか?」

 はっとして戸惑うあなたに、私は畳みかけた。「公園仲間ができて嬉しいです」

「公園仲間?」

「はい、バイクのツーリング仲間とか、ロードバイク仲間、犬仲間と同じようなものです。私、海外旅行に行っても、大きな公園のベンチで読書したり、芝生の上で寝ころんだりするほど公園好きなので、仲間ができるのが嬉しいです」

 あなたが奥様に罪悪感を抱かないよう、あくまでも健全な趣味仲間であると強調することに力を尽くした。

「やっぱり、2人で行くのはまずいですよね。志津課長も誘いましょうか?」沈黙に耐えられなくなった私が切り出した。

 あなたは根負けしたように言った。「いえ、それはやめておきましょう。彼が来れば、中華街食い倒れツアーになってしまいますよ。宜しければ、潮風を感じられる公園を案内してください」

「喜んで!」

 その日から、あなたと私の間には、やわらかく親密な空気が流れるようになった。ふと視線がぶつかることは以前と同じだが、あなたの反応は以前より気まずそうではなくなった。

5

 あなたは霧にけぶる海を凝視していた。私は傘を打つ雨音を聴きながら、黙って寄り添った。あなたの濃紺の傘が邪魔をし、表情はよく見えなかったが、声を掛けてはいけない気がした。

 高台から眺める横浜港やベイブリッジは霞み、輪郭が揺らいでいた。小さな観光船が、霧に飲まれるように視界から消えていった。あなたと陽光を浴びてきらきらと輝く海を眺め、吹き渡る潮風を頬に感じたかった私は、生憎の天気が恨めしかった。

 他方で、雨が降ったことで立ち上る土の匂いを吸い込むと、自然の力を体内に取り込んでいる爽快感があった。恵の雨を受けた植物の生命の躍動が感じられ、バラは秋の開花に向けて、力を貯えているように映った。

 土の匂いにいざなわれるように、実家の畑の記憶が数珠つなぎに浮かぶ。胡瓜や茄子、とうもろこしを作っていた広い畑。少し先の林には、コウモリの巣があり、夕方になると戻ってきたコウモリが頭上を飛び回っていた。

「今日は香水をつけているんですね」公園を出たころ、あなたがぽつりと言った。

「はい、ロクシタンのエルバヴェールです。ホーリーグラスをはじめとするハーブの香りが気に入って愛用しています」

「緑の香りが瑞々しくて、地に足をつけて立っているあなたらしい」

「課長も今日はつけていますよね?」

「あなたとの外出なら、つけても大丈夫だと思いました」あなたは安心した少年のような声で答え、それが私の胸をきゅっと締め付けた。

「匂いって、それと結びついている記憶を呼び覚ますと思いませんか?」

「わかります。どれだけ時間がたっていても、知っている香りがふっと漂うことで、沈んでいた記憶がよみがえることがあります。匂いは、他の感覚器にはない方法で、記憶を刺激するのかもしれませんね」

「はい。課長は雨の匂いで何を思い出しますか?」

「僕はムクドリですね」

「ムクドリですか?」

「学生の頃、研究室の周囲の木々にムクドリの巣があって、夕方になると戻ってきたんです。空が真っ黒になるほどのムクドリが上空を旋回していて、鳴き声もやかましくて、アレルギー持ちの奴は外に出られないほどでした。木々の下のタイルは、羽毛が散らばり、糞の染みでいっぱいで、歩くのが嫌でした。雨が降ると、その匂いが強烈に立ち昇るんです。雨の匂いと、その匂いは僕のなかで分かち難く結びついているんです。いま、新松戸に住んでいるのですが、街路樹にムクドリの巣があって、学生の頃と同じ状態です。僕はよくよくムクドリに縁があるみたいですね」あなたは、情緒も何もないですねと笑った。

「それなら、雨の匂いがしたら、今日私とここに来たことを思い出してください。私のまとっていた香りも一緒に。ムクドリよりはましでしょう?」

「そうですね。今日から塗りかえることにします」

 あなたの足取りが軽やかになり、私は全身に鳥肌が立つような歓喜に襲われた。自分があなたにとって特別な存在だという自惚れを止めることができなかった。

「さっき、何を考えていたんですか?」雨に濡れる外国人墓地を散策しながら、私は深緑色の傘をかしげて尋ねた。

「うん?」あなたは訝し気に私を振り返った。

「港の見える丘公園で、海を眺めているときです」

「ああ、退屈させてしまいましたか? すみません」

 私は小さく首を横に振った。決して退屈などしていないことは、言葉にしなくても伝わっている確信があった。

「お父さまとの思い出の世界にいたのですか?」

 あなたは、形のよい眉をぴくりと上げたが、それには答えずに言った。「あなたが黙っていてくれたから、いろいろ考えることができました」

 あなたは傍らの墓石に触れ、そっと撫でた。私は濡れた指先を持て余すあなたに、タオルハンカチを差し出した。あなたは驚いたようにそれを受け取り、丁寧に指先を拭ってから、ありがとうと返した。

 祖国を遠く離れた場所で永遠の眠りについた人々の空間は、静寂に支配されていた。私は石に刻まれた英語を目で追いながら、雨音の隙間から、彼らの声が聞こえないかと耳をこらしたが、ただ静かだった。目を閉じ、彼らの生前の姿、生きた時代を想い描くしかできなかった。

「彼らは、ここで安らかに眠れているのかな?」あなたは死者を起こさないよう配慮するかのような低い声で言った。

「わかりません。でも、そうあってほしいと思います」

 あなたは、私に顔を向けて深く頷いた。

「僕の父は、商船の航海士でした。働き盛りのときに、心臓発作で病院に運ばれて、意識がもどらないまま翌日亡くなりました。遺灰は、母の願いで海に撒きました。あの人は、土に還るよりも、世界中を航海したいんだと……。僕も弟もそれでいい気がしたんです」

「そうでしたか……。海に来ると、お父さまに会えるんですね」

「ええ。でも、死者は何も言わないんです。父は年を重ねるにつれ、寡黙になりました。仕事と自分の殻にこもって、僕たちともあまり話をしたがらなかった。遺言など遺していたはずもないから、送り方は残されたものの自己満足だったかもしれないですね……」

「それでいいと思います……。どんなに話しかけても、亡くなった人はもう何も言ってくれないのですから。たとえ送り方が、亡くなった方が望んだことと違ったとしても、残された方がその方を思って決めたならそれでいいと思います」

「そうですね。死者は、どんなに話しかけても、答えてくれない。だから、振り回される必要もない」

「ええ。死者との対話は、自分の心との対話なのかもしれません……」

 私は、あなたのこわばった横顔を見ながら、亡くなった父親に複雑な感情を抱えているのではないかと思った。

 墓地を出て、坂を下りながら、あなたは私を振り返った。

「あなたと話していると、心の深いところで燻っているものがほどけて、視界が広がっていきます……」

「何か哲学的ですね。良いほうにとるべきか、悪いほうにとるべきかわかりません」

 私は自分があなたの中で占める位置に自信があったが、明確な言葉を引き出そうとしていた。

 あなたは、それに答えず、歩調を速めて坂を下っていった。雨脚は、あなたの歩調と共鳴するように強まっていった。

「また、こうして出かけられますか?」

 私は遠ざかっていくあなたの濃紺の傘に問いかけた。あなたは聞こえなかったかのように、歩調を崩さなかった。

 私はあなたに追いついて、傘の柄を掴んだ。あなたは困惑したようにしばらく黙っていたが、私の手元に視線を落とし、くぐもった声で言った。

「危険なんです……」

「何が危険なんですか。私たち、ただの公園仲間です。指一本、触れていないじゃないですか」傾げた傘からぽつぽつと落ちてきた水滴が、私とあなたの肩を濡らした。

「だからこそ、危険なんです。肉欲に溺れるより、ずっとたちが悪い」あなたは柄を掴んだ私の手をそっと外し、坂を下り始めた。

「何なんですか、それ?」私は声を荒らげていた。

 あなたはしばらく坂を下ってから、足を止めた。私に向き直ると、いつもの穏やかな表情で言った。

「今度は、志津と竹内さんも一緒に、飲みに行きましょう。誘われていたのに、断ってばかりでしたからね」

「ずるいです……!」

 私は小さくなっていくあなたの傘を睨みつけた。行き場のない思いで、鼻の奥がつんと痛み、喉元がきゅうっと締め付けられた。傘から絶え間なく垂れる水滴が、今日のために買った白いワンピースを濡らし、体の熱を奪っていった。

 その日を境に、あなたと私のあいだに流れていた親密な空気は消滅してしまった。あなたの私への接し方は、慇懃無礼と言えるほど形式的になり、視線がぶつかることもなくなった。

 どん底に突き落とされた私の世界は、モノクロに戻ったようにどんよりと流れていった。以前にも増して契約数を増やし、生き生きと業務をこなすあなたを見ると、自分の自惚れを笑うしかなかった。

6

「笠原さん、この日付、どういうことですか?」

 運営部の柴田さんが、電話を保留にしたまま、営業部の笠原さんのデスクにつかつかと歩いてきて詰問した。

「Y大学に下見に行く日時、11月16日 午前9時とありますよね。先方は、6日、つまり明日のつもりで確認の電話をかけてきているんです」

 笠原さんは、ファイルをひっくり返し、必要事項を書き込んだ書類を取り出した。私は作業の手を止め、彼女の見つけた書類をのぞき込んだ。6日と書いてあった……。

「エクセルフォームに入力するとき、間違えたのかもしれません」蒼白な顔をした彼女は、消え入りそうな声で呟いた。

「とにかく、謝って日程変更してもらうから」柴田さんがデスクに戻り、保留を解除しようとした。

「待ってください。その日は、開学記念日で講義がないから、全教室を見てもらえて都合がいいと指定された日なんです……」

 柴田さんは頭を抱えた。「どうしよう、明日は、運営部で空いている人いないんです。広島だし、片手間で行ける距離じゃないですよね……。やっぱり、謝って別の日にしてもらいます」

 時計は16時を回っていた。

 そのとき、パソコンキーを忙しなく打っていたあなたが立ち上がり、空気を切り裂くような声で切り出した。「私が行きます。いま調べましたが、今夜の夜行バスに乗れば、明日の早朝に着けます。他にも広島方面に口説きたい大学があるので、いいタイミングです」

「待てよ。海宝は下見をやったことないだろ?」志津課長が口を挟んだ。

「私は入試担当を何年もしていました。何とかなります。Y大の仕事は大口です。信頼を失うわけにはいきません」

「うちのやり方があるんだよ。チェック事項が山ほどある」

 あなたは困ったように顎に手を当てた。志津課長は、周囲をざっと見回し、私に目を留めた。

「鈴木、行ってくれないか? 海宝はいい機会だから、一緒に行って、覚えてこい」

 あなたの眉間に困惑の色が走ったのを認めたが、私は即座に了承した。

 志津課長は、柴田さんに、伺う者は替わるが予定通りにと伝えるように頼んだ。

 あなたは、泣き出しそうな顔をした笠原さんに、「ちょうど、広島方面に口説きたい大学があるから好都合ですよ」と優しく言った。

              ★

 あなたと私は、朝7時に広島に着く夜行バスに乗り込んだ。次の日は、午前中にY大の下見を済ませ、午後は3つの大学を訪問し、その夜は広島市内のビジネスホテルに泊ることになった。

 あなたが私と2人になるのを避けたかったことは、ひしひしと伝わってきた。バスの座席に落ち着くと、気まずい空気に息が詰まりそうになった。

 あなたは書類に目を落として事務的な口調で言った。「明日の午後、あなたはD大に行ってくれませんか? 僕はA大とN大に行ってきます」

「A大は遠いじゃないですか。私が2つ行きます」

「先方と約束した時間と順路を考えると、僕が2つ行くほうが効率がいいです。僕はタフですから大丈夫です。弓道部にいたときから、志津よりずっと体力も集中力もありました。あなたは先にホテルにチェックインしてください」  

 あなたが私を寄せ付けない空気を強めたので、私はそこに切り込むように話し出した。

「笠原さんのことですが……」

「ああ、さっき志津と話して、笠原さんには大学関係からは外れていただいて、今までやっていた仕事に専念してもらうことにしました。今までの仕事は、確実にこなしていたようですから。彼女もそのほうが、気が楽でしょう」

 私も同じことを考えていたので、何も言うことはなかった。

「彼女の電話を聞いていると、いまいち押しが弱いというか、投げやりなところが抜けません。いまの仕事が向いていないのでしょう。僕から話をします。あなたは彼女が苦手でしょう」

「すみません。宜しくお願いします」

 笠原さんは私と1歳違いだったが、どこか退廃的な雰囲気をまとっていて、コミュニケーションが難しかった。私が言葉を尽くして指示や注意をしても、意図した通りに受け取ってもらえず、どう接していいかわからなくなることが多かった。

 あなたは、私との会話を長引かせたくない意志を顕示するかのように、乗車前に買った睡眠薬の箱を取り出した。「明日に備えて、眠っておきましょう。僕はこれを飲みますが、あなたはどうしますか?」

「いただきます」

 あなたは錠剤シートをぱちんと割って私に渡すと、ペットボトルの水で錠剤を飲み込み、スマホのアラームをセットしてから、コンタクトレンズを外した。私からできるかぎり体を離すと、腕組みをしてきつく目を閉じてしまった。

 鼻先でぴしゃりとドアを閉められた気がし、絶望が骨まで染み込んでいった。白い錠剤をペットボトルのお茶で乱暴に流し込み、目を閉じてみたが、至近距離にあなたがいると思うと眠れなかった。

 あなたの規則正しく上下する肩を見つめながら、かすかにもれる寝息を感じた。これほど近くにいるのに、あなたとの距離は途方もなく開いてしまったことを思い知らされた。目の裏に溜まった涙をこぼすまいときつく目を閉じ、座席に伝わる振動に身を委ねた。

 あなたと同じ錠剤を飲んだのに、落ちていくのは別の夢だった。

 バスを降りても睡眠薬の影響で頭がぼーっとしていた。だが、チェーン店のカフェで温かい珈琲とサンドイッチをお腹に収めると、徐々に頭が覚醒していった。トイレで歯を磨き、化粧を直し、グレイのパンツスーツに乱れがないかチェックし、エルバヴェールのハンドクリームを塗り直した。

 席に戻ると、あなたはサンドイッチをかじりながら、午後訪問する大学までの行き方をスマホで検索していた。めずらしく黒縁眼鏡をかけているので、いつもより目が大きく見え、ただでさえ整った顔立ちが際立っていた。

 約束の20分前に、タクシーでY大に到着した。開学記念日で休講なので、キャンパスは閑散としていた。運動部の掛け声が、遠くから風に乗って流れてきた。私は校門をくぐると、キャンパスマップを片手に、立て看板や掲示を出す位置に印をつけ、自動販売機の位置を書き込んだ。入試が行われる棟への導線を確認しながら、外部誘導員に立ってもらう場所を決めた。しばらく現場を離れていたが、昔取った杵柄で、体が自然に動いた。作業をしながら、あなたの視線を常に背中に感じていた。

 大学側の担当者に立ち合ってもらい、入試で使用する10教室をチェックシートに基づいてチェックした。電灯、空調の作動音、マイクの操作方法、張り紙をしてよい壁と使用できる資材、机と椅子の数と配置、遮光カーテンの有無、出入り口の開閉音、エレベーターの音が教室に響かないかなど、チェック項目はたくさんある。最初の教室は、手順を覚えてもらうために、あなたと一緒にチェックした。

 私が可動机を一つ一つ揺らし、揺らぎをチェックしながら、脚の下に入れるフェルトが必要な位置を書き込んでいるのを見て、あなたが何をしているのか尋ねた。

「ここは、床自体がへこんでいるので、机の高さを調節しても、別の机に変えても揺らいでしまいます。こういう場合は、調整用の丸いフェルトを入れます。必要な枚数は、登録スタッフさんに渡す配席図に記入して、設営時に対応してもらいます」私はジップロックからフェルトを取り出し、2枚入れて揺れがないことを確認し、チェックシートに枚数を書き入れた。

 次の教室から、あなたは積極的に動いて、サポートしてくれた。

 教室チェックの終了後、各階の男子トイレと女子トイレの数、障碍者用トイレの位置、混雑時の別棟のトイレへの誘導経路を確かめ、男子トイレを女子トイレに変更する階を担当者と相談して決定した。

「今日はあなたに頼りっぱなしでした……」最寄り駅まで歩きながら、あなたは穏やかな声で言った。流れていた重苦しい空気は、いつの間にか消えていた。

 私はそれに答えず、話をそらした。「古い大学なので、床のへこみが多くて、いつもより時間がかかりました。固定机だと、その心配はないのですが、椅子を一つ一つ上げおろして壊れていないかチェックしなくてはなりません」

「今度、僕も試験当日の現場を見せてもらいたいです」

「わかります、その気持ち。営業部は、契約したら、運営部にバトンタッチしてしまうので、実施まで見届けられないですからね。繁忙期には、試験当日、運営部の手伝いで、総本部に入ることもありますけど」

 あなたとは駅で別れ、それぞれの大学に向かい、夕方ホテルで落ち合うことにした。あなたの態度が以前のように戻ったことで、スキップしたい気分でD大に向かった。

               ★

「D大は、地方受験3会場の運営を任せてくれました」私はホテルのラウンジであなたに資料を広げて見せた。

「すごいですね。僕の方は、2大学とも、予算不足で今回は見送りでした」あなたが少し悔しそうなので、私は得意になった。

 夕食をどうするか尋ねようとしたとき、不意にあなたが切り出した。

「もしお疲れでなければ、せっかく広島に来たのですから、宮島に行ってみませんか? 紅葉が見頃だと思います」

「行きたいです!」昨日から蓄積していた疲労など、一瞬で吹き飛んでしまった。

               

 宮島は初めてだった。ライトアップされた厳島神社と大鳥居、その周辺を行き来する遊覧船の雅な美しさに、言葉が出なかった。平家一門が舟遊びをする情景が脳裡に浮かび、雅楽の音が耳の奥から聞こえてきた。姫君が焚き染めていた香はどんな香りだったのだろうかと思いを馳せた。

 島に渡るフェリー上からスマホのカメラを構え、夢中で撮影したが、実物の半分の美しさも収めることができなかった。がっかりしていると、あなたが言った。

「カメラがとらえた映像でしかなくなってしまうんですよね。本当の美しさは、目と心に焼き付けるしかないんです……」

 考えていたことをに言葉にされてしまい、力なく笑うしかなかった。

 宮島に上陸すると、海沿いに並ぶ明かりの灯された石灯篭が幻想的で美しく、日本人に生まれた幸せが湧きあがってきた。こんな神聖な場所に、あなたといられることに胸が熱くなり、一瞬、一瞬がかけがえのない時間に思えた。

 あなたは、丸くなっている2匹の鹿を見つけ、かがんで優しく撫でた。仕事中は見せない穏やかな横顔を、そっとスマホカメラで撮影してしまった。

「牡蠣は食べられますか?」あなたは思いついたように私を振り返って尋ねた。

「全然大丈夫です」

「よかったです。まずは、お腹を満たしましょう」

 あなたが案内してくれた店で、生牡蠣と焼牡蠣、焼き穴子、牡蠣ごはんを注文し、2人ともよく食べた。私の食べっぷりに、あなたは驚いていた。

 紅葉谷公園に上ると、ライトアップされた紅葉が織り成す雅趣に富んだ風景に圧倒された。赤く染まった紅葉は、残された命を懸命に燃やしているように思え、無性に愛おしかった。舞い散った葉は、土に還り、次に命を燃やすものの糧となる。

 私は幻想的な美に誘われるように、もみじ橋の上を歩き、ひらひらと落ちてくる赤いもみじを掌で受け止めた。

「すごく綺麗に撮れましたよ」

 あなたが撮影した私は、この上なく幸せそうな顔で、落ちてくる赤いもみじを受け止めようとしていた。舞い落ちるもみじの躍動が感じられ、あなたが夢中でシャッターを切ったことがわかった。

「それ私に送ってください!」

 お礼に、あなたが鹿を撫でている写真を送信すると、あなたは「いつの間に……」と驚いていた。

「着物をレンタルすればよかったですね……」あなたは私の写真をしげしげと眺めながら言った。

「え?」

「着物姿でここを歩くあなたを見たいです」あなたは目を細めて私を見ていた。

 あなたと再びここに来て、着物姿で橋の上を歩く自分を想像した。それが実現するかを考えると、夢から冷めてしまいそうで、いまこの瞬間を楽しむことに強引に意識を戻した。

 私たちは石灯篭の並ぶ海辺に置かれたベンチに落ち着き、対岸の夜景を眺めた。時折、遊覧船が視界を横切っていった。少し離れたところで、鹿が一匹丸くなっていた。

「あなたは、北関東出身だと言っていましたね」

「はい、栃木県小山市です。工業団地のはずれに、古くからの農家が点在しているようなところです」

「東京に出てきたのは?」

「大学に入学したときです」

「僕も同じです。実家にはよく帰るんですか?」

「いえ……」

 決して遠くない距離でありながら、帰るのは年に1度で、1泊しかしない。家族と仲が悪いわけではないが、実家に帰ると抱えている悲しみを呼び起こされてしまうので、どうしても足が遠のいてしまう。

 私が背負い出した空気に何かを感じたのか、あなたは低い声で言った。「何か重いものを抱えているようですね」

 口ごもる私に、あなたは「無理に話さなくていいですよ」と優しく言った。海風がさっと横切り、磯の匂いを鼻腔に残していった。

 ずっと言語化できないまま私を支配していた悲しみも、あなたなら理解してくれるのではという思いに突き動かされ、言葉を選びながら話し出した。

「家族と仲が悪いわけではないんです。虐待とかネグレクトをされたわけでもありません。何不自由なく育てられて、傍から見たら何も問題ないと思います……。贅沢だと言われることはわかっているのですが……」

 あなたは黙って頷いた。

「私は家族が、私自身が望むような人生を歩めず、家族を失望させてばかりでした。家族から責められたことはありません。それでも、言葉にされない分、彼らの失望や悲しみがひしひしと伝わってきて、自分が情けなくて仕方がないんです」

「ご家族は、あなたに何を望んでいたんですか?」

「うちは、教員の家系でした。父方の祖父も母方の祖父も校長で、祖母2人も教員でした。両親も教員でした。両親とも地元で一番の進学高校に難なく入り、有名大に進学しました。両親は文武両道で、生徒会長や学級委員などに選ばれるのは当たり前で……。当然のように、私にも同じ水準が期待されました。年老いた母方の曾祖父は、優秀な母を溺愛していて、お母さんのようになれ、お母さんをいじめるなが口癖でした。私もそのつもりでしたが……、私はあまり優秀な遺伝子を受け継がなかったようで、努力しても成績は中の上、運動も得意とは言えない子でした。地元の進学校に落ちてしまい、大学は古いだけが自慢の三流女子大でした。地元で教員や公務員になるのがエリートだと認識している家族は、私の就職先にも失望しています」

 夜風が冷たくなり、辺りを通る人もまばらになった。私はトレンチコートの前をきつく合わせた。

「進学高校に落ちたとき、私を可愛がってくれた母方の曾祖父を始め、家族の落胆は言葉にできないほどでした。そのときどんなにショックだったかを、今でも言われるほどです。母方の曾祖父と祖父母に、滑り止めの高校の制服を見せにいったとき、『この家にこんなことがあっていいのかい、何かの間違いだよ』と祖母が泣きだして……。私を直接責めない代わりに、お母さんが気の毒だねとみんなで頻りに言うんです。打ちひしがれている私よりも、母を気の毒に思っていることが刺さりました。私が育った父方の実家は、近所でも一目置かれる家でした。狭い田舎なので、私の学校の同級生の両親には、父の同級生がたくさんいて、私が優秀だと当然のように思っていました。祖父母が近所で散々、父の自慢をしてきたので、私が優秀ではなく、進学校に落ちて、彼らに肩身の狭い思いをさせてしまいました……」

 鹿が歩いてきて、私たちの前で丸くなったので、私はその背をそっと撫ぜた。

「大学受験の頃には、家族はいろいろなことを諦めていて、『どこでもいいよ……』と悲しみを押し込めた声で言われました……。父と母は、五体満足なのが一番だからねが口癖になり、自分たちを納得させようとしているのがひしひしと伝わってきました。最大限の優しさだと思うのですが、家族の夢を一つ一つ諦めさせていった自分が悲しいです。そんな悲しみが、子供の頃から私のなかにどんどん蓄積されていって……、私のマイナス思考を形成しているんです。それが嫌だと恋人に捨てられたこともありました。仕事が安定してから、いくらか自信がついたのですが、実家に行くと、沈んでいた悲しみが全身に回り始めてしまうんです」

 言葉にしてみると、出来の悪い娘の愚痴に過ぎず、つまらない話を聞かせてしまったと恥ずかしくなった。

「すみません。どうでもいい話を長々と……」

 あなたは大きく首を左右に振った。

「家族から言葉にされたことはなくても、望む通りになれない悲しみは、おりのように蓄積されていくんですよね。僕も父の理想とした頑健な体のスポーツマンにも、船乗りにもなれなかったので、あなたの話が自分のことのように響きました……。父は幼い僕に自分の好きな柔道やサッカーを習わせたのですが、僕は下手で怪我をしてばかりで、父を落胆させ続けました。僕が唯一続けられたスポーツは、父の関心のない弓道でした。僕が物静かで本ばかり読む子になるにつれ、父はそれに比例するように無口になり、仕事に邁進しました。父とは、どちらかが悪いわけではないのに、互いを蝕む悲しみを蓄積させてしまう悲しい関係でした。自分の殻にこもってしまった父が、僕をどう思っているのかを知りたかったけれど、知るのも怖い気がして、そのまま永遠に別れてしまいました……」

 あなたとは、アイデンティティ形成の根幹にある悲しみが似ているので、互いに届く言葉を持っているとわかった。ずっと血を流し続けていた傷に包帯を巻いてもらったような安堵で、目頭が熱くなった。私はベンチから立ち上がり、石灯篭の陰で深呼吸して涙を堪え、鼻をすすった。

 背後から、右肩に遠慮がちに手を置かれた。

「我慢しなくていいんです……」あなたは背後から私の両肩を掴んだ。

 肩に伝わる力強さと、この上なく優しい声に、堪えていた涙があふれ、あなたの胸に顔を埋めた。あなたは肩を震わせる私を覆いかぶさるように抱き締めてくれた。

 堰き止めてきた思いが、ダムが決壊したように溢れ出し、もう止めることができなかった。

「好きです……、初めて会ったときから」

 私は涙だらけの顔を上げ、あなたを見つめた。

 あなたは目を伏せ、私の手にハンカチを握らせた。

「今のは聞かなかったことにします。あなたは、かけがえのない仕事のパートナーです」

 あなたは「そろそろ、フェリーがなくなります」と私を促し、乗り場に向かって歩き出した。ベンチの脇にいた鹿が身を起こし、あなたを追うように歩いていった。

7

 東京に帰る新幹線の座席に落ち着くと、あなたは膝の上で手を組み、背筋を伸ばして切り出した。

「これから話すことは、あなたの胸に収めて、絶対に口外しないでほしいんです。志津にも話していません。あなたが、口外するような人ではないことはわかっていますが」

 私は「約束します」と答えた。何も言わなくても、あなたに伝わっている確信があったが、敢えて言葉にした。

「妻と出会ったのは、修士課程を修了して就職した都内の広告代理店でした。本当は博士課程に進んで、地方自治の研究者になりたかったのですが、修士1年の終わりに父が亡くなったので、母と弟のために少しでも給料のいい会社に就職したかったんです。その代理店は、過疎山村の地域振興の広告も担当していたので、専門を生かす機会もあると思い、入社を決めました」

 発車した新幹線の振動に身を任せ、私はあなたのきつく組んだ手を見つめながら耳を傾けた。

「希望通り、地域振興を担当するチームに配属され、最初の仕事が、ある東北の過疎山村のUターン、Iターンのプロモーションでした。そのプロデューサーが、当時39歳だった彼女です。もの静かなのに、決して陰気ではなく、地道に確実な仕事をしていて、高い評価を得ていました。新人の僕の意見にも真剣に耳を傾けてくれて、間違ったことを主張しても軽蔑したりせず、時間をかけて論理的に説明してくれる人でした。いつも、彼女の意見は正しくて、知識と経験に敬服させられっぱなしでした。そんな彼女ですが、ひとたび仕事を離れると、好奇心旺盛で、少し子供っぽいところもあり、そういう一面を見るとどきっとしました。趣味も幅広くて、話していると楽しくて、自分の世界が広がり、気がついたらどうしようもなく好きになっていました」

 24歳のあなたが、15歳年上の知的で魅力的な女性を熱い視線で見つめる姿が瞼の裏に浮かんだ。私は胸にじわじわと食い込んでくる痛みに耐えた。

「他の男性が彼女と言葉を交わすたびに激しく嫉妬して、誰にも取られたくないと思いました。彼女が15歳年上だということなど全く関係なく、恋をしたんです」

 体中に毒のように回っていく嫉妬に突き動かされ、彼女はどんな容姿だったのか、どんな服や靴を身に付けていたのか、声のトーンはどんなだったろうかと思いを巡らせずにいられなかった。

「3か月ほど経ったとき、意を決して彼女に告白して、交際を申し込みました」

 私は固唾を呑んで続きを待った。

「彼女は、自分は一回り以上も年上で、あなたにはふさわしくない。そんな交際をしたら、あなたのキャリアに関わると諭しました。僕がなかなか引き下がらなかったので、自分もこの年齢だから、結婚してくれないならダメ、子供も欲しいからすぐにでも結婚したいと言いました。そうすれば、僕が逃げていくと思ったんでしょう」

「あなたは諦めなかったんですよね?」 

 あなたは、どこか楽しそうだった。「僕はそうしてもいいと思っていたので、その場でプロポーズしました。彼女は呆気にとられていましたが、3日後にOKしてくれました。後で聞いたら、彼女は、前の年に婚約破棄されていて、すぐにでも結婚したい思いがあったそうです。実は彼女も僕に恋をしていたけれど、自信がなくて言い出せなかったと、はにかみながら打ち明けられたときは、天にも昇る思いでした」

 猪突猛進ちょとつもうしんするあなたに、私も呆気にとられたが、あなたらしいなと思った。 

「大阪の彼女の実家に挨拶にいきましたが、大反対されました。今は良くても、時間が経てば僕が後悔することがどんどん出てくるだろう、そうなったとき娘が気の毒だというのが主な反対理由でした。それでも、僕が何度も訪ねて話をするうち、ご両親は僕が年齢よりもしっかりしていて、覚悟も半端ではないとわかり、態度が軟化していきました。どんなことがあっても彼女を守り続けると、ご両親と彼女、妹さんの前で誓って、結婚を許してもらいました」

「あなたのお母様は?」

「最初は驚いて反対しました。でも、彼女の聡明さや落ち着いた人柄を知り、彼女の実家がかなりの資産家であることも判断材料になり、僕の意志を尊重してくれました。それからは、早かったです。籍を入れて内輪だけの式を挙げ、すぐに妊活に入りました。協力して不妊治療に取り組み、幸い数か月で彼女が妊娠しました。僕は妊娠がわかったとき、彼女の体を考えて、仕事を辞めてほしいと言いました。広告代理店の仕事は激務ですから。彼女はお腹の子を第一に考えて、仕事を辞めてくれました。安定期に入ったとき、医師から、彼女の子宮の状態で妊娠できたのにも驚いたが、安定期に入ったのは奇跡と言われました」

 若いあなたが愛する女性を全力で守る姿が目に見えるようだった。あなたは、この先、どんなことがあっても、彼女と息子を守り続けるだろう。それ以外の選択をしたら、あなたがあなたではなくなってしまう気がした……。

「翌年、彼女は里帰りしていた大阪の病院で、予定より早く、帝王切開で息子を出産しました。妊娠中、その継続が難しい時期があり、諦めることも選択肢に上がったので、無事に生まれたときは本当に嬉しかったです。やがて、彼女は息子を連れて東京に戻ってきました。けれど、彼女が育児で大変なときと、僕のチームが変わり、仕事が忙しくなった時期が重なったのです。僕の帰宅は連日深夜になり、休日返上で仕事をする日々でした。出張で家を空けることも増え、家に帰ると息子の世話をしながら寝てしまうこともあり、十分に協力できたとは言えません。息子の泣き声と、彼女の金切り声が耳に張り付き、疲労だけが蓄積し、すべてから逃げ出したくなることもありました。そんな状況下、彼女が精神不安定になり、育児がままならなくなって、高齢のお義母さんが、大阪から出てきてくれました。お義母さんは、産後うつだろう、自分も経験したし、そうめずらしいことではないと言いました。妊娠中も彼女が精神不安定になることはあったので、僕はどこか楽観的に構えていました。彼女は何でも上手くやる器用な人で、本当は追い詰められていても大丈夫と言ってしまう見栄っ張りなところもありました。余裕がなかった僕は、今回もきっと乗り越えてくれるだろうと思っていたのです……」

「会社に相談して、育児休暇を取るか、仕事を調整してもらうことはできなかったんですか? 激務が当たり前で、言い出しにくい業界だとは思いますが……」

「後から考えれば、そうするべきでした。でも、あの頃の僕は、意地になっていたんです。年上の彼女との結婚は、社内でもかなりの噂になっていて、僕は好奇の目にさらされていました。妊活のために、夫婦で休みをもらったときも、チームに迷惑をかけたので、陰であれこれ言われていました。会社に助けを求めれば、もっとひどい噂になるのは目に見えていました。彼女のことも、無遠慮な詮索や嘲笑から守りたくて、職場では家庭のことを一切口に出しませんでした」

 あなたの横顔に深い悔恨がにじみ、胸を押し潰されそうになった。

「心身がなかなか元に戻らない彼女は、お義母さんに付き添われ、近所の精神科クリニックを受診しました。中程度のうつ病と診断を受け、抗うつ薬を処方されて、定期的な通院が始まりました。彼女は病気になった自分を激しく責め、僕に申し訳ない、息子の世話ができなくてかわいそうだと言い続けました。眠気に襲われることが多く、食欲が落ち、みるみる痩せていきました。僕は自分の未熟さを日々思い知らされ、睡眠時間を返上し、彼女のケア、育児と家事をできる限り手伝いました。僕と結婚しなければ、彼女がこんなことにならなかったと思うと、申し訳ない気持ちで一杯でした。以前のように知的で冷静な彼女に戻すために、どんなことでもする覚悟を決め、ゆっくり養生できる環境をつくることに尽力しました。しばらくして、ようやく息子を受け入れてくれる保育園が見つかったのに救われました。お義母さんは、そのまま僕たちのマンションに滞在して、なかなかベッドから起き上がれない彼女に代わり、育児と家事を担ってくれました。彼女の妹も頻繁に上京して助けてくれました。彼女は何度か薬を変えましたが、効いているようには見えず、体調は相変わらずでした。自分を責め、死にたいと泣き続けることもありました」

 あなたがぼろぼろになりながらも、家族を守り、会社で孤軍奮闘する姿が胸を締め付けた。肉体と精神の疲弊で、もはや彼女を愛しているのかもわからなくなっていたのではと想像した。

「1年程経った頃、彼女の気分が良くなり、買い物に出られるまでになった時期がありました。活動的になり、鼻歌を歌いながら得意だった料理を大量に作って振る舞い、眠っている僕を起こして話し続けることもありました。自分の服を大量に買い込んできて、働きたいと言い出したことも。この時点で、何かがおかしいと気づくべきでしたが、僕もお義母さんもようやく薬が効いたと喜びました。でも、しばらくすると、また気分が塞ぎ、寝たきりで何もできない状態になり、生きている意味がない、僕には離婚して新しい人生を始めた方がいいと言うようになりました。この頃、僕は彼女が良くならなくても、そこにいてくれるだけで十分だと思えるようになりました。その後、何度か様子を見に来ていたお義父さんの勧めで、彼女はしばらく息子を連れて実家に帰り、療養することになりました」

 あなたは、停車した駅名をちらりと確かめてから話を続けた。

「僕はできる限り、息子と妻に会いに大阪へ行きました。彼女の体調は相変わらずで、自分は生きている価値がないと激しく落ち込んで泣いていることが多かったです。たまに気分がいい日はあっても、長くは続かなかったようです。別居生活が2年ほど続いた頃、僕は広告代理店を辞め、大阪でもう少し時間に余裕のある仕事を探し、家族と暮らすことに決めました。幸い、大阪の私立大学で広報担当職員に採用され、妻の実家で家族と暮らすことになりました。仕事がいくらか楽になり、息子の成長を見守れるのが幸せでした。彼女の病気についても、本を買って勉強しました。そして、うつ病の薬を飲んでもなかなか良くならないときは、双極性障害の可能性があると知りました。躁状態とうつ状態の出現する双極性障害には、多額の借金をしたり、離婚や退職をしてしまうなどの激しい躁状態があり、入院が必要になるⅠ型と、躁状態が軽いⅡ型があるんです。Ⅱ型の躁状態は、軽躁状態と言って、妙に元気すぎるくらいで、本人も周囲も治ったのかと勘違いしてしまうことがあるようです。彼女の気分の良かった時期は、軽躁状態だったのではないかと思い当たりました。もしも、彼女が双極性障害だとしたら、今までの治療は間違っていたかもしれないと気づき、愕然としました」

「それでは、奥様は……?」

 あなたは、力なく頷いた。「紹介状を書いてもらって、双極性障害に精通した精神科医に診てもらいました。僕やお義父さん、お義母さん、義理の妹も同席を求められ、発症してから今までのことを詳細に尋ねられました。医師に症状をモニタリングするシートを渡され、診察のたびに提出して、2年経った頃、ようやく双極性障害Ⅱ型と診断されました」

「2年って……、そんなに時間がかかるんですか?」

「双極性障害の診断がつくには、平均で7年以上もかかるそうです。彼女も5年程かかったことになります。受診するのが、うつ状態で困っているときになることが多いので、うつ病と診断されてしまうのは無理もないようです。彼女の場合、激しい躁状態のないⅡ型だったので、本人も周囲もわからなかったんです……。僕がもっと知識があり、気を付けて観察していればと申し訳ない思いで一杯でした……」

「あなたは精一杯やっていたと思います」と口にしようとしたが、それが何の意味もなさないとわかっていたので、喉元で飲み込んだ。

「うつ病なら、投薬と休養で治癒することはあります。でも、双極性障害は、長い期間、気分安定薬や抗精神病薬を飲み続け、症状を安定させ、再発を防ぐ病気です。本人や家族が病気を受け入れ、治療のために協力する必要があります。彼女と僕、義父母が、医師から説明を受けました。僕と彼女は病気を受け入れ、2人で治療を続けながら寛解を目指そうと約束しました。でも、彼女の両親はそうではなかったんです。彼女のいないところに僕を呼び、君は今までよくやってくれた、まだ若いのだから娘と別れて新しい人生をやり直してほしいと言われました。自分たちは、彼女と息子を養える程度の貯えがあり、息子も自分たちに懐いている。義妹夫妻にも懐いている。娘のことは説得するから、どうかそのことを真剣に考えてほしいと懇願されました。僕の母親にもその話をしたらしく、母からも離婚を勧められました」

「あなたがそうできるとは思えません……」私は力なく言った。

「今まで一緒に頑張ってきたのに、自分がそんなふうに見られていたのがショックでした。やっと、治療のスタートラインについたというのに……。当然、僕はそれを拒否して、妻とともに、病気を受け入れて、寛解を目指すことを選びました。僕も妻と一緒に、心理士から認知行動療法を受け、考え方を少しづつ変えていきました」

「いま、奥様の症状は?」

「規則正しい生活を心掛けて、再発の兆候もわかるようになって、ようやく病気とうまく付き合えるようになりました。ここ1年くらいは、寛解が続いていて、家事ができるようになりました。外で働くのは難しいですが、在宅でライターの仕事を少ししています。環境が変わると生活リズムが乱れるので、家族で東京に出てくるのは心配でした。でも、彼女が大丈夫だと言い張るので、志津の誘いを受けました。彼女は、僕に長年迷惑をかけたことを気にしていて、やりたいことをやってほしいと言ってくれています。最近は、僕が休日に1人で出歩いたり、横須賀の母を訪ねたり、空き家になっている新潟の祖父母の家のメンテナンスに泊りがけで行くこともできるようになりました」

「息子さんは……? 難しいお年頃でしょう?」

「息子は成長するにつれ、母親の病気を受け入れて、無理を言わない子に育ちました。最近では、自分のことはすべて自分でやって、余裕があると風呂掃除、夕食の支度、食器洗い、洗濯までやってくれます。僕が未熟だった分、聞き分けが良すぎて、子供らしさに欠ける子になってしまったのが本当に申し訳ないです……」

 そんな息子さんは、あなたによく似ていると思わずにいられなかった。

 病気を抱えて働けない56歳の奥様と、これからお金のかかる15歳の息子さん。あなたが家族を捨てることなど、絶対にできないことは明白だった。

 あなたは私に向き直った。「僕はこうした事情で、あなたの気持ちを受け入れることができないんです」

「わかっています……」

 私もあなたも、好きなら何をしてもいいと思えるほど倫理観のない人間ではない。仮にあなたが奥様を捨てて私と一緒になったとしても、あなたと私の抱く罪悪感は、胸に巣食い、関係を蝕むだろう。私たちには、屈託のない幸せなど永遠に築けないのだ。

 私とあなたのかすかな可能性さえ消え失せ、ぐったりとシートに身を沈めた。全身を飲み込んでいく強い絶望で、立ち上がれなくなりそうだった。

「本当に申し訳ございません」あなたは私が困惑するほど深く頭を下げた。

 失うものが何もなくなっていた私は、縋りつくような思いで尋ねた。

「一度だけ、教えてください。私はあなたにとって、どんな存在ですか? 女性としての魅力を感じたことはありますか?」

 あなたは、目元に苦悩を色濃くにじませていた。

「これから職場では、いつも通りにして、あなたに迷惑をかけません。だから……、お願いですから、本当のことを教えてください」私はあなたの視線を捉え、そらさなかった。

 あなたは、しばらく石のように押し黙っていたが、観念して話し出した。「初めて会ったときから……、磁石で吸い寄せられたように、あなたに魅かれていました。あなたのことを何も知らないのに、鼓動が高まって、苦しいほどでした。話すたびに共通点が見つかって、言葉に出さなくても分かり合えることが何度もあって、どんどん魅かれていきました……。運命の人だと思っています。魂が呼応できるような人に巡り合えて、僕はどれだけ救われているか……」

 全身の毛が逆立つような歓喜が駆け巡り、いま天に召されても悔いはないと思った。けれど、私は薄々気づいていたことを静かに口にした。

「でも、あなたは私を思えばそれだけ、御家族への思いも深めていくのでしょう……?」

 あなたは息を止めたような表情で私を見てから、言葉を絞り出した。「あなたには、わかってしまうんですね……」

「それなら、それで構いません。あなたはずっと1人で頑張ってきたのですから、自分らしさを保ったり、取り戻したりするために、誰かに寄りかかっていいんです! 私がそんな存在になれるなら、こんな嬉しいことはありません。私はあなたのエネルギー源になれればこの上なく幸せです! だから、どうか……、私を突き放すような態度だけは取らないでください」

「すみません。いい歳をして、自分の気持ちをコントロールできなくて、どうしていいかわからなかったせいです。もうあんな態度はとりません」

 絶望のどん底に突き落とされたばかりなのに、ほのかな温かさが、じわじわと胸に広がっていく感覚が心地よかった。

「僕は卑怯で、弱い男ですね……」

「私だって、ずるくて弱い女です……」

 あなたが、決めた航路を進み続けるために、私を必要とするなら、全力で支えたい。あなたに家族を守るエネルギーを充電させ、送り出す役目でもいいと思った。

 言葉にできないほどあなたを愛しているのに、あなたに守られている奥様への嫉妬が全身に渦巻いているのに、こんな気持ちになるのが不可解だった。こんな愛し方もあると初めて知った。

 私は右手であなたの肩を抱き寄せ、左手であなたの左手を握った。あなたはびくりと体を固くしたが、やがて私の肩にもたれ、私の手を強く握り返してくれた。私たちは、東京駅に着くまでそのままでいた。

8

 送別会の宴席を抜け出し、障子を後ろ手で閉めると、喉に酸っぱいものがこみ上げてきた。朝から喉がいがいがし、胃のむかつきもあったのに、上司に注がれたビールを無理に飲んだからだった。

 しんと冷えた廊下の空気を深く吸い込んだ。宴の喧騒を背中に、私は化粧室を探そうと廊下を歩いた。ほのかにライトアップされた形ばかりの中庭に、小さな石灯篭が据えられていた。それを見て、あの宮島の夜を思い出した。もうすぐ、宮島には桜が咲くだろうか。高校受験をしたあなたの息子さんに桜が咲いたことを私も心から嬉しく思っていた。

 あの日から4か月、あなたとは、上司と部下のお行儀のよい関係を維持してきた。互いに、それを逸脱できないことを理解していた分、相手の眼差しや仕草に潜む特別な思いを探していた。2人の間に流れ出してしまった親密な空気を周囲に悟られないように用心することも忘れなかった。もっとも、私とあなたが2人きりになったのは、たまにランチをともにしたときくらいで、周囲には、気の合った上司と部下にしか見えなかっただろう。 

 両側に宴の喧騒を聞きながら、迷路のような廊下を彷徨ったが、化粧室が見つからなかった。知らないうちに通り過ぎてしまったか、案内を見落としてしまったと思った。誰かに尋ねようとしたとき、後ろから右肩を強く掴まれた。

「よう、最近どうだ?」

「あ、ご栄転、おめでとうございます。ご挨拶が遅れてしまって、申し訳ございません」

「何だよ、やけに他人行儀じゃないか」

 彼は運営部にいたときの先輩で、3年程前に告白されて付き合ったことがあったが、相性が合わないことが早々に露呈し、私から別れを切り出した。それから、何度か復縁を求めるLineが入ったが、丁寧にお断りしてきた。 

 彼の据わった目と、酒臭い息に、吐き気がこみ上げてきた。「関西でも、これまで以上のご活躍をお祈りしています」私は丁寧に頭を下げ、失礼しますと踵を返した。

「待てよ!」

 乱暴に腕を掴まれた。振り払おうとすると、掴まれた箇所が、採血をされるときのように、ぎゅっと締めあげられた。

 彼は空いている部屋の障子を乱暴に開け、私を突き飛ばすようにそこに入れた。

「何するんですか!」前のめりに転び、ストッキングを履いた膝が畳に打ち付けられた。

 暗がりのなか、痛む膝で起き上がり、障子のほうに走ったが、後ろから羽交い絞めにされた。

「離してくださ……」声を上げた瞬間、口元を塞がれた。

「もう少し、大人の対応をしろよ。最後くらい、優しくしてくれるのが礼儀だろ」彼は酒臭い唇を強引に押し付けてきた。

 頭をのけぞらせて懸命に抵抗したが、後頭部を押さえつけられ、強く唇を吸われた。全身が総毛だった。

 彼の手が下におり、胸をまさぐられ、強くもまれた。彼が私のブラウスのボタンを外そうとして、口元を塞ぐ手が緩んだ瞬間、大声で悲鳴を上げた。

 廊下を疾走してきた誰かが、勢いよく障子を開けた。廊下の明かりで、それがあなただとわかった。

 彼は、あなたの横をすり抜け、さっと出ていった。

 こんな状況を一番見られたくなかった人に見られた恥ずかしさで、消えてしまいたかった。

「あなたが、なかなか戻らなかったので、心配になって探しにきたんです! どうしました?」

「ここに引っ張り込まれて……」

「何かされたんですか?」

 彼の唇と手の感触がよみがえり、私は口元を抑えて廊下に飛び出すと、突き当りに見えた化粧室に向かって走った。個室に入り、こみ上げてきたものを吐いた。嘔吐に伴う生理的なものか、情けなさで浮かんだのかわからない涙を拭い、口をゆすいでから化粧室を出た。

「大丈夫ですか?」

 化粧室の前で待っていてくれたあなたの顔を見ると、涙が溢れそうになったが、気力で堪えた。

「今日はもう帰った方がいいでしょう。送っていきます」

「大丈夫です……」これ以上、あなたの傍にいたら、泣き出してしまいそうだった。

「大丈夫じゃないでしょう、顔が真っ青です!」

 あなたは私の腕を支え、店の入り口にあった木造りの長椅子に座らせた。店員にタクシーを呼んでくれるよう頼むと、2人の荷物を取りにいった。

 

 タクシーの後部座席に落ち着くと、あなたは静かな怒りを含む声で言った。「彼には私の部下に失礼なことをしないよう厳しく注意してきたので、安心してください。もうあんなことはできないでしょう」

 あなたの目元には、たじろぐほどの怒りが浮かんでいた。

「すみません……。彼とは、過去にいろいろあって……」

「あなたに悲鳴を上げさせることをしていい理由にはなりません」

 あなたは震えの止まらない私の手に、自分の手を重ねた。あなたに触れたのはあの新幹線以来で、電流を流されたように、熱が全身に広がっていった。

「今日は具合が悪かったのでしょう?」

「すみません。仕事に支障のないようにしていたのですが……」

「僕が気づかないはずはないでしょう。どこか悪いんですか?」

「少し風邪気味で……。週末、がんで亡くなった大学時代の友人の通夜と告別式のために北海道に行ったんです。心身共に疲れていたので、風邪をひいたのだと思います」

 あなたは、ぐっと力を込めて私の手を握った。温かさと力強さに、言葉がなくても悲しみが溶けていくようだった。

 綾瀬のアパートの前で止めてもらうと、あなたも一緒に下りてくれた。弓張り月が刺すような光を放っていた。

「風邪薬はありますか? 何か必要なものがあれば、買って届けます。部屋番号は?」街灯の光を受けたあなたの顔は、タクシーの暖房の名残からか、微かに紅潮していた。

「大丈夫です。買い置きがあると思います」

「そうですか。では……、どうかお大事に」

 あなたは何かを訴えるように私を強く見つめた後、駅に続く通りに向かって歩き出した。道の隅に溜まっていた紙屑が、風に吹かれ、かさかさと音をたてた。

 去っていくあなたの靴音を聞いていると、一人になった部屋で、さっきのことを思い出す恐怖が、足元から飲み込むように襲ってきた。

 私は夢中であなたを追いかけ、腕を掴んだ。

「少しだけ一緒にいてくれませんか、怖いんです……!」

 あなたは黙って私の背中に手をまわし、アパートに向かって歩き出した。安堵から、涙が一筋頬を伝ってしまった。

 部屋に入ると、ずっと堪えてきた涙が堰を切ったようにあふれてしまい、あなたに見られたくなくて、コートの袖で乱暴に拭った。

 その瞬間、強く引き寄せられ、口づけられた。唇から全身に熱が駆け巡り、体中の細胞が覚醒したかのように騒ぎだした。

 あなたは、我に返ったように身体を離した。「すみません。あなたは、あんなことがあったばかりで、男に触れられるのが嫌だとわかっているのに。耐えられないんです……、あなたが他の男にあんなことをされるのは……!」

 熱い涙が頬を伝った。幸せでもこんなに涙が出ると生まれて初めて知った。私はあなたの頬を両手で包んで引き寄せ、力強く口づけた。

「あなた色に染めてください、あんなことを忘れてしまえるくらいに!」

「僕にその資格がないことは、わかっているでしょう……!」あなたは顔を歪め、心底苦しそうに訴えた。

「そうしてくれないと、怖くて眠れないんです! だから、お願い!! 私はピルを飲んでいるから大丈夫です」

 私がもう一度口づけようとすると、あなたの熱い唇が降ってきた。それからは、岩に裂かれた急流が合流したように自然だった。

 セミダブルのベッドに腰かけ、あなたは私の頬の涙をキスで拭った。私の長い髪を撫でながら、何かを確かめるかのように、頬や首筋に口づけ始めた。あなたの吐息は、口づけるたびに失っていたものを取り戻したように、深く熱くなった。あなたに口づけられた場所は、命を吹き込まれた生き物のようにさざめいていた。

 一糸まとわぬ姿できつく抱き合うと、こうなることが遥か昔から決まっていたような感覚に飲み込まれた。あなたの躰には、美しい姿勢や所作を支える筋肉がついていた。筋肉は何かに耐え続けたように硬く、あなたの人生が凝縮されているようで悲しくなった。

 私の2つの小山の先端は、あなたに転がされ、含まれ、これまでにないほど硬く隆起した。脚のあいだの洞窟は、あなたの指と舌に魔法をかけられ、熱い液が泉が噴き出したように溢れた。

 あなたの茂みのあいだの昂ぶりを口に含み、最初は優しく、次第に激しく愛していった。あなたは獣のように低く呻くと、そこに還ることが決められていたかのように、洞窟の扉を叩いた。洞窟は、待ち焦がれていたもののために開門した。奥深く分け入ってくるあなたを、すべての襞が吸い付くように迎え入れた。私たちは、自然に息の合ったリズムを刻み続けた。あなたの汗が滴り、動きが激しさを増し、目をぎゅっと閉じた。それを合図に、私は足にぐっと力を込めた。私の全身が震え、洞窟の壁が激しく収縮し、頭のなかが真っ白になった。

 あなたに背後から抱き締められ、2人の汗ばんだ身体はスプーンが重なるように密着した。

「不思議。今まで、セックスは苦痛でしかなくて、感じたふりをして、早く終わるのを待っていたんです。濡れなくてジェルを使うことも多かったです……」

「本当に? あなたは、とても自然に応えてくれた」

「怖いくらいに体が開いたんです。太古から待ち続けていたものに、やっと出会えたような不思議な感覚」私は体の向きを変え、あなたの胸に顔を押し付けた。大洋に抱かれているような安堵が全身に広がっていった。

「僕も同じだ。もう何年もセックスをしていなかったのに、体が驚くほど自然に反応した。水が低い場所に流れていくように自然だった」

 あなたは私を強く抱き寄せ、首筋に顔を埋めると、長い睫毛を瞬かせて、私の首筋をくすぐった。私はいたずらをされた子供のように、けらけら笑った。

「嫉妬したことありますか?」私はあなたの髪を撫でながら尋ねた。何本か茶色い毛が混じっていて、白髪染めをしているのがわかった。

「僕は毎日している。あなたと言葉を交わす、笑い合うすべての男に。志津にだってしている」

「本当に?」嬉しくて背筋がぞくぞくした。

「当たり前でしょう。どれだけ僕のものにしたいか……」

 背中に回されたあなたの腕に力がこもり、私たちはきつく抱き合った。生き別れた片割れに出会ったような安堵は、気だるい眠りを呼びよせた。

               ★

 時計を見ようと体を起こすと、あなたも目を覚ました。

「そろそろ帰らなくて大丈夫ですか? シャワー浴びますか?」

 あなたは、はっとしたように起き上がり、枕元の時計を見た。23時を過ぎていた。

「今日は送別会で遅くなると言っておいたから問題ありません。シャワーは浴びないで帰ります」

 あなたは衣服を次々と身に付けた。

「シャワー、浴びてからのほうがいいんじゃないですか?」

「妻は鼻が敏感なんです。石鹸や、水の塩素の匂いは、感づかれます。消臭スプレーを買って、服に吹きかけてから帰ります」

 私は服を着ながら、昨夜たいたウィンターグリーンのアロマオイルの残り香が漂っているのを思い出した。枕からは、昨夜垂らしたエルバヴェールが香っていた。枕元に置いていたエルバヴェールの瓶を慌てて引き出しにしまった。

「消臭スプレー、あります」私はリセッシュのボトルを持ってきてあなたに渡した。

 あなたはそれを手に取ると、首を振って私に返した。「香りのついているものはだめです。無臭のものをコンビニで探します」

「これからは用意しておきます。アロマオイルをたくのも、香水をつけるのもやめます……」

 きっちりと身支度を整えたあなたは、「ごめん」と私を強く抱き締めた。私たちは引かれあうN極とS極のように身体を密着させた。

 あなたは離れがたい抱擁をとくと、「ゆっくり眠ってください」と額に口づけてから帰っていった。

 ベランダから見送ったトレンチコートの後ろ姿は、夜の闇に飲みこまれるように輪郭を失っていき、やがて消えた。

 法的に「不貞行為」になる一線を越えてしまったことが、重くのしかかってきた。寒さからではない理由で全身が震えていた。 

9 

 あなたの奥様と息子さんが大阪に里帰りする週末、外出しないかと誘われた。奥様には、空き家になっている新潟の祖父母の家のメンテナンスに行くと言っておいたらしい。

 千代田線の根津駅で待ち合わせた。あなたは、黒縁眼鏡、濃紺のパーカーにベージュのチノパン、黒いスニーカーというカジュアルないでたちで現れた。どれもあなたの身体に気持ちよく馴染んでいて、普段着さえも、納得したもの以外は身に付けないこだわりを感じた。

 案内されたのは、駅から数分のうどん屋だった。開店前なのに、既に行列ができていて、人気店であることが伺えた。明治期に建てられた煉瓦造りの石倉を改装した建物で、隈健吾氏の設計でいまの姿になったという。下町の景観に違和感なく溶け込む姿に魅かれ、思わずスマホカメラで撮影してしまった。あなたは、そんな私を眉尻を下げて見ていた。

 通された席から、立派な日本庭園が眺められた。隣に見える老人ホームも隈氏の設計だとあなたから教えられた。

 あなたの勧めで、釜揚げうどんを注文した。うどんは注文を受けてから切るようで、厨房から豪快な包丁の音が聞こえてきた。

「これをあなたにと思って……」

 包装紙を開けると、サムライ アクアクルーズのオードトワレだった。海を思わせるターコイズブルーが底部から上に向かってグラデーションのように薄くなっていく瓶に、窓から注ぐ光が反射した。

「あなたに香りを楽しむのを止めさせてしまったことが、気になっていたんです……。僕と同じ香りなら、問題ないでしょう。女性がつけてもいい香りだと聞きました」

 こみ上げてきた笑いを抑えられなかった。「実は私、同じものを買ってしまったんです。毎晩、枕にほんの少し垂らして眠っています」

「なんだ、そうだったの。ここまで気が合うと何だか窮屈だね」そうぼやきながらも、あなたは嬉しそうだった。

「それなら、あなたの買ったものを僕にくれませんか。そうすれば、無駄にならないでしょう」

「わかりました、そうします」テーブルに差す初夏の日が、ダンスをしているように揺らめいていた。

 うどんが出てくる前に、店員が徳利からつゆを注いでくれて、鰹だしの優しい香りが鼻をくすぐった。こしのしっかりした釜揚げうどんは、絶妙な温かさのつゆによくなじんだ。つゆが減ると店員が絶妙のタイミングで注ぎ足してくれた。用意されたねぎ、揚げ玉、七味などの薬味を自分の好みに合わせて入れられるのが嬉しかった。

 うどんがお腹に収まった頃、私の全身は幸福感で満たされていた。あなたは、「きっと気に入ってくれると思いました」と相好をくずした。

 気になった店をのぞきながら、賑わう谷中銀座をぶらぶら歩き、谷中霊園に足を向けた。

 何度も来たというあなたについて、ゆっくり時間をかけて霊園を散策した。他愛のない話をしながら、墓地のなかを歩き、著名人の墓を探すのは楽しかった。時折訪れる会話の途切れは気にならず、その間さえも心地よく感じた。墓石の上や周囲に、愛らしい野良猫が見え隠れし、猫好きの2人を和ませた。木々に青々と茂る若葉の匂いに、あなたと一緒に仕事をして、1年以上経ったことを実感した。

「余裕をなくしていたとき、よく1人で墓地を歩きました」あなたは、それがいつのことだったのか明言せずに話し出した。

「義務に追われて、ぼろぼろで、いつまでこれが続くのか先が見えない。そんなとき、あの世とこの世にいる者が一番近づく場所に魅かれたんです。死が自分を解放してくれるのかわからない、それでもすべてを投げ出したくなることもあったんです」

「あなたは、決してそれを許さない人だから……。きっと、死んでも苦しみから解放されないでしょう」

 あなたは私を振り返り、自嘲気味に笑った。

 痩せた茶トラ猫が、あなたの足元にまとわりついてきた。あなたは、「ごめんな、何も持っていないんだ」と、しゃがみこんで猫の喉を撫でた。猫はあなたが手を止めると、近くの水たまりの水をぺちゃぺちゃ飲んで去っていった。あなたは、しばらく猫を目で追ってから立ち上がった。

 墓地を抜けた頃、「夕食をどうしますか」と尋ねられた。

「よかったら、うちで食べませんか? うちは綾瀬だし、ここから近いでしょう。昨日、かれいを買ったんです。煮魚にしようと思っていました」

「いいんですか?」

「もちろんです。買い物をしてから帰りましょう」私はあなたの背中を押し、朗らかな足取りで歩いた。

 駅前のイトーヨーカドーで、食材、あなたの部屋着と日用品を買い、アパートに帰った。あなたが部屋に来るのは、あの送別会の夜以来だった。

 あれから、いつあなたを迎えてもいいようにアロマオイルをたかず、家でもあなたと同じ香り以外はまとわなかった。いつ連絡が来てもいいように、アフターファイブの予定は、できるだけ入れなかった。そんな日々が窮屈でないと言えば嘘になるが、自分で選んだのだからと納得させていた。

 煮魚の味付けをする私の横で、あなたは私の緑色のエプロンをかけ、味噌汁の具にする玉葱とじゃがいもを刻んでくれた。

「包丁使い、上手ですね」

「よくやるからね」

 その一言の裏に、奥様を支えて家事を担ってきた年月が垣間見え、心がささくれ立った。こんな感情を飼いならし、表に出さないようにしなくてはと思った。私たちは、互いの考えていることを敏感に感じとってしまう。それが、互いを段々息詰まらせ、身動きがとれないところに追い込んでしまう。いつか、竹内くんが言っていたことの意味が、重く迫ってきた。

 煮魚に落とし蓋をしたころ、昆布を入れて加熱していた鍋が沸騰したので、鰹節をたっぷりと入れた。

「味噌汁の出汁、ちゃんと取るんですね」背後からのぞきこんだあなたは、立ち昇る香りに眼鏡の奥の目を細めた。

「出汁がよく出ていると、味噌が少なくても味がしっかりするんです。もう少しでできるので、ソファで休んでいてください」

「何か手伝えることはないですか?」

「大丈夫です。今日くらい、私に任せて、ゆっくりしてください!」

 あなたは叱られた子供のようにソファに退散した。

 テーブルに、鰈の煮付けに炒めた茄子、雑穀ご飯、玉葱、じゃがいも、豆腐とわかめを入れた味噌汁、鰹節と和風ドレッシングをかけた大根サラダを並べ、2人で食べた。

「いつも自炊をしているんですか?」あなたは、鰈の骨をきれいにはがしながら尋ねた。

「週末はだいたいしています。平日の夕食は、疲れていてお惣菜を買ってきてしまうことがありますが、ご飯は炊きます」

 たまには寄ってくださいと言い添えたかったが、あなたを追い詰めることがわかっていたので心に収めた。

「だから、味付けが上手なんですね。どれも、僕の好みの味です。素朴さを感じますが、決して手抜きではなく、この味に落ち着くために研究したのがわかります」

 確かに私の味付けには、試行錯誤の末にたどり着いた分量と方法があり、それに気づいてもらえたことが嬉しかった。得意になる一方で、奥様の味があなたの舌に記憶されているのだろうと思った。

 食後に、私がいつも飲んでいる黒豆茶を淹れ、一緒に買ってきた草餅を食べた。

「このお茶、香ばしい香りですね」あなたが湯気で曇った眼鏡を拭きながら言った。

「黒豆茶です。緑茶のほうがいいですか?」

「いや、気に入りました。ほっこりします」

「よかった。私、黒豆茶、麦茶、ハーブティーとか、ノンカフェインが好きなんです」

「そういえば、あなたは外でもあまりコーヒーや緑茶を飲みませんね。爽健美茶や十六茶、ミネラルウォーターをよく飲んでいる。僕もここに来たときは、あなたとノンカフェインを飲むことにします。凝り固まっているものがほどけそうです」

 あなたは後片付けは自分がと言い張ったが、私はソファで休んでいてほしいと譲らなかった。

 ソファに背筋を伸ばして座り、新聞を読むあなたをちらちら観察しながら、あなたもまだ気を張っているとわかった。そんなあなたが、徐々に姿勢を崩し、ごろりと寝ころんだのが堪らなく嬉しかった。軽い肌掛けを持ってきて、そっとかけた。あなたは、ありがとうと私を抱き寄せて口づけてくれた。しばらくして、あなたは平和な寝息をたて始めた。よほど疲れていたのだろう。

 明日の朝食の下ごしらえをしながら、この関係の行きつく先に思いを馳せた。不倫に関連する小説、漫画、専門書をKindleで片っ端からダウンロードして読み、Netflixで不倫が出てくる映画やドラマをたくさん見ているが、納得できる答えはどこにもなかった。

 あなたは絶対に奥様と息子さんを捨てない。もしも、そうしたら、あなたは罪悪感の塊になり、残りの人生を屍のように生きるだろう。私は、あなたが誇り高く生きられるように、居心地のよい場所を作り、奥様のもとに帰るエネルギーを充電するしかない。

 私は、若くて義務感の強いあなたに守られた、病気で働けない奥様に、気が狂いそうになるほど嫉妬していた。それなのに、なぜ敵に塩を送るようなことをしているのか。矛盾していることは、誰よりも自分がわかっていた……。

 結局、私はあなたの傍にいたいのだ。家庭からは得られない非日常的な刺激を与え続け、あなたをつなぎとめたいのだ。そのためには、絶対に奥様に知られてはならなかった。

                ★

 あなたを起こさないようにシャワーを浴び、部屋着にしているジャージに着替えた。ベッドに横たわり、昨夜から読みかけの本を開いた。

 寝落ちしそうになった頃、あなたがむくりと起き上がった。目をこすって眼鏡をかけ直すと、私の寝ているベッドに腰かけた。

「ごめん。ようやく、ゆっくり会えたのに、だいぶ疲れが溜まっていたみたいで……」

「いいんです。自分の家のように寛いでくれて嬉しいです。いつでも、寄ってくださいね」

「家より安らぐよ……」

 あなたは、買ってきた部屋着に着替えると、私の隣に横になった。

「何を読んでいたんですか?」あなたは、私が枕元の棚に戻したブックカバーに覆われた本を指した。

「井上靖の『猟銃』です」

「どんな話?」

「ある不倫をしていた男性(彼)に宛てた3通の手紙で構成される小説です。最初に、亡くなった母と叔父(彼)の不倫を知った娘の手紙、次に不倫された叔母から夫(彼)への手紙、最後に彼と不倫していた母の遺書。小学生の頃、父の本棚にあるのを拝借して読んで、とても怖かったんです。不倫の怖さが凝縮されているようで……」

 あなたは、何も言わず、あおむけに横たわったままくうを見据えていた。

「絶対に、奥様と息子さんにばれて、傷つけることにならないように気を付けましょうね。私はあなたを元気にして、選んだ航路を進む助けになれれば、それだけで……」

 言い終える前に、あおむけにされ、一切の思考を奪うキスの豪雨を浴びせられた。

 起き上がった私は、あなたをあおむけにしたり、うつ伏せにしたりしながら、爪先から髪の毛まで、あなたの反応を確かめながらキスと愛撫の雨を降らせた。私の知らないあなたを発見するたびに、全身に鳥肌がたち、足のあいだの洞窟が潤っていった。

「自分の身体なのに、知らないことだらけだ……!」あなたは身をよじり、何度も呻いた。

 身を起こしたあなたにあおむけにされた。あなたの右手が2つの小山を愛撫し、左手の指が洞窟のなかで宝物を探すように優しく動き、私の身体を何度も激しくしならせた。

「早く来て!」

 あなたは洞窟に分け入り、探し当てた場所を何度も刺激した。脳の奥まで攪拌されるような快感に、洞窟の襞が激しく収縮し、あなたを野生を取り戻したように咆哮させた。

「前より、ずっと深かった……」

「僕もだ。初めて知ることばかりだった。あなたとなら、果てしない航海に乗り出せる気がする……」

 あなたの香りがほのかに揺らめくなか、私たちは進んでいく時間を捕まえる勢いで抱きしめ合った。

10

 久々に彩子が出張してきて、竹内くんと 3人で同期会を開いた。1軒目で仕事の話をし尽くし、2軒目の話題は自然に恋愛話に流れた。

 ハワイアンミュージックに乗って流れる、ローカルラジオのハワイ英語が耳に心地よかった。

 コナビールで乾杯を済ませると、竹内くんが彩子に気づかわし気に尋ねた。「水沢さん、電車大丈夫? そろそろ10時回ったけど」

「彩子は、彼氏の家に泊まるから問題な~し!」彩子が答える前に、アルコールが回って弾けていた私が答えた。

「あれ、水沢さん、彼氏できたんだ!」

「うん。つい最近ね」

「どうやって出会ったの? 何してる人?」ほろ酔いの竹内くんは、テーブルに身を乗り出す勢いで尋ねた。

「学生時代のインカレのミュージカルサークルの先輩。夏のOB会で再会して付き合うことになったの。丸の内で弁護士してるよ」彩子は、全身から匂い立つような幸せオーラを放っていた。

「超エリートじゃん! 幸せなわけだ~」

「彩子と彼、OB会の夜に意気投合してホテルにいったのに、指一本触れないで語り明かしたんだって。2人で朝日を見ているとき、彼が付き合ってくださいって告白。素敵じゃない?」

「勘弁してよ、すーちゃん!」

「うわ、キザ。でも、カッコいいな」

「竹内くん、先月から彼女と同棲始めたんでしょ? うまくいってる?」彩子が興味津々で膝を乗り出した。

「会議・学会運営部に移ってから、毎日遅くまで残ってるよね。彼女、怒らない?」

 彼が春から異動した会議・学会運営部は、会議の設営、受付、運営を担う部署だった。試験監督で鍛えられた人材は手際が良く、評判は上々だった。営業部の向かいに位置しているので、その様子は嫌でも目に入った。外線がひっきりなしに鳴り、毎日遅くまで忙しそうなのが気になった。 

「うん。俺が毎日終電になるくらい帰り遅いから、一緒に住んでても満足にコミュニケーションとれないんだ。それでも、微妙に合わないとこが気になってきたんだよ……」

「合わないところって?」私と彩子は、彼の話し出すのを待った。

「例えばさ、以前、うちの登録スタッフが、ネットの掲示板に、俺だと思われる人物の悪口書いたんだよ。『〇〇会場のキツネ顔のリーダーT内、説教うざい。バイトに安い給料で責任ある仕事を任せるくせに文句つけるな』とか。そういうのって、結構へこむじゃん?」

「うん、胃が痛くなるよね」

「わかる。気にしないようにしても、しばらく頭から離れないよね」

「そのとき、彼女に労いとか慰めの言葉をかけてほしいと思っていたんだ。けどさ、彼女は、他のサイトにも書かれてるかもしれないよって、検索始めたんだ。ちょっと、楽しそうに……。調べてもらうのはありがたいよ。他にもあれば、会社に報告しないといけないし。でも、どうしても彼女の反応にかちんとくるんだよ」

「なるほどね。そういうときに、どんなに近くにいても違う人間なんだって実感するよね」

「そうそう。相手に悪気はなくてもね。違う人間なんだよね……」

 彩子と私は、共感を示しつつも、竹内くんと彼女の関係にひびを入れないよう言葉を選んでいた。

 あなたなら私を慰め、早く記憶が薄れるように、気を紛らわせてくれると思った。そんな違和感を感じたことは一度もないことが、密かに嬉しかった。

 恋人の話に花を咲かせる彩子と竹内くんを前に、親友にも相談できない自分の立場が重くのしかかってきた。

「ところで、すーちゃん、暫く会わないうちに、綺麗になったよね」急に彩子に話を振られ、びくりとした。

「そうかな? 今日のスーツが新しいからかな。ダイエットもしてるし」

 彩子が目敏く気づいたように、あなたのために綺麗になりたいという思いは、体型、服装や髪型はもちろん、手先から爪先まで及んでいた。

「う~ん、外見も艶っぽくなったけど、雰囲気が落ち着いてきた。さては、苦しい恋でもしてる?」

「全然だよ。そういうのなくて焦ってるから、自分磨きしてるんだよ~」

 竹内くんが、盛り上がる私たちに水を差すように、神妙な顔で切り出した。

「鈴木さん……、言うべきか迷ったんだけど、俺見ちゃったんだ……」

「何を……?」竹内くんの言葉に、私の鼓動はにわかに速まった。

「ここにいるの俺たちだけだから、言うよ。俺、海宝課長が鈴木さんのアパートに入るの見た……」

 背中に水を浴びせられた気がした。口がきけなくなりそうな自分を奮い立たせ、絶対に動揺を見せてはならないと思った。

「人違いじゃない? 何で海宝課長がうちに来るわけ」

「間違えるはずないよ。あれは海宝課長だった。俺の彼女、同棲始める前は綾瀬に住んでたから、俺もよく通ってたんだ。駅の改札辺りで海宝課長を見かけて、たしか彼は松戸のほうなのに、何でここでおりたのかなと思って、方向が同じだから何となく後ろを歩いてたんだ。そしたら、向かった先が……」

「すーちゃん、それって……」彩子の声はかすかに震えていた。

「俺、海宝課長と鈴木さんがそうなったの不思議だと思わないよ。会社でもすごく波長が合ってて……、とても自然だと思う。嫌らしいと思えないんだ」

「海宝課長が素敵なのはわかるよ。人柄はこの上なく素晴らしいし、ハンサムだし。あんな尊敬できる上司がいれば、好きになってしまうのもよくわかる。でも、彼は既婚者でしょ……?」

「わかってる、わかってるよ。彼を奥様から奪うつもりは全くないの。いずれ、必ず終わるから、絶対に内緒にしておいて! 彼の奥様は体が弱いから、絶対に傷つけるわけにはいかないの」

 自分が、不倫ドラマに出てきそうな台詞をまくしたてているのが悲しかった。どんなに高尚な言葉で武装しても、自分の立場を正当化しようとしても、許されないことをしていると思い知らされた。

「俺は口が裂けても言わないから安心して。もし、会社で変な噂が出ても全力で否定するから。でも、マジで気を付けろよ。志津課長がああいう人だから、変に疑うことはないと思うけど」竹内くんが見たことのないほど険しい顔で警告した。

「私、すーちゃんには、そんな恋をしてほしくないから応援できない。でも、絶対に言わないよ。だから、早く別れて」彩子の心から案じてくれる眼差しが胸に染みた。

「ありがとう……。本当にありがとう」

 2人の存在が心底ありがたかった。だが、あなたの事情を話すわけにいかないので、私たちの関係を理解してもらえないもどかしさが胸の中で燻っていた。

「俺、何か悔しいし、悲しい……。鈴木さんと海宝課長、すっごいお似合いなのに、傍から見ても出会うべくして出会った2人なのに。何で海宝課長は結婚してるんだよ! どうして、2人はもっと早く出会わなかったんだよ……」

「やめてよ、そんなの最初から、わかりきってたことなんだから!」

 どうしてだろうと何度思ったか知れない。家族のもとに帰っていくあなたを身を切られる思いで見送りながら、なぜ出会ってしまったのかと運命を呪った。

「既婚者が配偶者以外の誰かに恋をしても、自分のなかに収めて、家族を守るのが成熟した大人だと思ってた。でも、すーちゃんと海宝課長が運命のように惹かれあってると思うと、その常識がやりきれない」

「でも、不倫は不倫なんだよな……」

「海宝課長のようなしっかりとした人が、不倫に走ってしまったのは、半端じゃなく、すーちゃんを好きだからだと思う。応援したいのに……。すーちゃんが、そんな泥沼に巻き込まれるのは耐えられない」

 不毛な議論だとわかっていた。だが、行き場のない気持ちをどこかで発散したかった私には、それが救いになった。

               ★

 黒豆茶を淹れ、Netflixで映画を選んでいた日曜の昼下がりだった。あなたから、今から訪ねていいかと連絡が入った。来る日は、1週間前には連絡をくれる用意周到なあなたにはめずらしかったが、嬉しくてすぐに返信した。

 着替えて髪を整え、そわそわしながら待っていると、あなたは1時間も経たないうちにやってきた。同期にばれたことを伝えておこうと決めていたが、あなたの顔を見た瞬間、心配をかけてはいけないと思った。その先に来るものが近づいてしまうことも怖かった。

「会いたかったよ」

 あなたは買ってきたフィナンシェの箱を置くのも、もどかしいかのように、私を抱き寄せた。待ち焦がれていたあなたの匂いに包まれ、私も夢中で抱きついた。会えなかった時間を埋めるかのように、随分長い時間抱き合っていた。

「急に来るなんてめずらしいですね」

 黒豆茶を淹れながら尋ねると、あなたは頷いた。「最近は、妻が外出することが増えましたから」

 あなたの声に透明感があり、肩の力が抜けているのがわかった。

「来てくれてありがとうございます」私はソファに掛けているあなたに、限られた時間を止めたい思いで抱きついた。あなたの匂いに、全身の細胞が喜んでいるかのようにさざめいていた。

「映画を見ていたんですか?」あなたは、テーブルの上のパソコン画面をのぞき込んだ。

「これから映画を選ぼうと思っていたところで、連絡が来たんです。一緒に見ませんか?」

 2人で相談し、理論物理学者のスティーブン・ホーキング博士と妻を主人公にした「博士と彼女のセオリー」を選んだ。時間は2時間ほどで、夕方には帰宅するあなたにも丁度良かった。

 2人とも、すぐに物語に引き込まれた。

 若きスティーブンとジェーンが大学で出会って恋に落ち、スティーブンがALS(筋萎縮性側索硬化症)を発症しても、ジェーンは彼との結婚を選んだ。スティーブンは余命2年と言われていたが、彼はそれを優に超えて生き、3人の子宝に恵まれた。

 スティーブンの研究は順調でも、病気は進行していた。ジェーンは、ますます負担が増していく夫の介護、育児に追われ、自身のやりたいことを諦め、ストレスを募らせていった。

 私はストーリーが進行するにつれ、ジェーンを双極性障害の奥様を支えてきたあなたに重ねていた。

 ジェーンは、母親に気分転換にと勧められた教会の聖歌隊に参加し、指導者のジョナサンと恋に落ちた。ジョナサンはジェーンの息子のピアノ指導も引き受け、家に出入りするようになり、一家の力になり続けた。

 スティーブンは、ジョナサンがいることで家族がうまく機能することを理解し、割り切れない思いを抱えながらも、彼を受け入れた。

 私は、ジョナサンがホーキング一家と関係を深めるにつれ、彼に自分を重ねていた。自分はジョナサンのように、表に出られないが、あなたの結婚生活を影で支えているのだろうか……。あなたの表情を見るのが怖くて、その肩に寄りかかると、きつく肩を抱かれた。

 スティーブンの病状は、ますます進行し、彼は声を出せなくなった。ジェーンはスペリング用のカードを使用し、夫が眉の上下で意志伝達できるように努めた。ジェーンは、それに精通した看護師エレインを雇った。

 有能なエレインとスティーブンは、長い時間を一緒に過ごすうち、恋に落ちた。スティーブンは、親指でスイッチを操作できるコンピューターで、音声合成し、意思疎通できるようになり、講演や論文執筆もできるようになっていた。

 スティーブンは、ジェーンと離婚し、エレインと再婚。ジェーンはジョナサンと再婚した。

 私は、スティーブンとジェーンが別れる前に、涙ながらに共に過ごした歳月を振り返る場面、ジェーンとジョナサンが結ばれる場面で号泣してしまった。私とあなたは、ジェーンとジョナサンのようには永久になれない現実が悲しくて涙を抑えられなかった。

 スティーブンがエリザベス女王から勲章を受ける場に招待されたジェーンが、彼と子供の成長を語り合い、感謝し合うラストが流れた。

 あなたはラストで泣いていた。あなたが奥様と、息子さんの成長を喜び、互いに労いあう日に思いを馳せているのがわかった。私は、嫉妬と悲しみが募り、涙が止まらなくなって、あなたを困惑させた。どうして、この映画を選んでしまったのだろうと悲しかった。

「目、温めてから帰ったほうがいいですよ」

 私はあなたに水分を摂ってもらってから、ベッドに横たわらせ、目の上に蒸しタオルを乗せた。私も同じように蒸しタオルを乗せ、隣に横になった。

 20分もすると、あなたの目の腫れは引いていった。

 起き上がろうとする私の手をあなたが引き寄せ、胸の上に抱きしめられた。

「あなたが、いつもこうして目の腫れを隠して、笑っているのかと思うと……」あなたは苦悩を目元に浮かべ、私の頬を包んだ。

「そんなやわな女じゃありません。余計なこと考えないでください」

 あなたが私を苦しめていると自分を責め、別れを考えるのが怖かった。時間を引き延ばしても、いずれ来ることはわかっていたが、考えることも恐ろしかった。

「今度、どこかに出かけようか? どこか行きたいところはない?」あなたは、私の長い髪を梳きながら尋ねた。

 そのために、あなたにいろいろ気を遣わせると思うと心苦しかったが、とても嬉しかった。

「あなたの行きたいところがいいです。あ、もしできれば、会社の人に絶対に会わなくて、普通の恋人のように手をつないだり、腕を組んで歩ける場所に行きたいです」

「僕もそうしたい。あなたは、何か見たいものとか、食べたいものとかないですか?」

「それなら、冬の日本海が見たいです。以前、言っていましたよね。日本海の荒海がお好きだって。私、日本海は、小学生の夏休みに海水浴に行っただけなので、冬は初めてです」

「うん、僕もあなたに、あの荒海を見せたい。あなたと一緒に見たい」

 あなたは、私に笑顔が戻ったのを見て、心底安堵したように体の力を抜いた。あなたも私と同じ理由で、不安だったとわかった。

11

 今にも掴みかかってきそうな鉛色の空の下、錆浅葱色さびあさぎいろの海が躍動していた。暴力的な勢いで寄せてくる波は、波消しブロックに勢いよく乗り上げ、無数の白い泡を生んで帰っていった。

 空も海も鳴っていた。海は、そこで生まれ、消えていった無数の生命を飲み込み、むせ返るほどの命の匂いを放出していた。

 太古から繰り返されてきた剥きだしの自然の営みがそこにあった。畏怖を覚え、体の芯が熱くなった。

「私たちも、海から来たんですね」強風に負けじと声を張り上げた。

「全ての生命は海から始まったんだ……」あなたの声も、いつもより低く太かった。

 あなたはポケットに手を入れたまま、肺を洗うかのように深呼吸した。几帳面に巻かれたバーバリーのマフラーの裾がたなびいた。

「初めて見ました。冬の日本海……」寒さで声が震え、風に飛ばされていった。

「あなたが怖がらないのに驚きました。今日は特別荒れていますから」

「怖くはありません。原初に還っていくようで、安らぎに似たものを感じます」

 あなたは、そんな私を見て、かすかに目を細めたように見えたが、乱された髪が、表情を覆い隠してしまった。

「あなたの原点が、ここにあるんですね」この荒々しさが、あなたの奥底に潜み、根幹を支えているのだと、ここにきてはっきりとわかった。

「子供の頃、冬になると父が僕と弟をここに連れてきたんです。人生は航海だ。荒波に飲まれずに進める男になれと言われました」

「ここには、よく来るんですか?」

「何かを決めるとき、ここに来て考えることがあります」

「いつも、あなたはここから船出するんですね」

 あなたは口角を微かに上げた笑みを見せ、砂浜を歩きだした。

 ここから漕ぎ出したあなたは、選んだ航路を頑ななまでに守って進んできた。そこから、少し外れることはあっても、再び戻って進み続ける人だと思った。

 あなたは砂浜に力強い足跡を残しながら進んでいった。黒いコートの裾が、風に煽られてめくれ上がった。

 あなたが振り返り、私に手を差し伸べた。私は乱れたおくれ毛に視界を遮られながら、あなたに向かって歩いた。

 初めて手をつないで歩きながら、奥様とここに来たことがあるのだろうかと考えた。

 不意に立ち止まったあなたが、つないでいた手を離し、私を強風から守るように立ちはだかった。

「あなたは、僕との人生に船出する覚悟はありますか?」

「どういう……、意味ですか?」強風と息苦しいほどに高まってくる鼓動で、喉元が締めつけられていった。

「今すぐとは言えませんが、僕はあなたと新たな航海に乗り出す覚悟があります」

 波音も吹きすさぶ風も、音を失って私の身体を通り抜けていった。私の中でだけ、世界のすべての音が消え、あなたの言葉だけが木霊していた。

「本気で言ってるんですか?」

 あなたが、軽はずみでこんなことを口にする人ではないことは、十分すぎるほどわかっていた。だが、確かめずにはいられなかった。

「本気でなければ、こんなことは言いません」あなたは砂浜を強く踏みしめ、毅然と立っていた。

「あなたが、病気の奥様と息子さんを捨てられるわけないじゃないですか! そんなことを言ったら、奥様がどれだけ苦しむかわかって言っているんですか? 病気が悪くならないわけないじゃないですか! 正気だと思えません!!」

 あなたの気持ちを遠ざけてしまうことに絶望を感じながらも、目をそらすことは許されないと思った。

「妻と息子への経済的な援助は続けます。息子の父親としての役割も果たし続けます。大学に入るまでは見守りたいので、2年以上後になると思いますが」

 具体的な計画を耳にし、あなたは本気かもしれないと思った。全身に鳥肌が立ち、頭の芯が痺れるような感覚に襲われた。

「私があの映画を見て……、あんなに泣いたからですか……?」

 あなたは大きく首を振った。

「だったら、どうして、急にそんなことを言うんですか? あなたは、奥様と息子さんを捨てて、平気で生きていける人ではないはずです!! 何があなたをそう言わせたのですか?」

「ここしばらく、妻が火遊びをしているんです。恐らく、病院で出会ったか、同窓会か何かで再会した男でしょう。毎日、目を輝かせてメールで連絡をとっています。高価な服や化粧品を買い、美容院やらエステやらを予約し、お洒落をして出かけていくのを見せられて、ずっと自分を支えていたものが切れてしまったんです。まあ、ちょっとした火遊びか、片想いなのでしょう。恋ができるほど回復したことを喜ぶべきなのは、十分に理解しています。ただ、僕が、こんなに愛おしいあなたを悲しませてまで、家族を守っているのにと思うと……!!」

 一時的な怒りか嫉妬のように思えた。だが、18年ものあいだ、奥様を辛抱強く支えてきたからこそ、それが糸を切ってしまったことも理解できた。

 あなたは、元の義務感をかきたてようとしても、寄せ集めようとしても、建て直そうとしても、不可能なところにまできてしまった。あなたをそこに追い込んだ要因に、私の存在があると思うと、その責任が全身の激痛に近い衝撃で落ちてきた。

「あなたは……、気持ちがおさまったら、また戻っていくのでしょう……?」

 乱暴に両肩を掴まれ、あなたの顔が至近距離に迫った。

「あなたはどうなんです!! こんな面倒な男と、荒海に航海に出るのは嫌ですか? このままの関係を続けるほうが気楽でいいですか?」

「嫌なわけないじゃないですかっ!! あなた以外、考えられません!!」私は悲鳴のように叫び、あなたの胸に崩れ落ちた。

 強風に煽られながら、砂浜に膝をついて唇を貪り合った。あなたも私も、狂っていると思った。だが、恋は人を狂わせる。みな、多かれ少なかれ恋の熱に浮かされているから、交際したり結婚したりできるのだ。狂っていなければ、人生を一人の相手に捧げる結婚などできるはずがない。それなら、狂った船に乗ってみようと覚悟を決めた。

               ★

 あなたが予約してくれていた旅館の部屋で、目元と額のしわが目立つ仲居さんがお茶を淹れてくれた。深い眼差しに、数多の宿泊客を観察してきた洞察力が垣間見えた。許されない関係だと見透かされているようで、彼女が出ていくまで、座布団に正座したまま身動きできなかった。

 お茶を飲み終わったあなたは、空き家になっている祖父母の家に風を入れてくると、乗ってきたレンタカーで出ていった。夕食までには戻ると言ったので、それまで何をしようかと考えた。

 長時間、強風にさらされていたのに、全身が火照っていた。ベッドが2つ置かれた和洋室には、道路を挟んだ海岸から、打ちつけるような波音が聴こえてきた。 

 身体を休めようと清潔なベッドに入ってみたが、高ぶった神経も、激しく駆け巡る血潮も、眠らせてくれそうになかった。あなたの奥様が、今にもドアを叩くのではという思いが不意に芽生え、全身が硬直した。布団に潜り込み、そのまま、体を強張らせて波音を聞いていた。体が温まるにつれ、押し寄せてくる眠気に飲み込まれながら、冬の荒海が、あなたと分かち難く結びついていった。

 目が覚めると、海に夕日が沈むところだった。しばらく見とれていたが、体の火照りが冷めてきたようで、ぶるっと身震いした。1階に大浴場があったことを思い出し、おりてみることにした。階段をおりているとき、屈託のない笑顔を見せながら、寄り添って歩く20代のカップルとすれ違った。眩しすぎて目を伏せてしまった。私たちには、あんなふうに純粋に笑える日がくるのだろうか。世界のすべてに後ろ指を指されている錯覚に囚われ、廊下の端を俯いて歩いた。

 すれ違った年輩の仲居さんに、フロント前に柄入りの浴衣を用意してあるので、よかったらどうぞと笑顔で声を掛けられた。嫌みのない笑顔に救われ、お礼を言ってフロントに足を向けた。並べられた浴衣の何枚かを吟味し、上品な浅葱色あさぎいろのものを選んだ。前に見た映画で背の高い女優さんが着ていて、とても美しいと思った色に近かった。

 大浴場に、年輩の女性2人しかいなかったことに安堵した。体を洗ってから、やや熱めの湯に小さくなって身を沈めた。熱い湯にいくら浸かっていても温まったように思えず、爪先からつむじまで冷えている感覚が抜けなかった。

 湯から上がり、浴衣をまとってみると、思ったより色鮮やかで、着る人を選ぶ色だった。小柄で地味顔の私が着こなせているか心許なかった。据付のドライヤーで髪を乾かし、アップにしようと思ったが、少しでも顔が隠れるように下ろしてしまった。おずおずと廊下を歩いていると、さっきの仲居さんとすれ違い、「とてもよくお似合いですよ」と言われた。ぎこちない笑顔をつくってお礼を言い、逃げるように部屋に戻った。

 夕食の時間が近づいていたが、あなたは戻っていなかった。勢いを増して迫ってくる波音を耳にしながら、髪をアップにしているとき、あなたはさっき言ったことを後悔して、戻れなくなったのではという思いが湧いてきた。全身からさっと血の気が引いた。探しにいかなくてはと、立ち上がったとき、忙しないノックの音がして、ドアが開いた。

 入口に立ったあなたは、時が止まったように私を凝視していた。初めて会ったときの眼差しと似ていた。

「きれいだ……」

 あなたは、おずおずと歩み寄ってくると、ファーストキスをする少年のようにぎこちなく唇に口づけた。ためらいがちに私を抱き寄せ、うなじに顔を埋めた。

「戻ったらあなたがいなくて、難しいものを抱えた僕が嫌になって出て行ってしまったんじゃないかと必死に探したんです……」

「私も怖かったです。あなたが後悔しているんじゃないかと思って……」

「後悔するくらいなら、最初から言いません!」

 互いの気持ちを確かめ合うように、痛いほどきつく抱き合った。

 いずれ冷める夢でもよかった。あなたが、一時でも、奥様と別れて私と一緒になりたいと思ってくれただけで十分だった。

              ★

 海の幸づくしの夕食が並べられ、2人の仲居さんが下がると、ようやく肩の力が抜けた。浴衣に半纏を羽織った私とあなたは、夢中で箸を動かした。

 最初に食べたのどぐろのお刺身は、東京で食べたものとは脂ののりが違う気がし、思わず笑顔になるほど美味しかった。あなたに尋ねると、養殖ではなく、天然なので、脂ののり方が自然なのだろうと言われた。

 海鮮鍋に入った牡蠣を見て、あの宮島から1年経ったことを思い出した。

「宮島で食べた牡蠣、覚えていますか?」

「もちろん。生牡蠣も、焼き牡蠣も、牡蠣ご飯も最高でしたね」あなたは、目元を緩め、猪口に注いだ地酒を口に運んだ。

「また、一緒に行けますか? 今度は、着物をレンタルして、あの橋の上で写真を撮りましょう」

「いいですね。きっと、あなたは輝かんばかりに美しいでしょう。今日の浴衣姿も、見とれてしまいました」

「それなら、今度は浴衣を着て夏祭りに行きましょう。花火も見たいです」

「じゃあ、来年は長岡の花火に行きましょう。1945年の長岡大空襲から2年後に始まった花火です。8月1日に祭りが始まり、空襲が始まった22時30分に慰霊の花火打ち上げがあり、2・3日に本格的に打ち上げられます。僕は子供の頃から何度も見ていますが、あなたにも見せたい」

「はい。長岡大空襲の慰霊の花火のことは祖母から聞いたことがあります。長岡が空襲に遭ったのは、山本五十六の故郷だったからだとか」

「それは僕も聞いたことがあります。山本元帥の思い、空襲で犠牲になった方々に改めて思いを馳せ、平和の尊さを考える機会になりますね」

 明日さえ不確かな私とあなたが、一番遠い季節の風物詩である花火の約束をすることが滑稽だった。それでも、私は約束を重ねたかった。

「花火と言えば、10月にある土浦の全国花火競技大会はどうですか? 大学の頃、土浦出身の友人と見に行ったんです。冷えた空気で澄みわたった空に、これでもかと打ち上げられる花火を一緒に見たいです」

「10月では、寒くて浴衣では出かけられないですね。でも、冬の花火というのは風情がありそうで、そそられます」

 人目を避けて会うのも、奥様に絶対に知られてはならないのも、以前と変わらなかった。だが、この日を境に、次の約束が自信を持ってできるようになった気がした。

 夕食が済むと、2人で広縁に立って真っ暗な海を眺めた。頭上には凍えそうな月が浮かんでいた。遠くに瞬く漁火が美しかった。

 あなたは、「今日から2人で航海に出ましょう」と私の肩を強く抱いた。この先にある困難を思うと、怖くないと言えば嘘だった。だが、明日世界が終わっても悔いはないほど幸福だった。

 その夜は、互いの決意を確かめ合うように、深く交わった。打ち付けるような波音と風のうなりと共に、あなたは私のなかに深く刻印された。私の全身は、爪先から髪の毛まで、あなたに愛されることで存在意義を見出した。

12

 クリスマスイブをあなたと過ごせると知り 、私の胸は何週間も前から躍っていた。

 平日のアフターファイブなので、どこに出かけようか、プレゼントは何にしようかと、寝る間も惜しんで考えた。あなたの希望を尋ねると、私に決めてほしいと言われたが、私もあなたの希望を聞きたいと言い張った。

 あなたは意外にも、私の部屋で手料理が食べたい、それが何よりのプレゼントですと目元を緩めた。プレゼントは何がいいかと聞かれた私は、あなたの好きな本が読みたいとねだった。あなたは、共有できるものが増えると嬉しいからという私を見て、それなら僕もあなたの好きなものを読みたいですと口元をほころばせた。

 あなたは、木枯らしで乱された髪を気にしながら、白ワインと書店の袋を下げてやってきた。

 書店の袋から、スベトラーナ・アレクシェービィチ『戦争は女の顔をしていない』が出てきた。ノーベル文学賞を受賞した初めてのジャーナリストの作品だと知っていたが、読んだことがなかった。あなたは、貪るように目次を眺める私に、後で感想を聞かせてくださいと微笑んだ。

 私は、ジュリー・オオツカ『屋根裏の仏さま』を贈った。大学でアジア系アメリカ人文学を専攻した私は、エスニック文学全般を好んで読む。あなたは、知らなかった一面を知りましたと興味深そうに本をぱらぱらめくり、寝る前に少しづつ読みますと大切そうに鞄にしまった。

 テーブルに、シーフードと野菜をたっぷり入れたクリームシチュー、有機野菜のカラフルサラダ、ホームベーカリーで焼いた丸いミルクパンを並べた。あなたの買ってきてくれた白ワインを味見してみると、口当たりがよく、今日のメニューに合いそうで嬉しくなった。

「このシチュー、シーフードの味がとてもよく出ていました。ぺろりと平らげてしまいましたよ」あなたは、お皿をパンで丁寧に拭った。

「先に冷凍シーフードで出汁をとっておいて、煮込むとき水の代わりに、それを入れるんです」

「なるほど。これだけの味を出すには、シーフードが相当必要だと思いましたが、その方法だと経済的ですね。僕も……」

 あなたが、「家で作ってみます」という言葉を飲み込んだのがわかり、ざらざらとした感情が胸に広がった。あなたも、私の感情を察したのか、気まずそうにパンでお皿を拭い続けた。

 日々の生活に根差した心地良さが愛着を深めることは、私も知っていて、耐えがたい嫉妬に襲われた。それを表出させまいと、私はお皿を片付け、デザートの準備をした。

 クリスマスに定番のケーキは、あなたが好きだというアップルパイにした。中に入れる焼き林檎は砂糖とシナモン、レーズン、ブランデーで味付けた。パイ生地にカスタードクリームを敷くように塗って焼き、コクを出した。

 あなたは、さくさくしていて美味しい、具も食べ応えがあって僕好みと、珈琲を飲みながら3切れも食べてくれた。パイ生地をこぼさないように、きれいに食べるのがあなたらしかった。

「そうそう、年末に、新潟の祖父母の家に風を入れに行きます。日帰りになりますが、一緒に行きませんか?」

「いいんですか……、私なんかが行って?」

「私なんかという言い方はやめてください。あなたには、僕の周囲のことを知っていてほしいんです。本当は、あの荒海を見に行った日も、あなたをあの家に連れていきたかったんです」

「嬉しいです。でも、御家族に失礼じゃないですか……?」

「妻は毎日、どこかをそぞろ歩いています。息子も察しているらしく、悪い影響が出ないか心配です」

 あなたは苦々しそうに吐き捨てた。息子さんは、あなたの行動にも不審なものを感じているのではと思ったが、口に出すことはできなかった。

「妻の火遊びについては、お義父さんとお義母さんに、手紙で知らせました。このまま続くようなら、別居を考えていると書いておきました。高齢の2人に心配をかけるのは申し訳なく思いますが」

 あなたの静かな怒りがにじむ横顔に背筋が冷えた。いろいろなものが動き出していることを肌で感じ、その重みを全身で受け止めた。

              ★

 あなたの父方の祖父母の家は、海岸から1キロも離れていない意外と現代的な2階建て住宅だった。庭の雑草はほとんどなく、木々は葉を落としていた。あなたはポストに溜まっていたチラシをかきだし、水道の元栓を開けた。

 縁側に寝そべっていた大きな黒猫が、むっくりと起き上がり、バツが悪そうに去っていった。縁側には、猫の吐しゃ物と思われる染みがいくつかあり、猫たちの集会場になっていたことが伺えた。

 あなたと一緒に縁側から上がった。思ったより、家具や床の埃は目立たず、あなたの手が入っているように見えた。縁側から差す陽射しの匂いが優しかった。庭の木々の影が、ベージュの絨毯に精緻な模様をつくっていた。

 あなたは、「適当に座っていてください」と言ってから、コートを着たまま忙しなく動き回り、電気のブレーカーを上げ、止水栓を開け、家じゅうの窓を開け放った。冷たい風がなだれ込むと、滞留していた空気が動き出し、家全体が息を吹き返した。

 あなたは、5つある部屋を案内しながら、私に少年時代の思い出を語ってくれた。部屋のあちこちに、あなたの面影が見え隠れし、初めて来た場所なのに親しみが湧いてきた。千葉県出身の祖父は、大学時代を過ごし、サラリーマン時代にも長く赴任していた新潟市が気に入り、定年後に夫婦で移り住んだという。あなたは、最後は2人とも施設に入って、病院で亡くなったと寂しそうに言った。

 あなたが家具の埃を払っているあいだ、私は雑巾を濡らして、縁側を掃除した。水の冷たさで手が赤くなり、ゴム手袋を持ってくればよかったと後悔した。さっきの黒猫は、庭の大きな石の上に寝そべり、時折目を開けて私の動きを窺っていた。

 一息つくと、あなたがガスの元栓を開け、お湯をわかして緑茶を入れてくれた。2人ともコートを着て、日の当たる縁側に座ってお茶をすすった。黒猫は、いつの間にかどこかに行ってしまった。

「ここには、よく来ているようですね」

 家全体に手入れが行き届いていて、電気も水道もガスも止めていないことから、それが伝わってきた。

「親戚は、売ってしまえと言うんですけど……。高く売れるわけでもなく、壊すのも金がかかるので、僕の隠れ家にしています。近所もほとんど空き家で、同じような状態です」

 あなたは、赤くなった私の手に気づき、悪かったねと気づかわし気に言った。私は、気にしていませんとバッグからエルバヴェールのハンドクリームを取り出してぬった。

「あなたと、ここで暮らすのも楽しそうですね」

 あなたが視線を彷徨わせながら、ぼそりとつぶやいた言葉に、胸が震えた。あなたは、照れたように話をそらせた。

「アレクシェ―ヴィチ、読みましたか?」

「はい、読みだしたら止まらなくて。読み終えると、憤り、悲しみ、敬意など様々な思いが胸に吹き荒れて、ベッドに入ってもなかなか眠れなくて困りました。インタビューをしたアレクシェ―ヴィチの苦悩、知的な反応、芯の強さや使命感、語った人びとの悲しみ、使命感、しなやかな強さが伝わってきて、双方に深い敬意を感じました。頁を繰るたびに、あなたが感じた憤りを後追いしているような気がし、これを選んでくれた意味がわかりました。彼女の他の作品も読んでみたいです」

 あなたは私の感想に深く頷いてくれた。

「僕もあなたのくれた2冊を夢中で読みました。移民で構成されるアメリカは、どこかの国と外交関係が悪化したときに、その国と血縁のある人々に憎悪が集まってしまう。そのことで、人生を破壊された人びとの悲しみが深く迫ってきました。今まで、よく知らなかったことが悔やまれます。あの作家さんは、美術を専攻したのですね。アメリカに写真花嫁として嫁いだ一人一人の語りが集まり、一枚の絵を描くような創作スタイルに感銘を受けました」

「そうなんです。私も、一人一人に背後から囁かれているような感覚で、読み進めていきました」

「あなたが選んだ本も、僕が選んだ本も、逃れられない運命に飲み込まれた人びとの声を集める点で共通していましたね」

「はい、私も同じことを考えていました。ところで、年末年始にも本を読みたいので、何か紹介してくれませんか?」

「もちろんです。僕にも何か紹介してください」

 あなたに、ウィンストン・チャーチルの『第二次世界大戦』を勧められ、すぐに地元の図書館で4巻全部を借りてきた。実家に往復する電車内で、夢中で頁を繰りながら、戦時に英国民を鼓舞した力強い政治家のイメージが強かったチャーチルが、これほど繊細で奥の深い文章を書いていたことに感銘を受けた。彼がノーベル文学賞を受賞していたことも初めて知った。本に熱中していたので、いつもは実家にいくと蠢き始める劣等感をすっかり忘れていた。

 私は、政治学科出身のあなたが興味を持ちそうなミシェル・ウェルベック『服従』とオルハン・パムク『雪』を紹介した。あなたは、何かを強く感じるたびに、私にLineで報告してくれた。年末年始は、無数のメッセージが2人の間を行き交った。

 幸せだった。新しく迎える年も、この幸せが続くと信じて疑わなかった。

13

 私のアパートは、同期の新年会の会場と化していた。彩子が本社にいた頃から、3人の誰かの部屋を会場に、語り明かすのは恒例だった。

「彩子、大和やまとさんと仲直りできた?」

「まあね……、一応」

 彩子が納得できないものを腹に抱えていることは、歯切れの悪い口調から読み取れた。辛いことを胸に押し込めてしまう彼女が、安心して弱みを見せられる関係を彼と築けることを願わずにいられなかった。

「水沢さん、弁護士の彼氏と喧嘩したの?」竹内くんは、ワイングラスを危うい手つきでテーブルに戻しながら尋ねた。

「去年の11月頃、彩子が夜中に電話してきて、彼氏の部屋を飛び出したから、泊めてって。豊洲のタワマンから、タクシーでうちに乗り付けたんだよ」

「大和が、私と一緒にいるのに、ずっとLineしてるから、のぞき込んだら相手のアイコンが女性。彼は仕事関係の女性で、緊急の要件だって言うんだけど、そういう内容じゃない気がして、問い詰めたら言い争い。これ以上、彼と顔を突き合わせているのが耐えられなくなってさ」

「弁護士なら、女性の同僚と緊急の要件くらいあるだろ。クライアントかもしれないし。多めに見てやれよ」

「わかってるよ。竹内くんこそ、同棲中なのに、女友達の部屋にいて大丈夫なの? まあ、私たちがどうにかなることは100%ないから、心配ないけど」

「うん……。俺さ、すずとの同棲、解消しようかと考え始めたんだ……」

「え、それって、つまり別れるっていうこと?」彩子が膝に視線を落としたままの彼をのぞき込むように尋ねた。

「まだ、決心したわけじゃないんだ。一緒に暮らしてきたことで芽生えた愛着もあるし、彼女のいいところをたくさん知っている。趣味も合うし、彼女とだから過ごせる充実した時間がある。俺も30過ぎたし、同棲、結婚という流れを考えていた相手だからこそ、後悔しないか悩むんだよ」

「何がひっかかるの? 前に話してた考え方の違いが、我慢ならないところまできちゃったとか?」私はハワイアンレストランでの会話を記憶から手繰り寄せながら尋ねた。

「まあ、そういうことかな」

 私と彩子は、彼が話し出すのを待った。

「彼女は、いわゆる記念日とか、恋人同士のイベントにこだわるんだ。交際3ヶ月とか半年とか。誕生日、クリスマス、バレンタインとか」

「竹内くんが大切な記念日を祝うのを面倒くさがって、彼女を怒らせたの?」

「鈴木さん、よくわかるね」

「それは竹内くんが悪いよ。相手を大切に思っていれば、そういう日を大切にしたいと思うよ。2人の思い出をつくるきっかけにもなるし」彩子がきりっとした眉を吊り上げて力説した。

「やっぱり、女性って、そういうのこだわる人が多いんだな……」

「で、どんなことがあったの?」私は浮かない顔の竹内くんを促した。

「まあ、いろいろあるけど。例えば、先月、仙台泊の出張が入って、彼女の誕生日を一緒に祝えないことがわかってたんだ。彼女はどうにかならないかと尋ねたけど予定は変えられなかった。楽しみにしていた彼女は見るからに落胆。俺の誕生日に、彼女はキャンプ用テントをプレゼントしてくれて、お洒落なレストランを予約してくれた上に、サプライズのケーキまで出てきたから、俺もきちんと返さないといけないと思った。一緒に外出したとき、彼女が欲しがっていた希少価値のあるランニングシューズを偶然見つけたから、少し早いけどプレゼントしたら喜んでくれた。俺は胸を撫でおろして、『これで肩の荷が下りたよ』と言ってしまったんだ。そうしたら、彼女が泣きそうになって……。私はあなたに喜んでほしくて誕生日をお祝いしたのに、あなたという人間がこの世に生まれた日に感謝したいから祝ったのに、それを返すのが義務みたいに受け取られるのが堪らなく悲しいって。機嫌直すのにどれだけ時間と労力がかかったか……。こういうことが繰り返されると思うと、気が滅入るんだよ」

「それは絶対、竹内くんが悪いよ!」彩子が間髪入れずに言った。

「そうだよ。彼女が悲しかったのは当然だよ。カップルって、そういうのを積み重ねていくことで、絆が生まれるんだから」

「そういうの気にしない子と付き合ったことあるけどな。前の彼女は、平気で俺の誕生日忘れたし」

「だったら、そういう子と付き合えばいいじゃん。すずちゃんがかわいそうだよ!」彩子が声を荒らげた。

「記念日とかイベントをしなくても、すずに感謝しているし、大切に思っているのは変わらないのに、そこまでこだわる必要あるわけ? 正直、面倒くさいんだけど」

「気持ちを言葉にしないと、物にしないと、伝わらないこともあるんだよ。気心通じた恋人でも、違う人間なんだから、しっかり気持ちを伝えることは大切だよ!」

「竹内くんが面倒だと思うのはわかるけど、相手のことを大切に思っていたら、歩み寄れるんじゃない? まずは2人で相談して、どの記念日やイベントを大切にするか決めてみたら? 忘れないようにカレンダーに印をつけるとか工夫して。当たり前のように、一緒に記念日が迎えられる幸せに感謝しないと。それから、何もない日でも、感謝をこまめに伝えるようにすれば、うまくいくと思うよ」

「すーちゃん、やけに落ち着いて、包容力出てきたね。何かあった?」彩子が私の視線を捉えて尋ねた。

「もしかして、海宝課長との関係に大きな変化があったの?」口ごもる私を彩子が問い詰めた。

「俺たち、絶対言わないから話して大丈夫だよ。1人で悩むことないと思うよ」

「まあ、彼が覚悟を決めたというか……」

「覚悟って……、奥さんと別れたっていうこと!?」彩子が頓狂な声を上げた。

「マジで!? あの海宝課長が」

「そんな性急な話じゃないよ。息子さんが大学に入るまでは見守るから、まだ2年以上は先だと思うけど。わかってると思うけど、絶対誰にも言わないでね!!」

 彩子が気色ばんだ。「そんなの絶対信用しちゃだめだよ。妻とは別れる、待っててくれなんて、不倫男の常套句じゃない。そんなのに縛られて、すーちゃんの貴重な2年を無駄にするなんて馬鹿げてるよ! あいつ、心底見損なった!」

 彩子は息を整えてから言い継いだ。「すーちゃん、大和の友達の弁護士を紹介してもらえるように頼むから、すぐ別れた方がいいよ。お願いだから、考え直して。不倫なんて、清純なすーちゃんに似合わない」

「ありがとう、彩子。でも、いまの私は、彼以外は無理なんだ。たとえ一時でも、彼がその気持ちになってくれたことが本当に嬉しい。だから、彼が私を必要としてくれる限りは一緒にいたい。結果として、捨てられてもいい」

 2人は顔を見合わせた。

「今の鈴木さんは、何を言ってもだめだよ。海宝課長は、簡単にそういうことを言う人じゃないから、信じてついていけばいいと思う。2年経ってもまだ33だし、やり直しきく年齢だろ」

「すーちゃんがその覚悟なら応援するしかないけど、大変なことに巻き込まれる気がして心配」

「ここに、この部屋に、あの海宝課長が来てるんだよね……」

 2人は生々しいものを想像したかのように口を噤んだ。

 このとき私たちは、1ヶ月も経たないうちに、当たり前のように続いてきた日常が大きく変化することなど考えてもいなかった。

14

 ニュース番組で、都内の今日の新型コロナウイルス感染者数が報じられていた。感染者、重症者、死者の数は毎日報道され、感染者の延べ人数は日々増加していった。

 ダイヤモンド・プリンセス号内で発生した新型コロナウイルスの集団感染が報じられた頃は、自分たちとは遠い場所で起こっている出来事だった。だが、国内の感染者数が増え、濃厚接触者、手洗い、マスク、三密、ソーシャル・ディスタンスなどの言葉が、連日メディアにあふれると、もはや無関心ではいられなくなった。

 土曜の午後、私はあなたと、ペパーミントティーを淹れ、私の焼いたパウンドケーキを食べながら、ニュースに耳を傾けていた。

「マスクの入手が難しくなったけれど、あなたは大丈夫ですか?」

「私は軽い花粉症があるので、幸い買い置きがありました。あなたは?」

「僕も使い捨てマスクが何枚かありますが、使い切ってしまったら、どうしようかと思っています。今はアルコールで消毒して2-3日使っています。もう手遅れかもしれませんが、ネットで購入できないか探してみます」

「こんなこと、そう長くは続きませんよね?」

「そうあってほしいですね。そうそう、先日、運営部の松嶋まつしま部長と、営業部の雨宮あまみや部長、僕と志津で話し合って、試験会場での感染防止対策についてマニュアルを作りました。クライアントに提示して、先方がさらに厳しい対策を希望するようなら、それに合わせることにした。営業部全員への通達が必要だから、週明けにミーティングを開きます」

「了解しました。ところで、先週、運営部が、マスクを入手できない登録スタッフ用に、会社の在庫をかき集めてました。当面はどうにかなるかもしれませんが……。こういう事態は想定外でしたからね」

「うん。総務が頑張ってくれて、フェイスシールドを大量発注できたようですが、マスクやアルコール消毒液は厳しいようです」

「早く以前の日常に戻ってほしいですね」

「本当にそう思います」

 あなたは、重くなった話の流れを変えようと、思い出したように話し出した。「そうそう、あなたが勧めてくれたダン・ブラウン『オリジン』読みましたよ。科学と宗教が対立するのではなく、手を取り合って人類の危機に立ち向かうべきという著者のメッセージが力強く反映されていて、心に響く作品でした。彼は『天使と悪魔』の頃から、そのテーマを追求してきたことが伺えますね」

「はい。北関東の水沢が、ブラウンのファンなので、私も影響を受けて、原作も映画も制覇したんです。だから、彼の思考の発展が読み取れて興味深いです。彼の作品は、『天使と悪魔』、『ダヴィンチ・コード』、『インフェルノ』と映画化が続いて、どれも大ヒットしていますよね。だから、『オリジン』も映画化されますよね?」

 あなたは、パウンドケーキの上に乗せたバニラアイスをスプーンですくいながら言った。「そうですか。僕はまだ『オリジン』と『天使と悪魔』しか読んでいないし、映画は1本も見ていないんです。でも『オリジン』こそ、いま映像化すべき作品だと思います。こんな時代だからこそ、科学と宗教が協力して危機を乗り切ることの重要性を訴える作品は必要です。僕は、映画よりは、連続ドラマにして、細部まで丁寧に描いてほしいと思いますけどね」

「確かにそう思います。映像化されたら、一緒に見たいですね!」

「うん、あなたと感想を話し合うのは楽しそうです。こうして、共有できるものがどんどん増えていくのはいいですね」

 顔をほころばせたあなたは、ペパーミントティーのおかわりを求めてカップを差し出した。

「暖かくなれば、コロナは収まりますよね。今年は夏が楽しみです。あなたと浴衣を着て長岡の花火を見に行けるし」

「僕も今から楽しみだ。あなたの言っていた土浦の全国花火競技大会を調べてみたけど、ぜひ行ってみたい。イス席はインターネットで購入できるようだから、売り出されたら押さえておきましょうか」

 カップを受け取ったあなたは、仕切り直すように低い声で話し出した。

「あなたには伝えておきます。以前、ここ数か月の妻の軽率な行動について、お義父さんとお義母さんに手紙で知らせたと話しましたよね。あれから、お義父さんから電話をもらいました。平謝りで僕に理解を示してくれました。もう十分だから、僕の好きなようにして構わないとまで言われました。高齢のご両親に心配をかけたのに、寛容に受け止めてくれる器の大きさに敬服しました。妻はご両親に注意されたらしく、僕は些細なことを大袈裟に告げ口をしたと責められました。妻は、いままで病気で好きなことができなかったのだから、お洒落をして友人と会って何が悪い、そこに男性の友人がいたとしてもそんなに咎められることではないと言い張り、自分には友人に会う自由もないのかと理詰めでまくしたててきました」

「奥様、大丈夫でしょうか? 御病気がそうさせるのでは……?」

「僕が見る限り、いまの彼女は、今まで見てきた軽躁状態ではありません。ここ数年の彼女はまともです。仮に軽躁状態だったとしても、もう僕が限界です。両親が醜い言い争いをする姿を毎日見ている息子への影響も心配です。近いうちに、この沿線か、会社の近くの物件を調べてみます。あなたは何も心配しなくていいですよ」

 予想以上に早く進行していく事態に、気持ちが追いついていかなかった。だが、私たちの背中を押す流れを確かに感じていた。

 東京オリンピックの1年延期が決定しても、私は新型コロナウイルスが私たちの生活にもたらす影響の大きさに気づいていなかった。 

                ★

 都内に緊急事態宣言が発令されると、私たちは延期になった試験への対応に追われた。

 試験会場で勤務する登録スタッフは、体温の申告、不織布のマスク着用、アルコール消毒が義務付けられ、大声を出す誘導スタッフはフェイスシールドを付けることになった。

 だが、本社オフィスでは、入口にアルコール消毒液が設置され、デスク間に透明のパーテーションが入った以外は大きく変わらず、健康管理は各自に委ねられていた。

 営業部は、対面営業を自粛し、電話とオンラインに切り替えた。営業部員が、会議室にパソコンを持ち込み、Zoomでクライアントと交渉する姿が目立つようになった。

 スクリーンを通しての商談は、相手の小さな表情の変化や息遣いなど言語外のメッセージを読み取るために、集中力が求められた。微妙な感情の変化が伝わりにくい分、YesとNoを明確にすることが必要だと学習させられた。

 あなたと会社以外で会うのは自粛し、電話やLineで話をすることが増えた。あなたは、コロナが流行しても試験自体はなくならないが、会場試験がオンライン試験に移行する契機になると読んでいた。上層部が、通信会社と共同で、オンライン試験監督システムの開発を考えていることも教えてくれた。私は、業界に押し寄せる大きな変化を意識しながらも、2人の関係についてはまだ楽観的だった。

               ★

 眠りから覚まされたのは、目覚まし時計より少し早くLineの通知音が鳴ったときだった。

 運営部の松嶋部長が、感染経路不明で新型コロナウイルスに感染したという連絡だった。会社は消毒のために1日立ち入り禁止になった。どこか遠くの出来事と認識していたことが、すぐ傍まで迫ってきたことを実感させられた。

 夕方近くになって、あなたから電話があった。あなたは声を落とし、自室で自主隔離中だと言った。驚いて言葉が出なかった。

「僕は濃厚接触者の定義には該当しないのですが、昨日の会議で、松嶋部長と1時間半ほど同じ部屋にいました。もちろん、彼も僕もマスクをつけていました。それでも、念のため、会社の指示で、彼と一緒に会議室にいた5名は、2週間は外出を自粛し、体調の観察をすることになりました。その中には志津も含まれています」

 あなたは、息を飲む私に、明日出勤したら、家で仕事をするのに必要な資料を添付ファイルで送ってほしいと指示した。

「あなたは、体調に変化はないですか? くれぐれも気を付けてください」とくぐもった声で気遣われ、電話を切ると背筋がぞくっとした。

 濃厚接触者の定義は調べていて、当てはまらないことはわかっていた。だが、あなたが、自分が、テレビで報道されているウイルスに感染しているかもしれないという恐怖が全身を飲み込んだ。体調に変化はなかった。だが、無症状でも感染していた方がいるとニュースで何度も報道された。もしも、自分が感染していて、会社の同僚、電車で近くにいた人などに感染させていたらと思うと言い様のない不安が全身を駆け巡った。スマホを握りしめていた手は、微かに汗をかいていた。

 未知のウイルスが引き起こす抗えない波が、状況を大きく変えてしまう予感がし、名状しがたい不安が消えなかった。

 この日を契機に、IT部の尽力で、テレワーク態勢が着々と整えられた。あなたの自主隔離が開けた頃には、別のフロアにいる取締役以外はテレワークが基本となった。やむを得ず、出勤が必要な部署も、密を避けるために、交替でテレワークをすることになった。

 営業部は、毎朝10時にZoomミーティングを行い、その後は各自が自宅から仕事をした。出社するのは、必要な資料を取りに行く際や、オフィスの機器を使用するとき、諸手続きのときだけに限られた。

 あなたの姿を見られるのも画面越しになった。あなたは壁紙で背景を隠し、自宅の雰囲気を一切感じさせなかった。毎朝ネクタイをきっちり締めたスーツ姿で画面に現れ、髪の毛もきれいに整えられていた。相変わらずのあなたらしさが愛おしかった。私も毎日メイクをし、服装も髪型も整えてノートパソコンの前に座った。あなたの目に入る私は、少しでも美しくありたかった。

 あなたからの電話があったのは、仕事が終わり、ニュースを見ながら夕食を摂っているときだった。

「実は馬橋駅の近くに部屋を借りて、そこにいます」

 衝撃を受けた私に、あなたは言い継いだ。

「松嶋部長の件で僕が自主隔離している頃、妻がコロナ感染を恐れて精神不安定になったんです。僕の隔離期間が終わっても、外で仕事をしている僕には、コロナウイルスがついているかもしれないと避け始めました。僕と息子はできる限り、部屋から出ないでほしいと言われ、トイレのために部屋を出るのも咎められる始末です。彼女は外出できなくなって、室内や僕と息子の衣服に、異常なほど除菌スプレーを吹き付けて消毒しているんです。息子や僕にも、外から帰ったら、すぐに着替えと入浴を要求します。僕や息子が買ってきた食材や日用品をアルコールで入念に消毒したり、洗ってからでないと、食べたり使ったりしません。僕も出社が必要な日がありましたが、その夜は特に妻の不安が強くなりました。それが続いて、僕は妻の精神安定のために、先月からアパートを借りて別居中です。妻が今の状態では、僕も仕事に集中できませんから」

「大変でしたね。奥様はもちろん、あなたと息子さんも……。あなたは大丈夫ですか? 仕事の時間以外も、そこにいるんですか?」

「ええ、ここで寝泊まりしています。家に戻るのは、買い物した食材や日用品を届けるときだけです。もともと、いまの物件の目星は付けていたのですが、当初とは違う理由で別居生活が始まってしまいましたね……」

 あなたは自嘲気味にいい、小さな溜息をついた。

「何か困ったこと、不便なことはありませんか? 私で良ければ、お手伝いに伺います」

「ありがとう。でも、僕たちはコロナが落ち着くまで、会わないほうがいいでしょう。もしも、どちらかが感染したら、濃厚接触者を特定するために、保健所に行動を尋ねられます。そうなると面倒でしょう。会社にばれたら、あなたの将来にも関わります」

「わかりました……」

 あなたの口調は事務的で、有無を言わさない響きがあり、反論の余地を与えなかった。

 「こんな状況にならなければ、もっと会えたのに……、淋しいです」

 私はあなたの気持ちが変わっていない確証を引き出したくて、答えを待った。

 あなたは「そうですね」と感情の起伏を排した声で答えた。

 あなたの言葉の行間から、変わらない思いを読み取りたくて、質問をいくつかしたが、求めるものは得られなかった。

「奥様、早く落ち着くといいですね」

「ええ、病院に行くのは怖いというので、オンライン診療が受けられないか、調べてみる予定です」

「そうですか。いい方向に向かうことを心よりお祈りいたします」

 歯車が少しづつ狂い出していた。

15

 スクリーンの向こうのあなたは、無防備に疲れをさらしていた。目の下の隈が痛々しく、無精ひげが目立ち、身なりを整える余裕を欠いていることが伺えた。朝のミーティングでは、辛うじて身なりを整えていたことを思うと、日中にいろいろあったことが読み取れた。

「妻がますます悪くなっているんです。コロナ感染への不安だけではなく、僕が自分を捨てるんじゃないか、両親が死んでしまうのではないか、息子がコロナにかかるのではないか、さっき野菜の洗い方が不十分だったのでウイルスがついていたんじゃないかなど、不安が際限なく湧いてくるようで。見ているのが気の毒なほど、苦しんでいます……」

 あなたは、無精ひげの生えた形のよいあごに手を当てた。

「奥様、オンライン診察は受けられたんですか?」

 あなたは小さく頷いた。「主治医は全般性不安障害か強迫性障害だろうと。双極性障害の患者は、併発することがあるとのことです。コロナ禍で、不安が強くなる患者は増えていると言われました。処方薬が何種類か増えたのですが、副作用だけが強いらしく、まだ効いているのかわかりません」

「いま馬橋のアパートにいらっしゃるんですか?」

「ええ、いまは。でも、最近は妻が不安になるたびに電話をしてくるので、家に戻ってケアをすることが増えました。仕事中にも関わらず電話がかかってきて、宥めるのに苦労させられます。さっきも航平こうへい、息子と2人でようやく落ち着かせました。息子は小さい頃から不安定な妻を見ていたので、僕よりも扱いが上手です」

 あなたは無理に口角を押し上げ、笑みをつくろうと試みた。

「メールをしていた相手とは……?」

「もう、それどころではなくなったようです。今度は、僕に離婚されるのではないかと不安になっています」

 私が複雑な表情をしているのを見て、あなたは慌てて取り繕った。 

「すみません。つい、あなたに甘えてしまいました……」

「いいんです。私は、そのためにいるんですから」

「あなたには苦労をかけてばかりで、すみません」

「気にしていません。早く会いたいです」

「ええ、僕も会いたいです。あなたの姿を見て、声を聞くときだけは、心が安らぎます。宮島で撮ったあなたの写真を毎晩眺めています……」

「私もです。寝る前にあなたの写真を見て、あなたが教えてくれた山崎豊子『二つの祖国』を読んでいます」

「あなたは、きっと気に入ると思いました。あなたに教えてもらった、ミシェル・ウェルベックの」

 画面越しにスマホが振動する音が聞こえたのは、そのときだった。

「どうした?」

 あなたは気づかわし気な声でスマホに応答しながら、目ですまないと訴えた。何かを激しくまくしたてる女性の甲高い声が、画面の向こうからかすかに聞こえてきた。

 あなたの奥様の声を初めて聞き、息苦しいほど鼓動が早くなった。震える手でZoomを切断し、床にへたり込んで動揺が収まるのを待った。奥様の電話に答えるあなたの声には、私の知らない親密な響きがあった。

 あなたと私は、前進したように思えても、当初からの状況は何も変わっていないと思い知らされた。コロナがもたらした波は、私たちが目を背けてきたことに正面から向き合うことを余儀なくさせた。

 コロナ禍で、長岡の花火も土浦全国花火競技大会も中止になった。会社の方針で、出勤以外の県境を越える移動の自粛が決まり、宮島で着物を着て写真を撮ることも叶わなくなった。あなたとの約束が次々と流れていくのに、私はなす術がなかった。

               ★ 

 がらんとしたオフィスで、一人で仕事をしていると、霧の中を漂う舟に乗っているような心細さに飲み込まれた。

「あれぇ、鈴木さん、出勤?」

 スポーツメーカー製の黒いマスクをかけた竹内くんが、印刷した掲示物を小脇に抱えて入ってきた。

「うん。クライアントに資料を郵送するから出てきたの。竹内くんも?」

「大判プリンター使いにきたんだ。ご飯いかないの?」

「経理に寄った後、出ようと思ってたけど」

「ちょっと話したいことあるんだけど、お昼一緒にどう?」

「もちろん! 少し待っててくれるかな?」

 気分が沈んでいるときだけに、彼の屈託のない明るさが嬉しかった。

 会社を出ると、テイクアウトしたと思われる袋を下げたビジネスマンや制服姿のOLと何度もすれ違った。竹内くんは、ランチ営業をしている海鮮居酒屋を指し、どうかと尋ねた。私が、いいねと頷き、2人で暖簾をくぐった。店の前に小さなテーブルが出され、テイクアウト用の弁当が並んでいるのが目立った。最近、あちこちで目にする光景だった。

 安くて美味しいランチを提供していると評判の店で、コロナ前は店の前に列ができていたことを思い出した。だが、周辺のオフィスビルでテレワークが進んだせいか、待たずに入れた。

「俺、海鮮丼の松」竹内くんは海鮮丼3種類のみのメニューを見て即決した。少し歩いただけなのに、ノーネクタイのワイシャツの胸元が汗ばんでいて、体を鍛えている人に見られる代謝の良さを伺わせた。

「う~ん、悩む。松は魅力的だけど、高いからなあ。今日は竹にしておこうかな」

「松にしなよ。今日はご馳走するよ」

「本当!? ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えていただきます」

「そうこなくちゃ!」

 竹内くんは手を上げて店員を呼び、注文を済ませると、店内を見回した。「久々に来たけど、テーブル数減らしたんだな……」

「うん。前はもっとテーブルが多くて、ランチタイムは相席も求められて、並んでいる人がいるから、食べ終わったらすぐ出なくちゃならない雰囲気だったね」

 距離をとって並べられたテーブルは8割方うまっているが、並んでいる客はいないので、みなゆっくりと海鮮丼を楽しんでいた。

「追いまくられずに食べられるのは嬉しいけど、なんか淋しいな」

 竹内くんはマスクを外し、喉を鳴らして水を飲んだ。

 マスク生活になってからの外食は初めてで、マスクを外すタイミングに戸惑った。私は水を一口飲んで、マスクを掛け直してから尋ねた。

「話したいことって何?」

「うん。俺、すずにプロポーズして、OKもらったんだ」

「えっ? おめでとう! でも、随分急だね」私の部屋で愚痴を言っていた彼を思い出し、予想外の展開に驚かされた。

「ありがとう。コロナで在宅勤務になってから、すずのいいところに改めて気づいたんだ。それから、在宅勤務で時間に余裕ができたから、いろいろなことを話し合えるようになって、解決したことが多かった。それで、彼女を離したくないと思う気持ちが強くなったんだ」

「そうなんだ。コロナが幸せを運んできたんだね。前に飲んだときは、別れることも考えてたんだもんね」

 竹内くんは運ばれてきた海鮮丼に、山葵わさびをといた醤油をかけた。

「うん。俺が在宅勤務になってから、彼女は俺の昼食を用意してから出勤しているんだ。それに、俺は在宅勤務前は、帰って寝て出勤のような生活だったから気づかなかったけど、改めて部屋を見ると、床はゴミ一つ落ちていないほどきれいにされていて、風呂からトイレ、玄関まで掃除が行き届いていた。俺の使うシャンプー、ヘアワックス、アフターシェーブローションなんかも、切らさないように買い置きしてくれていた。あと、俺が在宅勤務になってから、彼女はZoomにきちんとした印象で映って、体を締め付けないオフィスカジュアルを何組か買ってきてくれたんだ。サイズもぴったり。彼女の帰りは20時を過ぎるし、仕事で疲れて大変だったと思うのに、ここまでしていてくれたのかと思って、惚れ直したよ。家事が得意なのは知っていたけど、本当にしっかりした女性なんだなと思った」

「在宅勤務にならなければ気づけなかったね。考え方の違いは解決したの?」

 私は彼に食べながらでいいからと促し、自分もマスクを外して箸をとった。

「以前は、余裕がないこともあって、喧嘩になると面倒だから、ひっかかることも腹の中に溜めてしまってた。でも、違和感を感じたとき、自分はこう考えているから、そういう言い方をされると傷つくと伝えてみたんだ。そうしたら、彼女は、ああそうって。言ってくれないとわからないから、これからも、そういうことは言って。自分も伝えるからって。案外あっさり。記念日のことも、鈴木さんがアドバイスしてくれたように話し合って、何を祝うか決めたよ。なんか、俺が自分でいろいろなことを難しくしてたのかなって思ったよ」

「そうなんだ。本当におめでとう。コロナ禍で結婚の準備をするのは、いろいろ大変だと思うけど、2人で乗り切ってね」

「ありがとう。この状況だから、まだ福岡の彼女の実家に挨拶に行けていないんだ。式はコロナが収束するまで待って、とりあえず衣装着て前撮りだけしようかと話し合ってる」

「そっか。大変だけど、どんな式にするか考える時間ができたね。アウトドア派の竹内くんたちだから、自然を感じられる場所で式を挙げるのが似合いそう」

「よくわかってくれてるね。すずは、軽井沢あたりで、ガーデンパーティーみたいなのをやりたいと言ってるよ。いつになるかわからないけど、式挙げるときは絶対来てね」

「もちろん! 今から楽しみにしてるね。ガーデンパーティーなら、換気とか三密とか気にしなくて済みそうだね」

「うん、そうだね。何か自分のことばかり話しちゃってごめんな。鈴木さんは最近どう?」

「まあ、コロナのせいで、なかなかね……」

 コロナが運んできた幸せに浸る彼に、コロナで現実と向き合うことを強いられた愚痴を聞かせるわけにもいかず、言葉を濁した。

「しんどいことがあったら、1人で抱えないで相談しろよ。何もできないかもしれないけど、話聞いたり、美味いものをご馳走するくらいはできるから」

「ありがとう。今日、竹内くんと話せて、すごい元気でたよ。今度、彩子と3人でお祝いしようよ」

「おー、すごい楽しみ。やっぱ、同期と話すのは楽しいよ。最近、ただでさえ、人と話したり、食事をしたりする機会が減ってるからマジ嬉しい」

「本当にそうだね。今日、久しぶりに対面で人と話したよ」

「俺も、すず以外ではそうだな。また、出勤が同じになったときは、飯食おうよ」

「ぜひぜひ。今度は私がお祝いにご馳走するね」

 私と竹内くんは、さすがに長居しすぎたと、海鮮丼の残りをかきこんだ。松を注文しただけあって、酢飯に乗せられた鮪や甘海老、イクラ、烏賊、鮪のたたき、胡瓜と錦糸卵も、急いで食べてしまうのがもったいないほど美味しかった。

16

 彩子がZoomで話したいと連絡してきたのは、木々が色づいた晩秋だった。 

「すーちゃん、久しぶり!」

 画面の向こうの彩子は、しばらく会わないうちに、かなり髪が伸び、ますます綺麗になっていた。

「久しぶりだね、彩子! 元気だった?」

「元気、元気。本社はずっとテレワークなんだよね?」

「そう。通勤しなくなってから、太らないように、週2-3回はウォーキングしてるよ。ところで、話したいことって何?」

「うん。実は私、少し前に大和と別れたんだ」

「えっ、そうだったの! 彩子、大丈夫?」

「ありがと。大和がずっと弁護士の女性と二股かけてたことがわかったの。彼女と結婚するんだって。もう、吹っ切れた」

「うそ、大和さん、最低じゃない!!」

「生演奏の聴けるカフェで別れ話されてさ。飲み物代の1000円札をテーブルに叩きつけて、帰ってきたよ」

 彩子は清々したと言いたげに笑った。意地っ張りな彩子は、辛いときほどそれを胸に押し込めて笑ってしまう。

「無理しなくていいんだよ。辛いときは、愚痴って、泣いて、発散しないと。彩子はいつも格好つけたがるんだから」

「ありがとう。でも、本当に大丈夫なの。実は、好きな人ができたの」

「そうなの? どんな人?」

「大和に別れ話されたカフェでピアノと歌の生演奏してる13歳上の男性。彼、透とおるさんの前だと、自分を飾らなくてよくて居心地いいんだ。透さんに、大和に振られた話をしたら、いまの気持ちを込めて、歌ってみないかと言われたの。彼のピアノ伴奏で大学のときにミュージカルサークルの公演で歌った『レ・ミゼラブル』のOn my ownを歌ったら、押し込めていた悲しみを驚くほど自然に出せて、号泣しちゃった。自分でも、そんな状態になったのが不思議。でも、それで驚くほど楽になったの。それから、いろいろあって、彼のこと大好きになった」

「わあ、良かったね! 彩子は、一緒にいて無理をしてしまうような人と付き合うことが多かったから、そんなふうに自然でいられる人と出会えたと聞いて本当に嬉しいよ。付き合ってるの?」

「うん、最近ね。実は……、彼は強迫性障害という病気で苦しんでいて、治療が始まったばかりなの。私は彼のおかげで驚くほど早く失恋から立ち直れたから、いまは彼の回復を全力で支えたいと思ってる」

 強迫性障害という病名が、あなたの奥様にも共通することにびくりとしたが、あなたの事情を話すわけにはいかないので口に出せなかった。

「おめでとう、彩子! 大和さんと別れた日に、彼と出会えたのって、すごく運命的。いろいろ大変かもしれないけれど、彩子が強がらないでいられる人と出会えたのが嬉しい」

「ありがと。今まで付き合ってきた人とは全く違うタイプだけど、今だから彼の良さがわかったんだと思う。コロナ禍で新しい出会いは期待できないから、この出会いを大切にして、彼と全力で向き合っていくよ」

「今度紹介してね。写真あるの?」

「写真はないけど、身長190センチで伊勢谷友介に似てるかな。モデルしてたこともあるんだって。いま、紹介するのは難しそうだけど、病気が治ったら必ず」

「わあ、すごい格好いい人じゃない!! 彩子も背が高いからお似合い。紹介してもらえるのを楽しみにしてるよ」

「うん。相手より長身になるのを気にしないでハイヒールを履けるのが嬉しい」

 彩子は、ふふふと幸せそうに微笑んだ。166センチの彩子は、ハイヒールを履くと170センチを超える。颯爽と街を歩く姿がとても素敵だったことを思い出した。

「すーちゃんは、海宝課長とどうなってるの?」

「うん……。まあ、頑張るよ」

 言葉を濁す私に、彩子は心底案ずるような眼差しを注いでくれた。

「くれぐれも、無理はしないでね」

「ありがとう。ところで、竹内くんの婚約の話、聞いた?」

「聞いた、聞いた!! 急展開だよね。早くコロナが収まって、3人でお祝いできるといいね」

「本当にそう思うよ!」

 新型コロナウイルスがもたらした影響は、ウイルスが収束しても決してなかったことにはならない。コロナ禍で幸せを掴んだ同期2人を思うと、自分の立場が無性に悲しかった。

                ★

 あなたが、体調不良を理由に、毎朝10時に行われる営業部のZoomミーティングを欠席した。私は仕事に集中できないほどの胸騒ぎを覚えた。何かあったに違いないと思った。

 その日の夜、画面越しに見たあなたは、ぞっとするほど憔悴していた。スクリーンを通してもわかる顔色の悪さが、ただ事ではないことを物語っていた。

「妻が入院したんです」あなたは絞り出すような声で言った。

「え? いつですか?」

「昨夜、息子から妻の様子がおかしいと電話があって、すぐに駆け付けました。死んだように眠っていて、頬を叩いても、体を激しく揺すっても目を覚まさなかったんです。息子がゴミ箱に捨てられた薬の瓶を見つけて……。すぐに、救急車を呼びました。大量に飲んだようです。以前から、希死念慮が出ることは何度もあったのですが。実行したのは初めてで……」

 全身ががくがくと震え、言葉を紡ごうとしても、何も出てこなかった。

「長い間、妻の病気と向き合ってきたのですが、ここまで悪くなったのは初めてで、僕も動揺しています。ここ数か月、今までになく不安が強くて、妻の神経がまいってしまったのだと思います」

「本当に大変でしたね。仕事のほうは、支障がないようにカバーしますので、何も心配しないでください。少し休みを取ったらいかがですか? 私にできることがあれば、遠慮なく言ってください」

「ありがとうございます。あなたに、こんな話を聞かせてしまい、申し訳ございません。これから、仕事のほうは、迷惑をかけることがあるかもしれませんが、どうか宜しくお願いします。妻は精神科の閉鎖病棟に入っていて、このコロナ禍で面会も叶わないので、僕と息子ができるのは必要なものを届けることだけです。だから、休暇は取得しなくても大丈夫だと思います」

 あなたが見せた折り目正しさに、途轍もない距離を感じた。

「諸々が落ち着いたら、あなたに話さなくてはならないことがあります。あの荒海を見た海岸に、一緒に行っていただけませんか?」

 県境を越えた移動は自粛が求められていると反論したかったが、そんなことは何も意味を成さないとわかっていた。

「わかりました」

 引き延ばしても、行き着く先が同じことは、最初からわかっていた。

17

 あなたと分かち難く結びついた冬の荒海が、1年前と変わらずに、そこにいた。

 鉛色の空も、飲み込むように襲いかかってくる荒波も、波消しブロックに乗り上げて生まれる無数の白い泡も、あの日と変わらなかった。無数の生命を育み、飲み込んできた海水の匂いも、力強く鼻腔に侵入してきた。

 1年前のあなたと私だけが、もうどこにもいなかった。 

 太古から繰り返されてきた自然の営みの前には、1年など、まばたきよりも短い時間だと思った。

 

 風は、あの日よりも穏やかだった。マスクをかけている2人には、大声を出さなくても話ができるのはありがたかった。

 あなたと私は、人気のない砂浜をしばらく黙って歩いた。あなたの背中が遠ざかるのが怖く、横に並んで歩いた。

 やがて、あなたは歩みを止め、私を正面から見据えた。

「いろいろ考えたのですが、僕はあのような状態になってしまった妻を見捨てることはできません……。勝手なことを言って、本当に申し訳ございませんが、あなたと一緒になることはできなくなってしまいました」

 一言も弁解しない潔さがあなたらしかった。 

 あなたに思いつく限りの罵詈雑言を浴びせ、会社に訴えてあなたを難しい立場に追い込むこともできた。新型コロナウイルスさえなければと恨むこともできた。

 だが、あなたを苦しめようという思いなど、これっぽっちも湧いてこなかった。

「最初からわかっていました。あなたがご家族を捨てることなどできないと」

「何と御詫びを申し上げていいかわかりませんが、本当に申し訳ございません。コロナさえなかったらと思います」

 あなたは深々と頭を下げた。砂浜にあなたの涙の染みができた。

「もう、やめてください。コロナがなくても、いずれこうなるとわかっていました。コロナはただのきっかけにすぎません」

 私はいつまでも頭を上げないあなたの体を起こし、指であなたの涙を拭った。


 波打ち際を歩き続けた。捨てられていた空き缶につまづき、転びそうになっても、体勢を立て直して歩いた。歩いていないと、悲しみで崩れ落ちてしまい、二度と立ち上がれなくなると思ったから。あなたの目の前で、荒波に飲まれてしまいたい衝動もあった。それでも、こうなってよかったのだという思いが、私の中にたゆたっていた。

 追いついてきたあなたが私の腕を強く掴み、止められない歩みを止めてくれた。心底私を案じるあなたの瞳を見て、あなたは私を愛しているとわかった。それだけで、もう十分だった。

 あなたは、右手でマスクの上から私の頬に触れた。

澪標みおつくしという言葉があります。水深が十分にあり、船が航行できる通路をみお。澪を航行する船が座礁しないよう、水深などを知らせる標識を澪標といいます」

 何度も声を詰まらせながら、あなたは言葉を絞り出した。

「僕にとって、あなたが……、愛するあなたと別の航路を選んだことが人生の澪標です。本当はあなたと一緒になりたかった! 残りの人生をあなたと共に歩きたかった……。僕はあなたと別れてまで、もとの航路に戻ることを選びました。だからこそ、これから何があっても、その航路から外れてはならないと思います」

「それでこそ、私が愛したあなたです」

「僕は、航路を外れそうになるたびに、ここであなたと別れたことを思い出します……」

 自然に笑みがこぼれた。私たちは万感の思いを込めて、互いへの感謝と謝罪の言葉を交わした。

 なぜ、私たちは出会ってしまったのかと運命を恨んだこともあったが、確かに意味があったのだ。


エピローグ

 Zoom画面の向こうで、少々お疲れ気味の彩子が手を振っている。背景に映るアンティークな掛け時計は、ただ同然で購入したという古民家の部屋に気持ちよく調和している。

「すーちゃん、今日は本当にありがとうね」

「こちらこそ、2人らしい素敵な結婚式に参列させてくれてありがとう。幸せパワーをたくさん分けてもらったよ。いま、透さんは?」

「店で明日の仕込みを手伝ってる。また、ゆっくり紹介するね。コロナ収まったら、泊りにきてよ。すーちゃんが北関東事業所に来てくれて本当に嬉しい!」

 背後で毛繕いをしていた茶白猫の柚子ゆずが、みゃううと鳴いて彩子の膝に乗る。

「ありがとう、楽しみにしてる。彩子、本当にお疲れ様。今までいろいろ大変だったんでしょう?」

「まあね。春からいろいろ変化が多すぎて疲れたけど、いまは頑張らなくちゃいけない時期だから」

「そっか、無理は禁物だよ。ところで、彩子のご両親は、まだ透さんとの結婚を許してくれないの?」

 彩子は柚子を撫でながら、複雑な笑みを見せる。「前も話したけど、最初から一貫して大反対」

「最初は、どうに紹介したんだっけ?」

「私たちは、透の強迫性障害と一緒に戦いながら関係を深めてきたでしょう。だから、透が回復して、同じ病気の患者さんを励ますために、仲間や先生方とZoomセミナーを開いたとき、透に内緒で私の両親に視聴してもらったの。私と透が協力して治療に取り組んだ経験を話すセッションもあったから、私たちを理解してもらうために一番いいと思って。そしたら、セミナー終了直後に、両親が強烈な反対メール送ってきて……」

「どんな?」

「父の送ってきたメールには、自分もお母さんも病棟の薬剤師をしていたことがあるから、心療内科の患者さんも見てきた。苦労するのは目に見えている。考え直しなさいってつらつらと。それからすぐ、以前父の紹介でお見合いしてお断わりした相手に、もう一度娘とのことを考えてほしいって連絡をとったみたいで……。お見合い相手からも、透はやめろってLineが入ってて……」

「お母さんは?」

「セミナー終了直後に、着信入ってた。2回も。後でかけ直したら、すごい剣幕で反対されて、互いに物をはっきり言う性格だから醜い言い争い。透には、挨拶に行っていい日程を聞いてほしいと言われてたのに、それどころではなくなっちゃった。透からも、セミナー視聴なんかしてもらうから、こんなことになったんだって責められて」

「じゃあ、ご挨拶には?」

「行ったよ、6回も。3回目からは、コロナ対策を理由に、家にも入れてもらえなくなって……。こんな時期なのに、何度も来るのは非常識極まりないって怒鳴られる始末。だから、もう諦めた。許してもらえなくても、式を挙げることにした」

「いいの? 彩子は辛いんじゃない?」

 彩子は歩み寄ってきた白柴犬の胡桃くるみの頭を撫ぜた。胡桃は、彩子の足にあごを乗せて目を閉じた。

「辛くないといったら嘘になる。でも、いま守らなくてはいけないのは、透の心と、私たちの関係。だから、早く式を挙げたかったの。私、透に頼りにされているのが本当に嬉しいんだ。父と母には兄も兄嫁も甥もいる。でも、透には私しかいない。それに、両親は心配してくれるからこそ反対してるとわかってるし、私たちが幸せになれば、いつか認めてくれると信じてる」

「そっか、彩子は守るべきものを見つけたんだね」

 画面の向こうで微笑む彩子から、以前にはなかった落ち着きと包容力が感じられる。幸せをつかみ取った親友は、神々しいまでに美しい。

「透さん、強迫性障害は治ったの?」

「たまに、強迫観念を引き起こすトリガーにぶつかるけど、やりすごす方法を身に付けたからもう大丈夫。ここまで回復した彼を心から誇らしく思う」

「よかったね。本当におめでとう。彩子を誇りに思うよ」

「ありがとう。ところで、すーちゃんは、今は誰とも……?」

「うん。まあ、いい出会いがあればと思うけど……。私は準備万端でも、このコロナ禍ではね」

 彩子は、何かをためらうように視線を2匹に泳がせた後、静かに切り出した。

「私、先月の週末、秋葉原で機器を探すために上京したんだけど、そのとき上野駅で海宝課長に会ったの。山手線のホームで偶然会って、少しだけ立ち話」

 躰にさっと緊張が走り、息を詰めて続きを待った。

「そのとき、彼からすーちゃんが使ってた香水と同じ香りがしたの。ロクシタンのエルヴァヴェールだっけ? あのグリーン系の」

「嘘、そんなはずない。彼はサムライのアクアクルーズしかつけないよ……」

「間違えるはずないよ。すーちゃんの部屋に泊りにいったとき、いつも漂ってた香りだもん」

 胸がきゅっと締め付けられ、喉元に熱いものがこみあげてくる。

「大丈夫、すーちゃん?」言葉が出ない私に、彩子が心配そうに問いかける。

「ごめんね。すーちゃんの再出発のためには、言わない方がいいかもしれないと思ったけど……。香水のこと、海宝課長に尋ねたの。そしたら、『僕の澪標です。死ぬまで使い続けます』って。直後に電車が来て、彼は急いでいるからと乗ってしまって、それ以上は聞けなかったけど。すーちゃんには、意味がわかるのかな」

 温かい感慨が胸に波紋を描くように広がっていき、声を上げて泣き出したいのを気力で堪える。

「彩子、教えてくれて本当にありがとう」

 あなたからもらったサムライ アクアクルーズは、あの荒海に還すと決めた。


(完)


主要参考文献、サイト  

加藤忠史『双極性障害 双極症Ⅰ型・Ⅱ型への対処と治療 第2版』(ちくま新書、2019年)

加藤忠史『双極性障害(躁うつ病)の人の気持ちを考える本』(講談社、2013年)

野村総一郎監修『新版 双極性障害のことがよくわかる本』(講談社、2017年)

双極性障害ABC   https://www.smilenavigator.jp/soukyoku/about/

双極性障害と全般性不安障害は高頻度に合併 https://www.carenet.com/news/general/carenet/42460

双極性障害患者の強迫性障害合併、その特徴は https://www.carenet.com/news/general/carenet/44846

厚生労働省 新型コロナウイルス感染症対策(こころのケア)https://kokoro.mhlw.go.jp/etc/coronavirus_info/